花吹雪

誰かが足音高く廊下を歩いてくる。
忍人は窓辺に置いた寝台に腰を下ろし、窓枠に肘をついて、ぼんやりと橿原の春の景色を
眺めていた。
足音が、忍人の自室の前で止まる。
戸口から顔をのぞかせたのはアシュヴィンだった。
「なんだ、寝ているかと思ったら起きていたか。…具合はどうだ?」
話しながらつかつかと部屋の中に入ってきて、許しを得る前にどすんと同じ寝台に向かい
合って腰掛ける。気取りのない様子はあまり君主らしくはないが、遠慮のない物言いや仕
草はいかにも『王様』のそれだった。
忍人は、窓枠に乗せていた肘を戻し、ゆるゆると背中を壁にもたせかけた。
「決戦が終わってからこちら、寝てばかりだ。体はなまったが、具合はいい」
「そうか、それはよかった。…今日、国に帰るのでな。挨拶に来た」
「…そうか、今日か」
「ああ。…思いがけず、長居してしまった。そんなつもりではなかったんだが…」
アシュヴィンは首をすくめる。忍人はからかう口ぶりになった。
「てっきり、姫の即位式までこちらにいるのかと思ったが」
「まさか。そんなにぐずぐずしていたら、常世の国で誰かが俺の代わりに皇帝になってし
まう。決戦が終わり次第戻るつもりだったんだが、兵にけが人も多かったし、それに何よ
り、お前の君主を見ていると飽きなくてな」
くっくっと彼は喉声で笑った。
「……あれは、おもしろい王になる」
忍人は苦笑する。
「君に言われるのは、姫も不本意だと思うが?」
どうかな、と、目で笑いながらアシュヴィンは肩をすくめる。
「俺はおそらく、野放図ではあるが普通の王になるさ。小さい頃から皇の背中を見て、帝
王学をたたき込まれながら育ったからな。多少突飛なことをしたとしても、本筋から離れ
た王にはとうていなれないだろう。だが、彼女は違う。…なんといったか、お前が以前…」
「破格」
忍人がさらりとつぶやくと、そうだそれだ、とアシュヴィンが指を指した。
「彼女は破格の人だ。まさしく。…彼女の治世は、周りで見ている分にはおもしろそうだ
が、傍らで補佐するものたちはさぞ苦労するだろうな」
「そうだろうな」
穏やかな忍人の肯定に、アシュヴィンは少し眉を上げる。
「………なんだ?」
「どうかしたか?」
「いや、ずいぶん他人事のような物言いをすると思って。一番苦労するのはお前じゃない
のか?お前は彼女を叱るが、他の奴らは姫を叱らない」
ふ、とうっすら忍人は笑った。
「…まだ誰にも言っていないが、…姫の即位式が終われば、俺は宮を辞す」
「・・・・・」
アシュヴィンは、二度ほど瞬きを繰り返し、目をすがめた。
「遠夜はよくやってくれている。……だが、自分でもわかる。俺はもう、あまりもたない。
…だから、このまま姫のそばで仕えて、彼女を心配させるようなことはしたくない」
「………どう言って、それを納得させる」
「何とでも言うさ。高千穂の所領を取り戻したが、監督者がいないので、俺が赴任するこ
とにしたとか、……生太刀の魂を鎮めるために、しばらく熊野の玄武の磐座にこもるとか」
アシュヴィンは、人差し指と中指を二本そろえて、とん、とん、とん、と三度唇をたたき、
にやりと笑って口を開いた。
「…では、これはどうだ。…俺に誘われたから、常世の国に行く、というのは。中つ国は
荒魂も落ち着いて、剣を振るうようなことはもうあまりないが、常世の国ではまだこれか
ら皇の跡目争いや地方豪族の平定などに武力が必要となる。お前の能力を買っているから
ぜひきてほしいと俺に言われたが、即位式が終わるまで待ってほしいと言っておいたと」
忍人は軽く目を見開いたが、苦笑と共にゆるゆる首を横に振った。
「…見てわかるだろう。…姫の前ではかろうじていつもの様子を保っているが、もう俺は
前のように戦える状態じゃない。…君の役には立たないさ。……それに」
視線が窓の外に向けられる。
橿原は、ゆるゆると春の盛りを迎えようとしていた。梅は散り始めたが、桃が咲き誇り、
桜はまだ咲かないがつぼみがほころびはじめている。おそらく、即位式の頃に爛漫と咲き
