白雨

「…あれ」
那岐が制服を着替えて階下に降りると、千尋が制服のまま、洗濯物を抱えて勝手口から駆
け込んできた。
「何、どうしたの?」
「急に暗くなってきたの。降りそう」
「え、マジ?」
と那岐が言ったとたん、白光が窓から差し込み、がらがらがらと、それこそ天よ割れよと
ばかりの音で雷が落ちた。
「うわ、近い」
「雷、どこか落ちたんじゃない?大丈夫かな?…雨は?」
「いや、まだ…、っと」
まだ、と那岐が言い終える前に、天の底が抜けたかと思うような、猛烈な雨が降ってきた。
二人で窓越しに外をのぞいたが、すぐ前の家の塀すら見えないような雨だ。しぶきで視界
が白くなっている。
今週は忍人が放課後担当だな、と、那岐はちらりと思った。
ここのところ、耳成山あたりから侵入してくる荒魂が増えている。帰り道でも一つ二つ気
配を拾った。
雷の中で刀を振りかざすほど、忍人も愚かではないだろうが、しかし、彼は鬼道が使えな
い。荒魂に襲われて、刀が使えなければ、体術で撃退するしかないだろう。一体二体なら
ともかく、仮に大量に荒魂が現れたら、刀なしで撃退しきれるだろうか。
「……」
那岐は、ふらりと玄関に足を向けた。
「…え、那岐?どこに行くの?」
「…忍人、たぶん傘を持って行ってなかったから。…今日の時間割ならそろそろ駅には着
いてる頃だろうし、ちょっと見に行ってくる」
「でも、これ夕立だし、そんなに降り続かないんじゃない?お兄ちゃんもきっと、やむま
で雨宿りしてるよ。…そもそも、傘で防げるような雨じゃないって」
「風早ならそんなに心配しないけどね。…でも忍人はああいう性格だから。仮にこれが台
風でも直線距離で帰ってきそうだろ?」
「…いくらなんでもそんな…」
言いかけて、千尋は額を押さえた。…豪雨の中、濡れ鼠でずんずんまっすぐ帰ってくる忍
人の姿を想像したら、否定しきれなくなったらしい。
「もしかしたら、って思うだろ?見てくる。千尋、夕食当番お願い」
「あ、ずるい!今日は那岐の当番の日じゃない!じゃ、私が行く」
「こんな雨の中、しかも最近不審者がうろついてるって話なのに、千尋を一人で外に出せ
るわけがないだろ?ケチャップご飯でなければ何でもいいからさ」
「そんなお兄ちゃんみたいなメニューにしないよ、失礼な!」
忍人が一度作った、冷蔵庫の中の残り物を全部ご飯と一緒に炒めてケチャップでごまかし
た代物を思い出して、千尋が叫んだときには、那岐はもう玄関を出て表で鍵を掛けていた。
「…あれ、外鍵かけてくんだ」
千尋は思わずぽつりとつぶやいた。

家の外から結界を張って、自分には雨をはじく術をかけて、那岐は傘を手に持って走り出
した。普段なら雨をはじく術などかけないが、今日は傘を差して走るのがまどろっこしか
った。
しぶきのような雨で視界が悪い。那岐は目をこらしながら耳成山への曲がり角を目指して
走って、…その手前で、はっと足を止めた。
曲がり角の電柱の影に、誰かがいる。
背が高い。髪が長い。彼は那岐が走って来る方向には背を向けていて、こちら側から見え
るのは左側の顔だけなのだが、その左目は一心に何かを見ている。
「……!」
もしや、これがあの、と那岐が思ったときだった。
男が不意に那岐を振り返った。
彼もおそらく、この雨の中を傘も差さずに走ってくる者がいるとは思わず、油断していた
のだろう。その顔にかすかな驚きを那岐が見て取ったか取らないかの間に、その姿は、不
意にそこだけ激しくなった雨にまぎれて消えた。
あとはただ、視界を白く染める雨と、電柱と、塀だけ。
那岐は一瞬呆然としていたが、彼が見やっていた方角を見て、また猛然と走り出した。
彼は、ぼんやりと耳成山を見ていたのだ。
…そこにいるのは。

