1.年越しの祓


前触れもなく武器庫の扉を開けて入ってきた人物を見て、道臣は思わず声を上げた。驚い
たのは相手も同様だったようで、彼には珍しく少しぽかんとした顔で
「道臣?」
と名を呼ばれた。その手にはなにやら竹簡が二〜三巻と、火をともした火皿が握られてい
る。
「今日は年越しの祓で忙しいでしょうに、…まさかこんな日まで兵站の確認を?」
「…いいえ、私は、儀式用の矢が足りなくなったので急ぎ取りに参ったのです」
柊は道臣の答えに呆れた顔になった。
「何もあなた自ら」
「場所を説明して誰かに取りに来させるより、自分で来た方が早いので。…あなたこそ、
ここで何を?…もうすぐ祓が始まりますよ」
道臣が付け加えた言葉に、柊はやんわりと微笑んだ。
「…ええ。…儀式を欠席しようと思いまして」
「…は?」
道臣は少し呆気にとられた。
祓の儀式は審神者の君である狭井君が中心となって執り行う。彼女の一番弟子、右腕と見
られている柊が不在ではまずかろうに。……いや、そもそも、一年を締めくくる年越しの
祓は、宮中の者全てが出席するはずだが。
訝しむことが多すぎて、とっさに次の言葉が出ない道臣に、柊はさらに笑いを深めながら、
「いいんですよ私は」
と言った。
「…それよりも、…急ぎなのでしょう?早く式場へ向かわれた方がよいのでは?あなたの
持つ矢の到着を、皆が待ちわびておりましょう」
押し出されるようにして武器庫を出た道臣の後ろで、静かに扉が閉まった。なにやらカタ
ンゴソゴソと物音がするのは、うかつに中に入られぬように心張り棒でもかませたものと
みえる。
わけがわからないままに道臣は歩き出した。…柊の言うとおり、儀式の時間が迫っている。
急がなければならない。
式場に着くと、忍人が待ちかまえていて、道臣の差し出した矢を受け取るや素早く兵に何
か指示して走らせた。…安堵の息をついてから、彼は何故か迷うような色の目で道臣を見
た。
「…武器庫で柊に会わなかったか」
「…何故それを」
思わず高くなった自分の声に、道臣は慌てて手で口を塞いだ。忍人は誘うような仕草をし
てからついと壁際に身を寄せた。悟って道臣もそれに倣う。
肩が触れるか触れないかの距離で二人並び立ち、…ごく低い、間近にいる道臣にしか聞こ
えないような声で忍人はつぶやいた。
「柊は、夏越の祓の時にも姿が見えなかった。そのときは捜しに行ったんだ。武器庫にい
た。早く来いと言ったら、いいんですよ私は、…と言う」
道臣はどきりとした。
ついさっき、柊の口から同じ言葉を聞いたばかりだ。
笑っているのにどこか寒々しい、あの表情。
「…私はいいんです。祓の儀式には出ません。…出られない。相性が悪いんです、…と言
って、俺を無理矢理追い出した」
忍人は暗い瞳をしてまた息を吐いた。
「柊の言葉が気になって狭井君のところへ行ったら、俺の伝えた言葉にあの方は驚いた様
子がなくて、ただ、そうですかと仰った」
…そう。…いいのよ、かまいません。好きにさせましょう。
「…あの方は、露骨に顔色を変えたり、感情を気取らせる方ではないから、その様子を見
ても俺には何もわからなかったが、…何かあるような、だが聞いてはならぬようなそんな
気がして」
どこか恐ろしかった、と忍人は述懐する。
「だから、年越しの祓を柊はどうするのかと、…気になっていた」
道臣は、千尋となにやら会話を交わしている狭井君に目を向けた。…柊がいないことには
気付いているはずなのに、捜せと言わない。…不在を怒りもしない。……ただ、片隅で語
り合う忍人と道臣にちらりと一瞬だけ視線を投げた。
二人が誰のことを話しているのか、いかにもわかっているというふうで。…わかっていて、
けれども目をつぶっているのだと言われているようで。
道臣の背を、何か冷たいものがおりていく。