誇るだろう。柳は薄緑の芽を芽吹き、野原に若草が萌えいづる。……美しい豊葦原の春。
「俺は、常世の国には行けない。……そばでお仕えすることは叶わなくとも、せめて姫が
取り戻した国で、姫の御代をこの目で見たい。……それが俺の願いだ」
アシュヴィンは寝台に乗せた膝に肘を突き、馬鹿だな、と破顔一笑した。
「俺の言葉を額面通り受け取る奴がいるか。誰も本気でお前を混乱の常世に連れて行った
りはしないさ。……ただ、磐座にこもるだの、高千穂で所領監督するだのというよりは、
常世で戦い続けていると言い訳する方がお前らしいだろう。…それに、姫が無理矢理連絡
をつけてお前をそばに呼び寄せようとしても、俺が、お前は地方平定に行っていて連絡が
取れないと言い訳してやれる」
お前は中つ国にいるのさ。こっそりな。…俺をだしに使えばいい。
「………アシュヴィン」
「……お前の生太刀が、俺の国も救ってくれたようなものだからな。ささやかではあるが、
礼のつもりだ。…だしに使ったと連絡も不要だ。リブにも言い含めて、二ノ姫から問い合
わせがあればうまくごまかせるようにしておくさ」
「……君は本当に、…いろいろと思いつくな」
「常世の国で処世するというのはこういうことだ。20何年もすごせば、誰でも嫌でもこ
うなるのさ」
さて、と言ってアシュヴィンは寝台から立ち上がった。
「疲れているのに長話をして悪かった。達者で暮らしてくれというのも変な話だが、……
なるべく早死にはするな」
たとえお前がどんなに隠しても、いずれ姫には知れるだろう。
「…あまり女性の涙は好きではないんだ。…特に、気に入っている奴の涙は」
「………肝に銘じる」
そうか、ならいい、とつぶやいて彼は背を翻し、…ふと、窓の外を見た。
「……中つ国の春は、美しいな」
「…君の国も、今頃は緑が戻っている。…中つ国と同じくらい、美しい国になっているさ」
「……ああ。だが、俺が覚えている常世は、ここまで美しい春ではなかった気がする。花
も、草も、鳥も、様々な色が一度に開いて、…まるで色の洪水だ」
横顔を憧憬に彩らせ、美しいな、と彼はもう一度つぶやいた。
「……なあ、忍人」
「なんだ?」
「桜とはどんな花だ」
「常世にはないのか?」
「同じ名では思い当たらない。いずれ同じ種類の花もあるのかもしれんが…」
「…樹に咲く薄桃色の美しい花だ。中つ国では時期が来ると、何本もの樹が一斉に花で彩
られる。群れて咲いていると、山が薄桃色の雲のようになる。…夢のように、美しい」
「………そうか。……それはさぞ、見たかろうな」
「姫の即位式の頃には咲くだろう。…もう少し滞在を延ばすか?」
「見たかろうな、と言っただろう。…見たいのは俺ではないさ、二ノ姫だ。桜が咲いたら
お前と見に行くのだと、ぽろりと話したことがあった」
きっと、二人だけの内緒事だっただろうに。…俺にまで、言わずにはいられないほど、楽
しみにしていた。
「……せめて、その約束は守ってやってから姿を消すことだな。…じゃあ」
「……さようなら。…気をつけて」
おそらく二度と会うことはない常世の国の王子は、忍人に背を向けたまま片手をあげて、
部屋を出て行ってしまった。
忍人はゆっくりと、ずるずると、寝台に横になる。
本当に、俺の体はぽんこつだ、とふと思った。
だが、姫はあの約束を忘れていないのか。通りすがった三輪山で、ふとかわしただけの約
束を、そんなにも楽しみにしているのか。
忍人とて、無論、忘れてはいない。…千尋と交わした、たった一つの約束だから。心の中
で大切に大切にあたためている。
ならば、…即位式が終われば、二人で桜を見に行こう。それまでは何が何でも、この体を
持たせよう。
窓の外を見やると、空が白くかすんでいる。柔らかな春の風にのってはらはらと窓からこ
ぼれ入ってくる桃色の花弁は、紅梅の花びらか、桃の花か。早く桜が咲くといい。君の喜
ぶ顔が、早く見たい。
忍人はゆっくりと目を閉じた。
…まぶたの裏でも、桃の花びらが舞っている。それはいつしか、桃の花から桜の花に変わ
って、美しい薄桃色の花吹雪を彼の心に散らした。