花火 …探していたのは、ふわふわとやわらかい笑顔の少女だったのに。 大地は前方を見てため息をついた。 ……自分が見つけたのは、皮肉と軽口で心を覆ったあの男か。 人混みから少し離れた路地の隙間で、壁にもたれて空を見上げている。そんな隙間からど れほどの花火がと思って路地に踏み込んでみると、トリミングされてはいるものの、意外 ときれいに見えたので少し驚く。 空を見上げる白い横顔に、花火の光が映える。黙っていれば静かな風情の彼だが、大地が 声をかければ、またいらぬつばぜり合いになるのは目に見えている。 ……それでも無視して通り過ぎられないのは、何故なんだろう。 答えの出ない問いに苦く笑いながら、大地は彼の名を呼んだ。 「……土岐」 花火の音や雑踏のざわめきの中では、とうてい彼の元には届かないくらいの声しか出なか った。…それなのに、土岐はゆるりと首を回し、まるでそこにいることがわかっていたか のように、大地にうっすら笑いかける。 「……こんなとこで、一人で、どないしたん」 それは俺のセリフだよと言いそうになって、こらえる。ここ何日かで大地も少し学習した。 問いに問いで返すと、蓬生との会話は必ず膠着状態になる。素直に答えるのが一番、話が スムーズだ。 「ひなちゃんが迷子になってね。…携帯で連絡とったんだけど、どうもはっきりした目印 がない場所みたいで、どこにいるかはっきりしないんだ」 電話の内容を思い出して、大地は首をすくめた。 「まあ、ひなちゃんはまだ横浜に不慣れで、おまけにこの人出で夜だから、無理はないけ ど。……とりあえず、今いる場所にじっとしているようにと言って、手分けして探してい るところ」 「頼りないこっちゃなあ」 蓬生は鼻をならした。 「小日向ちゃんのこととちゃうよ。君らがや。大の男が四人もそろって、女の子一人、見 失うとったらあかんやん」 全く仰るとおりで、返す言葉もない。 「で、どこにいるか、少しはヒントがあるん?」 「花火が見えて、観覧車が見えるところ」 「…それはなかなか」 じわり、とうとう蓬生の瞳にも苦笑がにじむ。 「捜索範囲が広そうやね」 「そうなんだ。…おっと」 大地の携帯が鳴った。慌ててとる。 「…響也?……ひなちゃんは?」 電話の向こうはかなり騒がしい。携帯を耳に押し当て、必死で聞き取る。 「……そうか、よかった。…うん、わかった。うん、それじゃあまた」 携帯を切ってポケットに突っ込む大地の姿をぼんやりと蓬生は見ていたが、そのまま大地 が腕組みして自分の隣の壁にもたれたので、とがめるように言った。 「行かへんのん?」 「ん?」 「小日向ちゃん、見つかったんやろ?」 「ああ、響也が見つけた。律と合流して寮へ戻るらしい。一安心だ」 「ほなら」 「君は?」 「…俺?」 「…君も、横浜には不慣れだろう。…一人でこんなところでぼうっとしているのを、置き 去りにするのは何となく寝覚めが悪い」 蓬生は眼鏡のブリッジを押し上げ、軽く蔑むような表情を見せた。 「女の子やあるまいし」 「こういうことに男女は関係ないさ。治安が悪い場所ではないけど、こういうお祭り騒ぎ の中では何が起こるかわからない。…不慣れな一人歩きは危険だよ」 詭弁を詭弁らしくなく語るのは大地の得意技だが、蓬生には見抜かれそうな気がしてなら ない。ついつい、彼から目をそらしてしまう。 「……もちろん、うっとうしいからすぐさま消えろと言うなら従うけどね」 「…」 蓬生は迷うようにちらりと大地を見てから目を伏せた。 「…話の持っていき方がこずるいな、榊くんは」 そうつぶやいて肩の力を抜いたのは、どうやらそばにいることを許可したという意味らし い。つられてふと、大地も肩の力を抜いた。…思ったよりも緊張していたのか、力の抜け た肩はじわりと重かった。 「…こずるい、か。…かもしれないな。…君にNoを言われたくないから、なるべく言葉 を選んでる」 「…なるほど。