ハチミツ

「忍人、いいところに!」
どこにいても、その声の大きさでどこにいるかがわかる兄弟子が、忍人を呼び止めた。
忍人は鍛錬のための棒を手にしたまま振り返る。二刀流を始めたばかりで、まだあまり勝
手がわからないため、棒で鍛錬しているのだ。慣れないことで刃物を使うと、自分だけで
なく周りにも危険が及ぶ。
「羽張彦」
何か、と首をかしげると、手を出せ、と羽張彦は笑った。
「カナヘビやカエルならいらない」
「誰がそんなものやるか!子供じゃあるまいし!」
……日頃、自分よりもよほど子供っぽいいたずらをしているような兄弟子にそう言われて、
忍人はかすかに眉間にしわを寄せた。
が、ともかく、素直に片手を差し出す。
のせられたのは小さなつぼだった。
「……?」
「なめてみろよ、いいから」
指ですくってみると、それはとろりと金色に輝いている。なめると、
「……甘い!」
忍人は思わず声を上げてしまった。
「だろう」
羽張彦は自慢げに笑っている。
豊葦原には甘味は比較的少ない。忍人は良家の子息だが、その彼でも普段口にする甘いも
のといえば、季節の果物と、果物を干したもの。まれに、祭りごとのお下がりなどで甘葛
煮をいただくくらいなものだ。
「…これ」
「蜂蜜だ。毎年蜂が巣をかける木の洞があってな。この時期になると、蜂が困らないくら
いの巣をちょっくらちょうだいしてきて蜜を取るのさ。……それは、忍人にやるよ」
「だが、こんな貴重なもの、俺がもらうわけにはいかない。俺より姫たちに差し上げてく
れ、羽張彦」
あわてて忍人がつぼを羽張彦に押しつけ返そうとすると、
「子供が遠慮すんな!」
思い切り肩をたたかれて、むせそうになった。
……羽張彦は、時々力の加減を忘れる。
むせながらも、「子供扱いするな…」と忍人は言いかけたが、羽張彦は無視して(という
か、たぶん聞こえていない)まくしたてる。
「一ノ姫と二ノ姫の分はちゃんと別にあるんだ。これから宮に持って行く。それは、忍人
の分だ!頭の黒いネズミに取られるなよ!…行くぞ、柊!!」
言うだけ言って、忍人の返事も聞かずに羽張彦はどんどん歩いていく。
「……頭の黒いネズミ…?」
「…人のことですよ」
柊が通りすがりに教えてくれた。
「頭だけ黒いネズミなんて、見たことがないでしょう?盗人の隠語なんですよ。他人に取
られるなと羽張彦は言ってるんです」
「ひいらーぎ!!」
もうずいぶん遠くに行ってしまった羽張彦が叫んでいる。
「いーくーぞー!」
「はいはい」
適当な返事をして、じゃあ、と忍人の肩をぽんと一つたたき(頭をたたくと忍人が怒るこ
とは柊も承知している)、柊は羽張彦の後を追った。
忍人は、台風のような二人に置いてきぼりを食った格好になり、唖然として立ちつくす羽
目になった。
その忍人を我に返らせたのは、風早だった。
「……おーしーひーと」
背中をぽんとたたかれ、のんびりした声で名を呼ばれて、はたりと忍人は我に返る。
「どうかしましたか、渡廊の真ん中でぼんやりして。…これから鍛錬ですか?つきあいま
しょうか」
「…風早…」
振り返った忍人の顔を見た風早は、おやおや、とつぶやいて、かすかに頬をゆるめた。
「…台風に巻き込まれた、って顔をしていますよ。…羽張彦ですか?」
お見通しなのか、単に羽張彦の声が大きいので状況は伝わっていたのかはわからない。と
もあれ、その通りなので、忍人は素直にうなずいた。
「蜂蜜でしょう。この時期、彼の大好きな仕事なんですよ。姫様たちが喜ぶのでね。二ノ
姫の分も自分で持って行くと言ってきかない。……まあ、蜂に刺される危険を冒してとっ
てくるのは羽張彦ですからね。いいところは譲らないと」