登山道をさほど登らないうちに、那岐は降りてくる忍人と行き合った。
「…忍人!」
「那岐?…どうした、今日は君の番じゃないだろう」
予想通り濡れ鼠の忍人は、驚いた顔で前髪を少しかきあげた。
「いや、…雷が」
忍人は一瞬眉を上げたが、那岐の言わんとすることにすぐ気付いて、皮肉な笑みを浮かべ
て肩をすくめる。
「小物くらい、刀なしでも追い払える」
「小物だけとは限らないだろ」
那岐は唇をとがらせた。
「不審者だってうろうろしてる」
「不審者なら余計に、刀を振り回すわけにはいかない…」
何気なく軽口をたたきかけて、忍人ははっとして那岐を見た。
「…まさか、会ったのか?」
「会ったというか、…影をちらりと見たというか」
荒魂を撃退した安堵感からか、あるいは疲れからか。比較的ゆっくりした足取りだった忍
人の足が不意に速くなった。
「千尋は」
「家全体に結界を張ってきた。たぶん大丈夫」
「だが、早く帰るに越したことはない。もしかしたら、俺たちがみな家を空けたと見て、
家の方に向かったかもしれない」
いつもなら彼の足取りについて歩くのは別に苦ではないが、今日は少し追いつかない。
那岐が遅れがちなことに気付いて、忍人は少し歩く速さを遅くした。
「すまない」
「いや、僕が遅いのが悪い。…これ、傘。一応さして。僕もさすから。君に傘を届けるっ
て名目で家を出てきたんだ。ささずに帰ってきたら、千尋が怪しむ」
忍人はうなずいて、素直に黒い傘をさした。その横で那岐も青い傘を広げる。
雨は少し、落ち着いたようだ。まだ小降りとまではいかないが、傘をさしてさえいればな
んとかしのげる。
「…どんな男だった」
「…背が高くて、髪が長くて」
忍人が額を押さえた。
「それじゃ、ご近所の感想と変わらない」
「僕に気付いたとたん、相手が逃げたんだよ…」
忍人は嘆息して、
「…まあ、君に何もなくてよかった」
とぽつりと言った。
「…何それ」
「風早と言っていたんだ。不審者の狙いが千尋だけとは限らないと」
ぶるりと那岐は肩をふるわせる。
「そういうの、やめてくんない!?」
「本気で話していたんだが」
ぎゃー、と頭をかきむしろうとする那岐を見て、忍人は少し笑って、その肩をぽんとたた
いた。
「冗談だ。それに君を見て逃げたんだろう?…襲われなくてよかった。…もう大丈夫」
その暖かい声に、那岐は先刻の不安がよみがえるのを感じた。
あの男はおそらく、豊葦原の人間だ。しかも荒魂化していない。どうやってこの異世界に
やってこれたのかはわからないが、単なる不審者などではなく何か目的を持って葦原家を
うかがっているのだろう。
だが、今日その男が見ていたのは葦原家の家の中ではなく、耳成山だった。
……忍人がいた、場所。
胸に迫る不安に、つい那岐はぽろりとこうもらした。
「…あのさ。…その男、耳成山の方を見ていたんだ」
「は?」
「不審者はじっと家を見てるって話だっただろ?でも今日僕が見たのはあの」
と、目前に迫ってきた曲がり角をさして、
「電柱の影にいて、耳成山を見ている姿だった」
そのとき耳成山にいたのは忍人だ、と続けようとして、那岐は忍人の気がひた、と静まる
のを感じた。
…しまった。
何がしまった、なのかはわからなかったが、とにかくしまった、と那岐は思った。…思っ
た瞬間、彼は叫んでしまっていた。
「不審者の狙いが忍人だったらどうしようー!」
そのふざけた声に、忍人が額を押さえる。
「…やめてくれないか」
「きっとそうだ、そうにちがいない。不審者というより、きっとすごくレアな趣味の持ち
主の変質者なんだ。忍人がびしばし千尋をしかりつけてるのを見て、僕も叱られたいとか
思ってるんだ、きっとそうだー!」
ありもしないことをめったやたらと叫ぶと、なんだかそんな気がしてくるから不思議だ。
そうだ、あれは豊葦原から忍人を奪いに来た誰かじゃない。ただの不審者だ。この世界の
不審者だ。
「…那岐。やめてくれ、頼む」
忍人が本気で困惑した声を出した。ひたりと静まっていた気が、少しほどけている。那岐
は少しほっとして、…でもだめ押しで、意地の悪い顔を作って、ちらりと忍人をねめつけ
た。
「さっきの僕の気持ちがわかっただろ」
「わかった。ものすごく気持ち悪い」
いつもは二本くらいしかない忍人の眉間のしわが、四本くらいある。
「…冗談だよ、忍人」
「当然だ」
でも気持ちが悪い、と付け加えて、忍人はまた足を速めた。
那岐はその背中に、こっそり聞こえないようにつぶやく。
…大丈夫。…守るから。
聞かれたら絶対しかりとばされるだろうな、と思うから、絶対大きな声では言わないけど。
…大丈夫。…絶対僕が守るから。
忍人の早足に駆け足でついて行きながら、那岐は自宅への道をたどる。
千尋の作っているらしい、トマトソースのにおいがただよってくる。
玄関を開ければ、きっと千尋が柔らかな笑顔で迎えてくれる。傘をさしていても濡れ鼠の
忍人に呆れて、ぱたぱたタオルを取りに走る。忍人には大きなバスタオルを、大して濡れ
ていない那岐にもちゃんと、フェイスタオルを持ってきてくれるだろう。
風早はきっと濡れずに帰ってくる。忍人がびしょ濡れになった話を聞いて、大げさに心配
して、無理矢理に風邪薬を飲ませようとするだろう。いやがる忍人を、那岐と千尋は笑う。
…きっと、この日常は、まだ続く。
那岐は歩きながら、かすか、目を閉じた。

神様どうか。僕の大切なものすべてを守る力を、僕にください。