はじまりのうた

その朝、俺は初めてその呼び名を知った。

珍しく、四人そろって朝食をとっていた。いつもだいたい俺と忍人が早く、那岐と千尋は
のんびりしている。けれど今日は二人は校外学習(という名の遠足)だとかで、いつもよ
り早起きしてきている。俺はといえば、今日は珍しくシフトがずれて朝のバイトがなくな
ってしまい、のんびり新聞を読んでいた。
千尋がトーストを手にとって、テーブルの上を見回す。
「…お兄ちゃん、ごめん、マーガリン取って」
それは何気ない言葉で、聞き逃すことも出来たのだが、…俺はふと、顔を上げた。
……千尋は今、誰を呼んだんだろう?
すると俺の横で忍人が、自分の前に置いてあったマーガリンのカップを無言で千尋に押し
やってやる。
「ありがとう、お兄ちゃん」
本当にごく自然なやりとりで、…自然すぎて、俺はあっけにとられてしまった。
俺はよほど怪訝な顔をしたのだろう。斜め前に座っている那岐がふと顔を上げて、俺の顔
を見るなり小さくぷっと吹き出した。それを聞いて、俺をちらりと見た忍人は、ばつの悪
そうな顔をして目をそらす。千尋一人、周りの空気に驚く様子もなく、一生懸命パンをか
じっている。
忍人がごく自然に対応していて、那岐も驚いていないということは、さっき初めて使われ
た呼び名ではないということなのだろう。俺は朝が早かったり夜が遅かったりして、全員
と一緒に過ごす時間はあまりないから、知らなかったんだ。
俺の内心の感慨に気付いたわけでもないだろうが、那岐が間の悪い空気を取りなすように
話し始めた。
「2〜3日前くらいから、いきなり千尋が忍人のことお兄ちゃんて呼び出したんだよ。…
僕も最初はびっくりした」
その那岐の言葉で、ようやく食卓の微妙な空気に気付いたらしい千尋が、なあに、と俺た
ちの顔を見回した。
「…もしかして、私のこと?」
「そう、千尋のこと。…なんでいきなり、忍人がお兄ちゃんなのかなあ、ってね」
千尋は少し困った顔でうつむき、それはその、ともぞもぞ口ごもる。忍人は口元だけで苦
笑している。
「…いろいろあったのよ」
那岐はへらへら笑っているが、それ以上は追求しない。千尋が言いにくそうにしているか
らだ。これが言いにくそうにしているのが忍人だったらもう少し厳しく追及するのだろう
が、彼も千尋には甘いと見えて、彼女が困りそうだと見て取るとさっさと手を引く。
「うらやましかったら、風早も呼んでもらえばいい」
那岐の言葉に、千尋がちらと俺を見て困った顔をして、それから那岐に向かって唇をとが
らせた。
「でもじゃあ、お兄ちゃんて呼んだときに二人返事することになるじゃない」
「風早はお兄ちゃんて柄じゃないだろ」
「じゃあ何て呼ぶのよ」
「パパだよ。ねえ、パパ?」
那岐に呼ばれて、俺はがっくりと肩を落とした。
「…頼むから、それは勘弁してくれないか」
くすくすと忍人が笑い出す。俺が情けない顔で彼を見ると、申し訳なさそうに笑いおさめ
たが、手で口を覆ったところを見ると、笑いがおさまりきったわけではないらしい。
「それはいいから、そろそろ準備した方がいいんじゃないのか?何時集合だっけ」
「学校に7時半。…わあ、もう7時過ぎた、やばい!」
「千尋が寝坊するからだ」
「寝坊してないよ、髪の毛をまとめるのに時間がかかったんだよ」
「それを見越して起きてないのを寝坊って言うんだろー」
言い合いながら、ぱたぱたと千尋と那岐が食堂を出て行く。ため息をついた忍人がそっと
席を立ち、…ふと、俺の椅子の背に手を置いて立ち止まった。
「…やめてくれと、姫に言おうか」
忍人の顔は見えない。どんな表情でその言葉を言っているのかはわからない。俺の頭上か
ら降ってくる声は静かで表情に乏しい。…こちらに来てから、俺と二人で話すときの彼の
声はいつもこんな調子だ。師君の屋敷にいたときとは違う。どこか常に遠慮するような、
困惑すら感じられる声。
俺はゆっくりと首を横に振った。
「千尋がその呼び名を気に入っているようだから、…そのままでいいんじゃないか?…俺
は少しびっくりしただけだよ、初めて聞いたから」
そう言って見上げると、忍人はどこかほっとしたような、小さな笑顔を俺に向けた。その
表情を見さえすれば次の質問はしなくてもよさそうなものだったけれど、俺は敢えて聞い
てみた。
「…で、君は?」
「…?」
忍人は小首をかしげる。
「君は、お兄ちゃん、でいいのかい?」
「…」
忍人は、じわりと笑った。照れくさそうに、困ったように、…うれしそうに笑った。
ああやっぱり、と俺は思う。…その顔が見たくて、わざと聞いたんだよ、忍人。君がうれ
しそうに笑うと、俺もうれしいよ。
「…うん」
ああ、でなく、うん、と彼が言ったことが、ふと胸に迫った。いつも大人扱いを要求して
いた彼は、そういう子供っぽい受け答えをしたことがない。肩を張って、背筋を伸ばして、
一日でも早く俺たちと同等になろうとしていた。
…だがここにいると、少し違うらしい。俺が不在の間、那岐と千尋を守らねばならないの
は自分だと常に気を張っている分、時々俺と二人きりだと気が抜けると見えて、ごくたま
に、こんな風に少し力の抜けた応対が出る。
怒るのが目に見えているから絶対忍人本人には言わないが、…俺は時々聞ける忍人の子供
っぽい物言いが愛おしくて大好きだ。

