白桃花

橿原はまだ春が浅い。
忍人は見習い兵の訓練を終えて自室に戻りながら、ぼんやりと空を見上げた。うっすら霞
がかかったような空はいかにも春らしいが、吹きすぎる風はまだ冬の冷たさでとげとげし
い。
那岐と遠夜は、春の薬草を探しに熊野へ行っている。海に面して暖かい熊野は、橿原より
も春が早いというが、吹く風も違うのだろうか。彼方には本当に春の草が芽吹いているの
だろうか。
首を回しながら自室に入ろうとして、忍人はふと意識を集中した。
…人の気配がある。
一瞬警戒しかけたが、すぐに忍人はその警戒を解いた。
ほころびそうな頬を引き締めながら、彼は扉を開ける。

だらりんと寝台に横たわっていた青年が、物音に反応して起き上がった。
「お帰り」
ねぎらわれて、忍人は吹き出しそうになった。
「…それは俺が言うことだと思うが」
「んん。…でもここ、忍人の部屋だし」
けだるそうに寝台に足を投げ出したまま、那岐はざかざかと前髪をかき乱した。照れ隠し
が明白な仕草に、忍人はもう一度ほとりと笑う。
「だが遠出していたのは那岐の方だろう。…いつ戻った?」
「さっき」
「遠夜も?」
「一緒に帰ってきたよ。…いろいろ膨大に採取してきたからさ、整理は明日にしようって
とりあえず倉庫に放り込んだのに、遠夜はそのまま倉庫にこもっちゃった。今頃整理し始
めてるんじゃないかなあ」
真面目だから、遠夜。
言いながら、那岐は小さな欠伸をひとつした。
「…眠いのか?」
「ちょっと朝が早くてね」
「那岐が?」
「なんかそれ、失礼」
むつりと那岐は唇をとがらせた。
「僕だってその必要があれば早起きするさ」
会話を交わしながらも、どこかかみ合わなかった視線が、そのときようやくひたりと合っ
た。那岐の早緑色の瞳がじっと忍人を見て、ふわりと笑う。
「おみやげ」
差し出されたのは一枝の花だった。白い丸いかわいらしい花に、きれいな緑色の若芽。
橿原に今咲いているのは梅くらいだが、この花は梅ではない。
忍人の疑問を先回りするかのように那岐が、
「桃だよ」
と言った。
「…桃?」
薄紅の花を思い浮かべてから、忍人は首をひねった。目の前の花は清々しく白い。
「珍しいだろ、白い桃の花」
「確かに。…だが、花を土産にするなら、俺より陛下の方が」
女性の方がふさわしいのではないか。そう言いかけると、那岐はなぜかまた唇をとがらせ
た。
「忍人に似合うと思って取ってきたんだ。…千尋に贈るなら、濃い紅の花にするさ。その
ほうが千尋の髪によく似合う」
いったん差し出した枝を那岐は手元にもう一度引き寄せ、小枝を折り取って忍人のこめか
みあたりの髪に挿した。
「…ほら。花の白も葉の緑も、君の黒髪によく映えるだろう。…梅も清らでいいけれど、
桃は邪気を払う霊力の強い木だ。忍人に合ってる」
これではまるで花かんざしだと、忍人は那岐に抗議しかけたのだが、まっすぐ見つめてく
る那岐の瞳に宿る光に、ふと言葉を呑み込んだ。
なぜかじわりと、胸に熱が宿る。
言葉を切って忍人のそぶりをじっと見ていた那岐が、やや目を伏せながら、また口を開い
た。
「…僕が風早や千尋達と過ごした世界には、花言葉という俗信があった。花にまつわる伝
説をあらわした言葉もあったけど、多くは花の風情を言葉に託すものだった。…たとえば
あざみなら『厳格』や『独立』、柊ならば『用心』や『先見』だ」
「…柊は、用心に先見」
思わず復唱した忍人に、そうだよ、と那岐はくすりと笑う。そうして立ち上がり、それか
らね、とやわらかな声で唇をほころばせ、
「…桃の花の花言葉は、『私はあなたのとりこです』だ」
「…っ」
ぐいと忍人の身体を引き寄せて抱きしめて、耳朶をかむようにして那岐はささやく。
「…僕が忍人に贈るのに、ぴったりだと思わない?」
さらりと言い放ってくすくす笑う。
「……隙だらけだよ、忍人」
腕の中で硬直していた忍人の身体が、その那岐の軽口でようやく弛緩した。眉間にきつく
しわを寄せ、抗議するように、拗ねるように、忍人はつぶやく。
「…相手が君だからだ」
ため息を一つ。
「……君は、…とんでもないことをさらりと言う」
俺は驚かされるばかりだ。
目を伏せ、いやいやをするようにかすかにゆれる忍人の頬を、那岐はその右手で捕らえた。
「僕がそんなふうになったのは、忍人のせいだよ」
不服そうに、忍人が那岐を見返す。那岐は受け止めてうっすらと笑う。
「忍人が悪いんだ。…はっきり言わなきゃ、わかってくれない」
僕がどれほど、君のことを愛しているか。離れている間、どれだけ君に会いたかったか。
一度強くぎゅ、と抱き寄せてから、那岐は言いつのる。
「少しでも早く君に会いたくて朝から歩き通しで宮に戻ったのに、君は僕が早起きしたこ
とを不思議がるばかりだし、せっかく君のために選んだ花も、自分ではなく千尋に贈れば
いいなんて言う」
「……」
忍人は思わず目を伏せた。…返す言葉がない。
「…焦がれてたまらないのは、僕だけなのかな」
「ちがう」
慌てて忍人は那岐の言葉を遮った。
「ちがうが、…俺は、…君のようには」
自分は、那岐がそうするようには、思いを言葉に出来なくて。
「だが、…俺も」
忍人は、贈られた白い花を髪から抜いて那岐の胸元に挿した。そしてその花びらごと、そ
っと、那岐の胸に口づける。その鼓動が聞こえる場所、愛しい人の命のありかに。
「…俺もずっと、君に囚われている」
これから先も、きっと、ずっと。
「…うん」
こつんと額が額に当てられる。鼻梁と鼻梁が触れあい、頬をすり寄せ、……やがてひそや
かに唇が重なる。
ひたりと寄せ合う身体の熱で、ふっくらと桃のつぼみがまた一つ、開いた。

やがて春。色とりどりの花が開く季節。
けれど、どんな花が世界を彩っても、私をとりこにする花は、たった一人のあなただけ。