白梅

真冬ではあったが、日の当たる南向きの斜面の道はほんのりと暖かい。熊野は既に早春の
趣だ。
千尋と柊は二人きり、ゆっくりと歩いていた。目的地は狭井君に勧められた温泉だ。

即位してからずっと、千尋は思い詰めたように仕事に没頭していた。忙しい方が体はとも
かく心は楽なこともあるだろうと、度を超さない程度に抑えをかけつつ見守っていた側近
達だったが、さすがにそれが一年近くになると話は別だ。
あんた、たまにはちょっと休んだらどうだい。
朝議の席でそう言ったのは岩長姫だったが、元々千尋の体を心配していた那岐や遠夜はも
ちろん、道臣や布都彦、狭井君までもが同意して、逆に休まないわけにはいかない状況に
千尋は追い込まれた。
追い込まれつつもどこか渋る顔の彼女に、熊野へ行幸なさいませんかと勧めたのは柊だっ
た。さほど遠くはありません、海でも見ればご気分も変わりましょう。今の時期、熊野は
温暖ですしいい湯も沸きます。
表向きの理由を並べ立てた後で、こそりと、
「熊野は、一ノ姫や羽張彦との思い出の地です。…私もぜひ、お供いたしたく」
そう耳打ちすると、ようやく、何かがほどけた顔になって千尋は行幸を了承した。
それでも、行幸を大がかりにはしたくないと彼女が言い張るので、柊だけがお供を言いつ
かって、こうしてのんびり歩いている。

鳥が啼いている。あれは何の鳥だろう。
千尋がふと足を止めた。
斜め前を歩いていた柊は、気配を感じて同じように足を止め、振り返る。
若い女王陛下は空を見て何かを探している様子だった。
「…陛下…?」
どうなさいましたか、と呼びかけると、千尋ははっと我に返った顔で首を横に振り、ごめ
んなさい、何でもないの、とつぶやいた。
「ちょっと香りが」
「香り?」
言われて初めて柊も、きりりと冷えた空気に立ち上る馥郁とした香りに気付く。なぜ今ま
で気付かなかったかと思うほど、強い香りだ。
「…梅、ですね」
「…梅」
柊の指摘に応じる千尋は、どこかぼんやりとしている。
「ええ。宮ではまだ咲いていませんが。熊野は季節が早いのですね。…しかしこの香りは
…。この辺りの梅は、宮のそれよりも薫り高いようだ」
言いながら、柊は千尋をうかがい見る。
いつも明るく素直で、感情がはっきり表に出る女王陛下だが、先刻から一体どうしたとい
うのだろう。
いぶかしんでいると、千尋がぽつりとつぶやいた。
「きっと、あの花はここで手折られたんだわ」
「…?」
ひそりと眉を寄せる柊の気配にようやく気付いたのか、千尋はようやく瞳の焦点を目の前
の青年に合わせた。
「…ねえ、柊は知ってる?」
「…何を、でしょう?」
「この香りの花が、忍人さんの部屋にあったこと」
去年の春を待たずに黄泉路をたどった弟弟子の名前に、柊は顔色を変えそうになって必死
にこらえる。千尋はあえて見ぬふりをしているのかあるいは気付かないのか、淡々と言葉
を続けた。
「あの戦いの後、忍人さんが寝付いたでしょう。遠夜がしばらく面会謝絶にしていて、閉
め切って、薬を運ぶ遠夜や那岐以外はほとんど誰も部屋に入らなかった。…でもある日、
今日は忍人さんの調子がいいからと部屋に入れてもらったら、花が一枝枕元に挿してあっ
て、その花が、今までかいだこともないようなうっとりするほどとろみのある香りだった
の」
千尋のつぶやきを聞きながら柊は静かに記憶を探る。

忍人が少し快復したと聞いて、柊もこっそりと彼を見舞った。まだ風が冷たい時期なので、
外気を多く取り込むのは体に触ると、ほとんど一日中閉め切られた部屋に入ったとき、…
ああ、病の匂いがする、と思ったことを思い出す。
それがどんな匂いかと問われれば答えにくい。薬の匂いではないのだ。病そのものの匂い、
とでもいえばいいか。しめっぽいような、熱のこもったような、じわじわと重い匂い。
あるいはそれは本当の匂いではなく、病の気配のようなものを匂いとして感じているだけ
なのかもしれない。そんな幻のような匂いだ。
…けれど、死の匂いではない。
このかわいげのない、けれど大切な弟弟子はまだ大丈夫だ。病の匂いならば、いつかは消
える。…そう思いこむことで柊は無理矢理に自分を安心させた。
それは結局、かりそめのものでしかなかったけれど。

柊は一つ頭を振った。思い出したくない場面まで思い出しそうになったからだ。
千尋の言葉はまだ続く。
「熱が下がって少し調子が良くなったとはいってもまだあまり無理はさせられない。私が
部屋にいたのはほんの数分だったけど、その短い間に忍人さんが一瞬ちらりと枕元の梅を
見たの」
柊は相づちを差し挟むことなく千尋の一人語りを聞いている。
「見た、っていっていいのかしら。…花そのものが見えていたかどうかはわからない。そ
の方向を振り仰いだだけ。…でも香りだけは確かに忍人さんのもとに届いたんだと思う。
忍人さんはその瞬間幸せそうな、…本当に幸せそうな顔をしたから」
千尋の目にはその花とそのときの忍人の笑顔がうつっているのだろうか。彼女の瞳は再び
おぼろな色になっている。
「私、うらやましかった。…ううん、ねたましかった。忍人さんにあんな顔をさせる花が。
…その花の贈り主が」
花の贈り主の名を、千尋は言わない。だが、彼女は知っているはずだし、柊も知っていた。
黒衣を翻し颯爽と宮中を歩いていた姿が脳裏に浮かぶ。
「…だから、忘れられなかった。たった一度かいだきりのこの香りが、胸に刻まれて消え
なかったの」
若い女王は目を閉じた。慈しむようになつかしむように深呼吸を一つして香りを吸い込み、
泣き笑いの顔で柊に向き直る。
「ねえ柊、私たちはまだ、既定伝承の輪の中にいるのかしら。めぐる歴史のその輪から、
抜け出せないでいるのかしら」
柊は虚を突かれて、ただ、は、とだけいらえを返した。
千尋は唇では笑っているのに、眉はつらそうにきつく寄せられている。
「…もしそうなら、あの人達ももう一度、めぐりあえるのかしら」
こんなことを言ってはいけないとわかっているけれど。
「…そうだといいと、思うわ」
「……!」
「今度めぐりあったときは、平和な場所で肩を並べて歩いてほしい、…そう思うわ」
拠る河岸は別れていても、語らい笑える、そんな時代を一緒に生きてほしいわ。
柊が何も答えられずにいると、千尋は急にすっきりした顔をして、行きましょう、と笑っ
た。
「温泉はまだもう少し先なんでしょう?早くついてゆっくり休みましょう」
柊の答えを聞かないのは彼女の優しさなのだろうか。顔を見ないでまっすぐ先に立って歩
いていくのも。…それが真実かどうかはわからないが、今はそれがただありがたい。
柊はゆっくりと千尋の背を追いながら、ゆるりとざわついた心を静めていく。

恐らくまた、歴史はめぐるだろう。しかし龍神の神子は既定伝承のからくりに気付き始め
た。ならば、次にめぐるアカシヤは我々に何をもたらすのか。

梅が馥郁と香る。
戦いしかなかった彼らの傍らに美しい花が咲くことを、今はただ願うのみ。