花闇

柊はゆっくりと扉を開けた。
宮の最奥に作られたその場所は、左右の壁にうがたれた窓から光が差し込んでいてさっぱ
りと明るいのだが、がらんとしていてどこか寒々しい。入口には入室を禁ずるとばかりに
縄が張られている。しかし、柊はかまわずに縄をまたぎ、中に入った。
……ここは、虚ろだ。
柊はうっすらと嗤う。
ここには、何もいない。
「…そこで何をしているのです」
鋭い声に振り返ると、険しい顔をした狭井君が立っていた。
「そこは神子だけが入ることを許された場。龍神への祈りの場所です。あなたが立ち入る
ことは許されていません」
「…ですが先生」
柊はうっすら嗤いながら恭しく審神者の師に返答する。
「ここはただの虚ろではありませんか」
神はいない。神が降りることもない。…ただの筺でしかない祈りの場所。
へらへらとした柊の態度を見た老女の眉間にしわが一つ増える。
「あなたにとってここが神の実在しないただの虚ろでも、他の誰かにとってはここは大切
な祈りの場所なのです。軽々しく穢していい場所ではありません」
厳しい声で言い放った彼女はしかし、この場所が虚ろであることを否定しない。
柊はまたへらりと笑った。
とたん、狭井君の声がとがる。
「何がおかしいのです」
「いえ。…おかしいわけではないのですが、いみじくも先生が神の不在を肯定してくださ
ったのが嬉しくて」
「…」
狭井君の顔から表情が消えた。
一瞬で全てが静まりかえる。音も感情も、…祈りの場を穢した柊に向けられていた怒りさ
え、狭井君の中から消えてしまったようだ。
だが柊はひるみはしなかった。へらへらとした笑顔のまま、言葉を重ねる。
「白き龍の神はもうここにはいない。…ならば我々は、神子をその役目から解放すべきで
はありませんか?」
狭井君の表情も動かない。だが、…唇は開いた。
「あなたが言いたいのは、一ノ姫のことですね?」
今現在、神子と呼ばれる身分の女性は三人いる。現女王、そして次期女王と目される一ノ
姫、さらには、いまだ幼くかつ神の声を聞けないとひそかにささやかれてはいるが血筋の
上では神子である二ノ姫。
柊はうすら笑ったまま返事をしないが、狭井君も返事を必要とはしていない様子だった。
どのみち、幼い二ノ姫はまだ神子のくびきに縛られてはいないし、現女王に関してどうこ
うと発言する立場に柊はない。つまり、今現在彼が神子と呼ぶ人物は、一ノ姫しかありえ
ない。
「…」
「…」
しばらくの間、二人は見つめ合う。…やがて表情が動いたのは狭井君だった。
無表情な目にじわじわと哀れみが宿る。……それは一ノ姫に対してではなく、愚かな弟子
に対してのものらしい。
「神子から解放する。…それは、一ノ姫本人が望んだことかしら?」
「…!」
柊ははっと身をこわばらせた。
狭井君は静かにため息をもらす。
「…もしそうでないなら、差しで口はおよしなさい。……自分に何が必要か、一番よく知
っているのは本人です」

「しょぼくれた顔だね」
にやにや笑ってどんと岩長姫が柊の背中を叩いたのはその日の夕方だった。
「あの食えない古狐に喧嘩でも売ったかい?」
「……」
黙りこくって答えない柊を見て、岩長姫は声を殺すようにして笑う。
「図星だね」
まあすわりな、と促して、彼女自身も円座にどんと腰を下ろす。あぐらをかいた膝にひじ
をついて、柊がのろのろと腰を下ろすのを待って、岩長姫は改めて話し出した。その声は
低く、重々しい。
「……喧嘩の種は、龍神の神子のことかい?」
はっ、と顔を上げた弟子に、やっぱりそうか、と岩長姫は額に手を当てて少しこすった。
……それから、なぜか長い長いため息を一つついて黙りこくる。
二人が向かい合う部屋の外で、人が行き交い笑い合う声が聞こえる。ざわざわと人の息づ
く気配の中で、柊と岩長姫の間の空気だけがひんやりしている。
「…何を言ったかは知らないが、…ここは一つ、控えておくんだね」
やがて岩長姫はそうつぶやいた。
びくりと柊の肩が震える。膝を握りしめたその手を、岩長姫は冷静に見つめている。
「…信じないかもしれないが、…あんたが考えつくくらいのことは何十年も前に、とうに
考えついているのさ。…彼女も、あたしもね」
もしそうじゃない考えなら、彼女も頭ごなしにあんたを否定したりしなかっただろう。彼
女は老獪な女狐だが、冷静で公正な人間だからね。
「考えついたし試してもみたのさ。…そりゃあもう、いろいろとね。……だが、変えられ
なかった」
彼女の遠い瞳が見ているのは、柊ではなく若き日の彼女たちなのだろう。あがくことをま
だあきらめていなかった頃の彼女自身を柊の背後に見ながら、いつになく静かに岩長姫は
語る。
「回りの思惑や、国の仕組み、…そんなものなら変えてやれた。あたしと彼女が組めば、
根回しも強行突破も思いのままだったはずだ。…だけどね。…あたしたちがどうしても変
えられなかったものがある。…何かわかるかい?」
形而上の問いではなく、本当に問われている。…そう思ったので、柊はゆるゆると首を横
に振った。
師君と先生が組んで変えられなかったもの。…それを想像するのは実際かなり難しい。本
来の性格や得意分野は正反対だが、だからこそ、二人が組めばこの中つ国で動かせないも
のなどなさそうに思える。
柊の無言の返答を見て、岩長姫は寂しそうに笑った。次の一言は、深いため息と共にこぼ
れ出る。
「…本人の気持ちさ」
・・・・・。
言葉の意味が柊の腑に落ちるまで数秒の間があった。そして改めて、
「……!」
柊の神経にびりりと稲妻が走る。
岩長姫の伏せた目は柊を見ない。…あえて、見ない。
「…あんたもいつか気付くだろう。…彼女たちはそれと望んで神子なんだ。決して、神子
から逃げだそうとはしない」
血がそうさせるのか、責任感がそうさせるのか、…はたまた自分たちの想像の及ばない全
く別の理由があるのか、それはわからないのだが。
「何があっても彼女たちは神子だ。生まれ落ちたそのときから、…たぶん死ぬまで。それ
を否定することは誰にも出来ない」
よいしょ、と言いながら岩長姫は立ち上がった。目を伏せたまま通り過ぎざま、座り込ん
だまま動かない柊の肩をぽんと叩いて。
「……きっといつか実感する日が来るよ。…このまま姫の傍にいるならね」
言い置いて、部屋を出て行った。
開け放たれた部屋の扉の向こうから、笑い合う声が聞こえてくる。……その中に親友の朗
らかで豪快な笑い声を聞き分けて、柊は膝をぎゅっと握りしめた。
未来を変えたい。彼と彼女と生きていたい。
師君は、先生は、あきらめてしまったのかもしれない。だが自分は彼女たちとは違う。
……あきらめと共に老いるのはまっぴらごめんだ、と思った。

…やがて時を超えて、柊は師匠達の言葉の意味を知る。変えられないものに打ちのめされ、
あきらめを憎むどころか、いつのまにか彼自身があきらめの奴隷と化して、物語の糸に絡
め取られてしまった。
「……」
薄く嗤い、常世の国で既定伝承と共に生きる彼はまだ知らない。
やがて繰り返す時の彼方で、自分が真白に輝く希望を見つけることを。
今はまだ、深い深い闇の中、失った花の香りにただむせるだけ。