春霞

柊が目を開けると、あたりはひんやりとした薄紫色のもやに包まれていた。
……ああ、自分はまた夢を見ているのか、とぼんやり思う。
…いつもそうだ。柊の夢はいつも、この薄紫色のもやから始まる。まるで、現実と夢の境
が曖昧な自分に、境界線を教えるかのように。
覚めてきた頭を少し振って、辺りを見回す。だが、ただもやがあたりを埋め尽くすばかり
で、何も見えない。
「珍しいな」
柊は思わずひとりごちた。
いつもなら、覚めてきたと思う頃に辺りを見回すと、見たい見たくないは別にして、何か
風景が目に入ってくるのが普通なのに、今日は何も見えてこない。
……だがその代わりに、どこからか靴音が響いてきた。
こつ、こつ、こつと規則正しい足音。揺るぎない歩き方。
……誰だろう、と柊は考える。だが確かに、知っている足音だ。
そのとき不意にもやが晴れた。
「……!」
柊は、自分が洞窟の入口に立っていることに気がついた。背後から光が差してくる。目の
前には行く手が闇に消えている深い洞窟。振り返ればそこは明るい日の光が差す野原。一
面の花盛りだ。落ち着いた薄青い花、鮮やかに黄色い花、清楚な白い花。……春の野に咲
く花々が、一斉にその美しさを競っている。
「……なんだ、お前か」
背後から不機嫌そうな声に話しかけられて、柊は再び洞窟の中に向き直り、はっとした。
「……忍人」
そうだ、聞き覚えがあると思った。さっきの靴音、あの歩き方は忍人だ。
「君は何をしているんですか、こんなところで」
「それは俺の台詞だ。お前は今どこにいる?…二ノ姫の即位式も見ないで姿を消すなどと、
忠実な僕のすることか」
揚げ足を取るように、いつも柊が言っていた言葉を言いつらって、忍人は、再会して以来
改めてくれない、うさんくさいものを見るようなあの目で柊を見た。
「…私は、私のいるべき場所にいますよ」
「……どこだ、それは」
将軍の機嫌がまた悪くなる。予想していたことなのだが、あまりに予想通りの反応で、柊
は笑いたくなる。が、ここで笑うとまたいっそう忍人の機嫌が悪くなって、説教が長引く
ので、笑いはこらえた。
「相手が君ですからね、ありていに言ってしまいますが、星の一族の里にいますよ。…い
ずれ中つ国にまた我らの力が必要となれば、姿を現すこともあるでしょうが、今はそのと
きではないのでね」
「………」
「…おや。…納得してもらえていないようですね」
「………感情は納得しないが、事情は理解する」
むっつりと忍人は言ったが、
「だが、せめて即位式を見てから行ってもいいだろうに」
そう付け加えたのがおかしい。…言いたいのは要するにそこか。
「…姫の晴れ姿を見たら、離れがたくなるじゃありませんか」
と、とぼけてみせて、それより、と柊は話を元に戻した。
「君は何をしているんですか、こんなところで。迷子とは君らしくない」
「……迷子?」
忍人は怪訝そうな顔で聞き返してくる。
「私の夢の中に迷ってきているんでしょう?…迷子以外のなんだと言うんです」
忍人ははっとした顔になって、大きく一度肩をふるわせた。それから呆然としてあたりを
少し見回す。冷たい洞窟の壁と、その入口の、…いや、出口の向こうに広がる、美しい春
の野原を。
「……そうか。……ここは柊の夢の中か……」
噛みしめるような声は、少し震えているようにも聞こえる。
「……?」
その震えをいぶかしんだ柊が声を上げるよりも早く、忍人はこう続けた。
「…俺が言うのも何だが、…花盛りの春の野とは、らしくない夢を見ているな、柊」
「…本当に、君にだけは言われたくありませんね」
柊が肩をすくめると、ふ、と忍人が笑った。その顔がなぜかあどけなくて、柊はぎょっと
した。……岩長姫の屋敷にいた頃でさえ、見せたことのない表情。いつも、大人びた顔と
大人びた振る舞いをしていた、子供らしくない子供だった忍人。将軍として再会してから
はなおのこと、いつも自分の責任と役割にがちがちに凝り固まっていた、彼。それなのに。
……姫に恋をしたから、だろうか?だからこんなふうに柔らかい表情をみせるようになっ
たのか。…俺に対してさえ。
………まるで、何かの枷から解き放たれたかのように。
…………いやな胸騒ぎがする。
「…人の夢の批評をする暇があったら、さっさと君の夢に戻ったらどうです?」
わざと追い立てるように冷たく言い放つと、
「…いや」
忍人は少し目を伏せて微笑み、
「………俺の戻る夢は、もうないんだ」
そう言って、するりと柊の傍らをすり抜けた。
・・・・・・・・。
柊の体が凍り付く。指一本、動かせない。振り返ることができない。
「………ここで会えて、よかった。…じゃあ」
足音が規則正しく響いて洞窟を抜けていく。さく、とやわらかな草を踏みしめる音が一つ
して。
「………ああ、桜が咲いている。…きれいだな」
その声だけを残して、気配が不意に消える。
と同時に、柊の呪縛が解けた。
「……忍人!」
叫んで振り返ったが、春の野にはもう誰もいない。
満開の花園に、ただ白く春霞。
「………忍人…」
柊はただ、うわごとのようにその名を呼ぶ。
「………忍人」
どこからもいらえはなく。
「………ああ…。…もう、逝ってしまったのか」
ふ、と柊は薄くゆがんだ笑みをもらす。
「君は子供の頃から足が速かった」
そんな場合ではないのに、そんなやくたいもないことを考えてしまう。
涙は出ない。自分は知っていたから。この未来を。このアカシヤを。
けれども。指先からぽろぽろと自分が崩れていきそうな、この頼りなさはいったいなんだ
ろう。
何か、自分の芯にあったものが、ぽっかりと抜き去られたような。そんな錯覚。
ふわりと、手の中に何かが入ってきた。…思わず握りしめて、そっと手のひらを開くと、
それは一枚の、あえかな桜の花弁。うす桃色に、美しい。
「………君の置きみやげにしては、…しゃれている」
つぶやく柊の背中から、ゆっくりと彼の周囲の光景を、薄紫色のもやが覆っていった。