「……やはり、危険なんだな」
「…忍人?」
あれ、言い方が悪かったかな、と風早はぽりぽり盆の窪をかいた。
「……あのですね。…なんというかな、危険というのは言葉の綾でね。羽張彦は慣れてい
るから、ちゃんと蜂を怒らせずに必要な量だけ採るコツを知ってます。…君が気に病むこ
とではないですよ」
「……」
「君が何かを悩んでいるのはわかるけど、何を悩んでいるのかはわからないな。…俺に話
してみる気はありませんか?忍人。…羽張彦にはもちろん内緒にしますよ」
「………」
忍人は、言おうかどうしようか、とかすかな逡巡を見せたが、やがて訥々と話し始めた。
「前々から思っていたんだが、…羽張彦には弟がいるのだろう?」
「ええ、実家にね」
「……彼は、…弟にしてやりたいことを、俺にしているんだと思うんだ」
風早は、そこには相づちを打たず、かすかに片眉を上げた。が、忍人はその気配に気付か
ず話を続ける。
「本当なら、彼が一生懸命採ってきたこの蜂蜜を受け取るべきは、俺ではなく、彼の本当
の弟なのだと思う。……俺が受け取っていいものではない」
…俺は、受け取れない。
ぽつりと付け加えたその言葉を聞いて、風早は、ふうとため息をもらした。そして優しい
顔でそっと忍人をのぞき込む。
「そんなことを羽張彦に面と向かって言ったら、…泣きますよ、あれは」
「………」
忍人は唇をかむ。それは忍人にもわかるのだ。
だが、と口を開こうとすると、その気配を風早に制される。
「確かに羽張彦は、弟の布都彦にしてやりたいことを君にしているのかもしれない。けれ
どそれは、忍人にしてやりたいと思ってしていることなんですよ。この場にいない布都彦
ではなく、君にしてやりたいと思って羽張彦がしていることなんです。、俺につぼを作れ
だの、忍人にやるんだからすっきりした美しい形にしろだの、何日も前からずっと準備し
て、うるさかったんですから」
そのつぼを、受け取るべきは君なんです。間違えないで。
「そのつぼは、君のために俺が作ったんだから。…君のために、羽張彦はその中に蜂蜜を
入れたんだから。……俺たちは、君のことがとても好きですよ、忍人」
忍人の顔に、ぱっと朱が散って、そのまま耳までかーっと赤くなった。
「…は、恥ずかしいことを、そんな真顔で言うな!」
「別に恥ずかしいことを言ったつもりはないのになあ。…でも、二ノ姫にも時々言われる
んですよね、俺」
…何が恥ずかしいのかなあ。風早は首をかしげる。
忍人は額を押さえた。
「…二ノ姫も気の毒に…」
「失礼な。姫は俺のことがとても好きだとおっしゃってくださってますよ」
「………」
はー、とため息をついた忍人は、兄弟子たちと話していると頭痛がする、と小声で呟く。
「…まあいい。…風早、鍛錬につきあってくれるというのは本当か?」
「今日は羽張彦と柊で、二ノ姫の護衛もするそうですからね。時間が空いてるんです、俺
は。…君の好きなだけ、つきあいましょう?」
「じゃあ、頼む。……あ」
忍人は、ぎゅ、とつぼを持ち直して。
「…少しだけ、待ってくれ。…これを、部屋に置いてくるから」
「いくらでも待ちますよ。…頭の黒いネズミに気をつけてください?」
風早の言葉に、ふわりと忍人が笑う。
「…羽張彦と同じことを言うんだな」
すぐ戻るから、と駆け出す忍人の姿が見えなくなってから、…風早は小さくつぶやいた。
「…そうですね。…俺が、異世界の言い回しを羽張彦に教えたんですから」
うっすらと彼は笑って、すぐその笑みを消した。
いつもの、やや茫洋とした笑顔が戻ってくる。
…渡廊の向こうから、可能な限りの速さで戻ってくる弟弟子を迎えるために。