そのとき、たくさんの人型を盛った折敷を胸のあたりで捧げ持ち、禊ぎの衣装に身を包ん
だ采女たちがしずしずと練り歩き始めた。
祓の儀式が始まる。
…女王陛下の形代も、己の形代も、忍人や那岐や遠夜や…宮中、また近隣の郷の全ての民
の形代が盛られているはずの折敷。
…あの中に、もしや、柊の形代だけはないのだろうか。
…なぜ。

道臣の問いを胸の奥に押しつぶすかのように、ゆるゆると、年の終わりと新しい年の始ま
りを告げる儀式が始まった。




2.夏越の祓い


「ああ、美々しくできましたね、見事です」
宮殿の庭に茅の輪が完成している。夏越の祓のための準備だ。茅で大きな輪を作り、その
中をくぐって無病息災を願う。
制作を指揮していた道臣は、静かな感嘆の声に振り返った。
「…柊」
腕組みして道臣の後ろに立っていた柊は、穏やかに眼を細めて笑っている。微笑み返して
ふと、…半年前のことを道臣は思い出した。
年越の祓。武器庫に柊はいた。宮中の全ての人間が参加するはずの儀式に、柊だけは出な
かった。
そのことを、あの厳格な狭井君が怒らない。そして忍人に言わせると、夏越の祓にも柊は
いなかったという。
「……くぐってみませんか?」
「…は?」
道臣の少し唐突な一言に、柊は呆気にとられた様子でぽかんと口を開けた。
「あなたは宮中でたぶん一二を争うくらい背が高いですからね。あなたが楽にくぐれれば、
他の人も大丈夫でしょう。…くぐってみてくれませんか」
「…っ」
一瞬虚を突かれたように息を呑み込んだ柊だったが、すぐにさらりと平静さを取り戻し、
たしなめるような目で道臣に首を振って見せた。
「いくらなんでも、陛下の前にこの輪をくぐるような不心得者ではありませんよ、私も」
「…後ならば、くぐるのですか?」
道臣は静かに、けれどまっすぐに問う。
「…」
柊はうすら笑っている。
「…」
道臣はため息をついた。
「…くぐらないのですね」
「…」
返事はない。
己の目の中にいたましさが浮かばないよう苦労して気をつけながら、道臣は柊を必死に見
つめ続ける。うっかりと目を離したら、彼が消えてしまうような錯覚が胸の内で渦を巻く。
「…あなたは穢れを祓うのが、…清らになるのが恐ろしいのですか?」
ほとりと問うた道臣に、柊はゆるゆると首をかしげた。
「…忍人から何か聞きましたか?」
聞いておいて答えを待たずに柊は、いや、と首を振った。
「年越しの祓の儀式の時に武器庫であなたに会ったとき、気付かれたかな、とは思いまし
たよ」
柊は笑顔を浮かべているのだが、どこか虚ろで曖昧で、それが道臣には空恐ろしい。
「…正直に申し上げましょうか。私は、穢れを祓われるわけにはいかないのです。…私は、
この国の形代ですから。…この国の穢れを、罪を背負って、いつか黄泉路へ持って行く。
……この国の歴史のために、策を弄して人を殺めた私の、それが役割だと思うのです」
恐ろしさに気を取られていたので、いかにも大切なことを明かしますよ、というそぶりで
柊が語ったことの意味に、道臣は一瞬気付けなかった。
「……は?」
…形代?
形代と言われて道臣の脳裏に浮かぶのは、木を削って作った人形だ。…人の穢れを移し、
祓いの儀式で焼き払う、あの木偶人形。
国の、…形代?
「……!」
ようやく柊の言葉が飲み込めて、飲み込めたとたん背筋を冷たいものが突き抜けていった。
「…っ、それを陛下が望むとお思いか!?…もしそれを忍人が聞いたら、あの子は、…あ
の子は何と…!!」
「怒るでしょうね」