その日、いつものとおり俺が夕方のバイトで遅く帰ってくると、夕食当番だった千尋が食
事と共に食堂で待っていてくれた。
「待ってなくてよかったのに、千尋。…後は自分で出来るから、先に寝てください」
「うん、でもじゃあ、あっためるのだけやってあげるね。あとはお願いします」
焼いてあったハンバーグを電子レンジにいれ、コンソメスープを鍋で温める。炊飯器から
ご飯をつけながら千尋がふと、
「あのね、風早」
俺を振り返った。
「私が、忍人のことをお兄ちゃんて呼ぶの、嫌?」
俺は苦笑した。
「嫌じゃないよ。…朝のあれを気にしているんだったら、俺は初めて聞いて少しびっくり
しただけだ。……ああでも、…そうだな、いい機会だから、少し聞いてもいい?」
「…?…うん、いいよ」
茶碗を俺に差し出して、千尋は俺の前にすとんと座る。
「千尋が忍人のことをお兄ちゃんと呼ぼうと思ったのは、どうして?」
千尋はおでこを赤くしてうつむいてしまったが、やがて訥々と、忍人が昼間にどこかへ歩
いていくのを見たこと、慌てて追いかけてお巡りさんに職質されたこと、そのときに忍人
の取った対応、等々を話してくれた。
「お兄ちゃんが説明が面倒くさくて、その場限りのつもりで私のこと妹って言ったんだっ
てことはわかるの。……でも、……私はそれがとてもうれしかった」
ずっと、わからなかったの。…どうしていいのか。
「風早や那岐とはこうやって普通に話せるのに、お兄ちゃんとはなぜだかうまく話せなか
った。つかまえようと思っても、手が届かないみたいな、つかまえたはずの手から逃げち
ゃうみたいな、そんな感じがしていたの」
俺はずきりと胸が痛んだ。
それはたぶん、いるはずがない忍人を無理矢理にここに連れてきた違和感のためだろう。
まさか千尋にそう説明するわけにもいかないので、俺はただ黙ってふんふんと彼女の言葉
を聞く。
「でも、お兄ちゃんて呼んだとき、…変な話だけど、私はお兄ちゃんをつかまえた気がし
た。鬼ごっこみたいだけど、つーかまえた!って感じだったの」
だからね。
心細そうな顔を千尋はした。
「もしお兄ちゃんて呼ぶのを止めたら、…またお兄ちゃんがつかまらなくなりそうで、…
今度こそ本当に、私を置いてどこかに行ってしまいそうな気がして、怖いの」
「俺や那岐のことは、そうは思わない?」
「…うん、思わない」
きっぱりと千尋は言った。そんなふうに不安になるのはお兄ちゃんだけなの、と。
「だから、お兄ちゃんて呼ぶこと、許してほしい」
まっすぐな青い目に、俺はなんとなくやられた、という気持ちになる。…ああ、君のその
目には逆らえない。…元々この件で逆らう気はないけれど。
「許すも許さないも。君と忍人がそれでいいなら、俺はいいよ。……朝聞いたら、忍人も
そう呼んでほしそうだったし」
千尋は目を丸くする。
「ほんと?」
「ああ」
「ほんとにほんと?お兄ちゃんが呼んでほしいって?」
「ああ。…そう言ってたよ」
その瞬間、千尋は花が開くように笑った。
…ああ、ずるいなあ。
俺は思わずそう思ってしまった。千尋にこんな顔をさせるなんて。忍人はいいなあ。
千尋は急にご機嫌になった。ちん、という音がして止まった電子レンジからハンバーグを
取り出すときも、煮立ってしまったコンソメスープをよそうのも、鼻歌まじりだ。
とどめに、俺に向かってこう聞いてきた。
「ねえ、風早も呼んでほしい?」
「…パパなら遠慮しておくけど」
「ちがうってば。…そうだなあ、大きいお兄ちゃん、ていうのはどう?」
俺は笑って首を横に振った。
「長くて呼びにくそうだよ」
「じゃあ、大兄ちゃん」
俺はまた笑う。
「風早でいいよ、千尋。…ずっとそう呼んでたじゃないか」
そう、君はいつだって俺をそう呼んでいた。ほんの小さな子供の時から、…立派な王とな
って国をその背に背負ったときも。
かざはや、と。
俺は君にとって、ただの風早でいるのが一番好きだよ。だからそれでいい。
「ありがとう、もういいよ、千尋。…今日は遠足で疲れたんだろう、もうお休み」
「うん、お休み」
にっこり笑って、彼女はぱたぱたと階段を上がっていった。その音を聞いてがちゃと階上
の部屋のドアが開く気配。お休み、那岐、お兄ちゃん、と千尋が言う声が聞こえる。…お
休み千尋、と返す声は二重唱。
……俺の大切な愛しい人たち。

………俺たちは、ここからやっと始まる。