果ての海

彼はいつもふらりと現れ、前触れなく、今、横浜におるんよ、と電話をかけてきて大地を
驚かせる。
今日もそうだった。慣れっこになった大地がぼんやりと改札で待っていると、けろりとし
た顔で前に立ち、
「久しぶり」
笑っていつもの言葉を口にする。
「如月くん元気?」
そう、いつも。……なので大地は、穏やかに笑ってゆっくりと答える。
「…ああ、元気だよ。…最近は腕の調子も落ち着いてる」
「そらよかった」
今日はどこ行くー?とのんきに歩き出す背中を追いながら、大地は静かに言った。
「土岐は、会うと必ず律のことを聞くんだな」
ちらりと流し目で振り返って、蓬生はふふと含み笑う。
「そら知り合いやもん、元気かなって思うやんか」
「…それだけ?」
「他に何が?」
蓬生は気ままに歩いていく。一、二歩大股に歩いて近づいて、大地はその歩みに肩を並べ
た。
「律以外の誰かのことを聞かれたことがない」
「榊くん言うたら、如月くんやろ?」
「……。……言い方を変えようか。…どうせ付き合うなら、それがたとえ自分にとっては
遊び相手でも、自分の方だけ100%見ていてくれる奴がいいと思ったことはないのかい?」
「自分が体半分千秋の方向いとんのに?…そんな図々しいこと、よう言わんわ」
「図々しいとは思わないけどね、俺は」
気付けばいつしか、海への道を二人たどっている。人の多い中華街を避け、オフィスビル
や雑居ビルの建ち並ぶ界隈から、港へ。
長い髪をうっとうしそうにかきあげ、何気ない声で蓬生は言った。
「榊くんは、如月くんに後ろめたいんやろ」
大地の足が止まる。気付いた蓬生の足も止まった。前に、海を望む公園が見えてきている。
右も左もビル。オフィスの多いこの辺りは、休日の人通りは少なく、二人を見ている者は
誰もいない。
大地を振り返る蓬生は、笑っている。大地は静かにその目を見つめている。
「ええよ。しんどなったらいつでも言うて。…さよならするわ」
…いきなり、大地がぎっと蓬生の腕を掴んだ。逃がすまいとするかのようだ。万力のよう
なものすごい力で、蓬生は思わず顔をしかめる。
「……痛い」
「……」
「痛い、て。…榊くん」
「……確かに俺は、律に後ろめたいと思っている。でもそれよりも嫌なのは、土岐がそう
やってすぐにあきらめた顔をすることだ。笑って、未練なんかないと言うことだ」
腕を掴んだまま、大地は低い声でうなるように言った。
「…教えてくれ。もし俺が100%お前に向いていれば、そんな風にあきらめたりはしない
のか。もっとしがみついてくれるのか」
蓬生は鋭く息を吸い、…睨み付けるような大地の眼差しから目をそらした。
「……。…わからんわ、そんなん。…しがみつくなんて、怖い。したことない」
「俺は、離す気はない。律に後ろめたくても、土岐の目が九分九厘まで東金しか見ていな
くても、…この手を離すつもりはない」
ぎり、と、また強くなる手の力。指先がしびれるような、鈍い痛み。
蓬生はうっすら笑って、掴まれていない方の手で大地の腕に触れた。
「せやけど、俺は痛いわ。……放して」
…。
その蓬生の静かな声に気が抜けたのか、大地はふっと蓬生の手を放した。蓬生は手をぶら
ぶらと振って、あー痛、とひとりごちる。腕のボタンを外して袖を少しめくり、顔をしか
めて。
「長袖の分厚いのんの上から掴まれて、こんな痕ついてる。…どんな怪力や、見た目によ
らんね」
「……」
「簡単には消えんで、この痕」
「……すまない」
しぼりだすような声で大地がつぶやく。眉間に深くしわ。蓬生から少し顔を背けて。
「……ふ」
蓬生は何故か、静かに笑った。
「せやけどもし、この痕が消えたら。……またつけてもええよ」
「……土岐?」
向き直る大地に、おずおずと、…ためらいがちに微笑みかけて。
「それがまた消えたら、またつけたらいい」
……あきらめんといて。
ただその一言でさえ勇気が要るという顔をして、蓬生は唇をかんだ。
「…俺もしがみつくことを覚えるから。…怖くても、少しずつでも、しがみつこうとする
から。……せかんと待って」
「……ああ」
「……おおきに」
蓬生はまた大地の先に立った。…大地は今度は急いて追いつくことをせず、自分のスピー
ドで歩いていく。
もうすぐ信号、というところで、また蓬生が立ち止まった。大地に背を向けたまま、ふと
つぶやく。
「…なあ、知っとった?」
「……?」
「……俺も、ずっと如月くんに後ろめたいねん」
だから聞く。
律が元気かどうか、…大地が今も彼の傍らで過ごしているのかどうか。
「後ろめたいのに、…離れられへん」
背中に回された左手が、誘うように指を開いて軽く曲げて。…大地の手を待っている。
大地は蓬生の左に立ち、…そっと右手を伸ばした。
一瞬指と指が深く絡んで。…信号が青に変わったとたんに何もなかったかのように振り払
われる。
少しずつや、と蓬生がひとりごち、大地はふっと笑った。
肩を並べ、何でもない友達同士のような顔をして歩く。他愛のないことを話しながら。か
らかったり、拗ねたり、笑ったり。
けれど、二人行く道の果てに、…海。