柊は嗤う。
「憤怒の形相で、私をひっつかんで、あの輪を己ごとくぐらせようとするでしょう。…だ
からあの子には絶対に話せない。陛下にも、もちろん。……あなただから話したのですよ、
道臣」
ぐっと、思わず詰まった。腕には細かく粟粒が立っている。恐怖と怒りと困惑と悲しみが
ないまぜになって、もう道臣はぐちゃぐちゃだった。…ただ、それでもこの会話が止めら
れない。
「…師君や、狭井君は…」
かすれる声でようやくそれだけつぶやくと、柊は少し真面目な顔になってかすかに首をか
しげた。
「師君はご存じないでしょう。言うつもりもありません。先生にも話してはいませんが、
…ただ、あの方には薄々感づかれているだろうなとは思います。祓いの儀式に参加しない
ことを何も仰いませんからね」
…ああ、そうだ、と思い出す。年越しの祓の時、忍人は言っていたではないか。柊の不在
を狭井君に伝えたら、「いいのよ、かまいません、好きにさせましょう」と、…そう彼女
は言ったのだと。
「…知っていますか、道臣」
どこか道臣が納得した様子なのを見定めてか、柊が言葉を継いだ。
「あの方も、国の穢れを背負う方なのですよ。…祓いの儀式を取り仕切っておられるのは
狭井君ご自身なのに、あの方の形代はないのです。…お作りにならないのですよ」
「…っ」
道臣は、自分の顔から、ざっと音を立てて血の気が引いていく気がした。
「…どうか、…私たちを、そっとしておいてください」
柊は請い願う顔になった。
「私たちは、…私は、こうしか生きられないのです。…あなたがいみじくも言ったとおり、
清らになるのは恐ろしい。穢れを身に受け、いつかひそりと消えたい。…それが私の心か
らの願いなのです」
「…私に、見逃せ、というのですか」
喉に絡まる声で、低く道臣は言った。
「見逃してくれるでしょう、あなたなら?」
そう言って道臣の顔をのぞき込んで、柊は嬉しそうに笑う。
「…ほら、あきらめた目をしている。あなたは私のこの気持ちを理解できる人だ。…そん
なあなただから、明かしたのですよ」
……確かに。…この行為を容認は出来ないが、…何故彼がそういう行動をするのか、それ
が全く理解できないわけではない。しかしそれと、彼を止めないのとは別問題だ。
自分には出来ないかもしれない。…だが。
道臣がかすかな光明を身のうちに見いだしたときだ。
「…」
柊の笑みがすうっと消える。ふいに身を寄せてきた彼が、色のない顔でそっと道臣の耳元
にささやいた。
「自分に止められないからと言って、ゆめゆめ、忍人に話そうなどと思わぬことです」
「……」
自分が思ったことを即座に言い当てられて、道臣は凍り付いた。
「もしもあなたが忍人にこのことを話せば、私は宮から消えますよ。…そして、どこかで
ひそりと、一人で朽ちましょう。…その方がよいとあなたが思うなら、どうぞ、…ご随意
に」
ふわりとまた柊が道臣から離れる。
既にその顔は飄々と、何事もなかったそぶりでいる。
その薄笑いの顔を恨めしげに睨み付けながら、道臣はつぶやいた。
「これでは、私はがんじがらめではありませんか」
「そうですね」
にこりと、柊は笑った。
「…ああ、秘密を抱えるのが辛ければ、あの輪をくぐってはどうですか?…茅の輪をくぐ
れば、病や穢れ、悩み苦しみを祓ってくれる、はずですよね?」
柊が指さす先に、青々と円く、堂々と誇らしげに、茅の輪がそびえている。…救えぬ者な
どないという顔で。
…けれどその輪は、道臣の苦しみを救ってくれそうにはなかった。