それで、今日は余計なことを聞かへんわけや」 目的語や形容詞を極力省く話し方はお互い様だが、さすがにこの言葉は意味がつかめない。 「?…何が?」 大地は真顔で蓬生に聞き直す。蓬生は肩をすくめた。 「顔見たらまっさきに、東金はどうしたんだい、とか、どうして東金と一緒に帰らないん だい、とか、…聞かれると思うとった」 そこで一旦言葉を切る。そしてさらりと髪を揺らして、それとも、と少し首をかしげ、 「それも全部お見通しなん?」 「…まさか」 ゆるゆると大地は首を横に振った。 「ただ、東金にはまだソロコンクールが残ってる。彼は努力を怠らない男だから、気持ち を切り替えてまた練習に励むだろう。……でも君は」 これで終わりだろう、と言うのは気まずい。…彼の夏をこれで終わりにしたのは自分たち なのだから。 大地はわざとらしい小さな咳払いを一つした。 「…せっかくの花火だ。…見て帰ろうと思うのは自然なことだろう?」 くす、と蓬生は笑う。大地が呑み込んだ言葉などお見通し、けれど口にしなかったのに免 じて、この場は許しておいてやる、…そんな風情だ。 「そういうことにしといてくれるん」 「土岐が、それでいいなら」 「…こないだ、どつぼ踏んだからなんかな。えらい慎重やね」 「…言わないでくれ。一応反省してるんだ」 くつくつと蓬生は笑っている。それからゆるゆると空を見上げた。ちょうど一つ、花火が 上がったところだ。朝顔に似ていた。青い円の中に十字の形の白い星形がきらめいて、… あとに、どおん、と響く音を残して消える。 「…花火は、好きなんよ。…人混みは大嫌いやから、あんまりわざわざ見に行ったりはせ んけど」 大地は敢えて相づちを挟まない。その方が蓬生が素直に話してくれるような気がしたから だ。 「大きくきれいに開いて、すうっと消えてしまうところも好きやけど、…それよりやっぱ り音が好きや。…どおんって、腹まで響いて、心の中の何かが揺り動かされるような、… そんな感触がする」 また空を見上げる白い貌に、ふと、あの日の横顔を思い出した。不用意なことを言ってし まったあの日。蓬生は大地の言葉に怒ってはいても、泣きはしなかった。けれど確かに、 どこかで涙は流れていた。 彼の心の中には、どれほどの澱がたまっているのだろう。露わにすることを拒み、恐れて、 耐えて呑み込んで。誰の前でも静かな顔。 また花火が一つ。いくつも小さくきらめいて、きらきらと星くずのような火花が落ちてく る。どどん、と割れた響きの音の後で、ぱらぱらぱらと小さな音が先を争うようにこぼれ てくる。 何故かその音に大地は涙を連想した。硬い心の板に涙の雫がこぼれる音。吸い込まれずに たまっていく、涙の粒。 うかがい見る横顔は、変わらずに静かだ。こんなに側にいるのに、彼は大地を見ない。… 否、誰のことも見ない。 ……千秋以外は。 「……!」 不意に、不思議な衝動が大地を突き動かした。 憧れ焦がれて愛しい律。けれどもどこか浮世離れして、どんなに傍に近づいても決して手 の届かない律。そんな律に対してはついぞ抱いたことのない欲が、むくむくと大地の中で 頭をもたげる。 蓬生を泣かせたい。決して泣かないように見える彼を、ぼろぼろになるまで泣かせて、彼 の中から心の澱を流し去ってしまいたい。 彼が鬱屈するものも、彼の中から決して消えないあの男のことも、きれいさっぱり流して しまいたい。泣いて泣いて、空っぽになるまで泣いて、…泣き尽くした後の蓬生の顔を見 てみたい。 それは暗い欲望だった。自分の中にこんな欲があることを、大地は初めて知った。そんな 自身にかすか、おののきながら、…それでもじわり、心の中の埋み火が赤く灯る。 ひときわ大きな花火が上がる。目が覚めるような赤。どおおん、と、突き上げてくるよう な音。ふっ、と蓬生の体が揺れた。支えるように腕を掴む。はっと振り返った蓬生は大地 の目をのぞき込んで。 …けれどその手を振り払いはしなかった。