彼岸花

一瞬、火の手が上がっているのかとどきりとした。

それは、今を盛りと咲き誇る紅い花だった。土手一面を埋め尽くす、見慣れた花だ。
わかってみればどうということはないが、本当にはっとするほどの激しさで咲いていて、
少し空恐ろしいほどだ。
「…忍人?」
彼が足を止めたせいだろう。傍らを歩く那岐が名を呼んだ。
「どうかした?」
「……いや」
花を火と間違えたと素直に言うのがきまりが悪くて、忍人は何となく言葉を濁した。那岐
は少し不思議そうにぐるりを見回して花に目をとめ、あれ、と目を丸くする。
「珍しいな。橿原宮あたりじゃ見かけない。ヒガンバナだ」
「…ヒガン…?」
聞き慣れない言葉に思わず忍人が聞き返すと、ああ、とつぶやいて那岐は少し頭をかいた。
「そうか、あっちの名前だっけ」
あっち、と那岐が言うのは、彼と千尋と風早が数年の間、豊葦原を逃れ住んでいた世界の
ことだろう。気のせいか、彼の瞳がなつかしさで少し甘くとろけているように思えて、忍
人は少し目を伏せた。
……ちりり。
「……」
何を思ったのか、おもむろに那岐は花の群生の中に突入していった。
「那岐?」
忍人が驚いて名を呼ぶと、「少し待って」と応じ、その場にしゃがみこんだ。花を摘んで
いるようだ。忍人は知らず眉を寄せた。
「那岐、…その花は、毒だ」
つぶやいた声はそう大きくはなかったが、那岐にはちゃんと聞こえたようだ。何かしてい
る手を止めることはなかったが、顔を上げて少し忍人を振り返り、わかっているよと苦笑
した。
「……」
言わでものことを言ってしまったと気づいて、忍人はまた目を伏せた。遠夜ほどではない
が、那岐も植物に関する知識は深い。名は思い出さなくとも、有毒植物くらいはそらんじ
ているはずだ。なんとなく、いたたまれない。
やがて那岐が戻ってきた。左手に一輪花を提げてはいるが、どうやら目的は花そのもので
はなく根の方だったようで、白い手を泥で汚し、腰につけた小袋に掘り出した鱗茎を放り
込んでいる。
「大丈夫。薬に使うんだ。すり下ろして布に塗ってはると打ち身に効く」
宮のあたりでは見ないから、遠夜に持って帰ってやろうと思って。
説明する那岐の声が少し甘やかに優しい。
「心配した?」
「……」
どう答えていいのかわからない。忍人が目を伏せたまま何も言えずにいると、那岐がまた
話し始める。
「毒のある草は、ほんの少し使うだけなら薬になるものが多いし、どんな草も量を過ごせ
ば毒になる」
那岐の手がそっと、忍人の指に触れる。
「時々思うんだ。…毒と薬の関係は、人を好きになる気持ちに似てるって」
「……?」
忍人はようやくまじまじと那岐を見た。
「…というと?」
那岐がふっと笑う。
「やっと僕を見た」
「……」
そらそうとした顔を那岐の片手がそっと押さえた。
ひやりと冷たい土の匂いがする。
「…人を好きになるって、…少しだけならすごく楽しいのに、好きになればなるほど苦し
くなる」
まっすぐ見つめてくる那岐の若葉色の瞳から目が離せない。
「…那岐は、苦しいのか」
「……いつもじゃないけど、…時々ね。…今みたいに、忍人が僕から目をそらそうそらそ
うとしていたら、嫌われたんじゃないかと不安になるし、君の目が千尋を追っていると、
それが臣下としての務めからだとわかっていても、嫉妬で胸が痛くなる」
……ちりり。
忍人は、先刻の胸が焦げるような感覚を思い出す。
あんな思いをしているのは、自分の方だけだと思っていた。
「…同じか」
「…何が?」
「俺も、…時々、胸がちりちりと灼けるように思うことがある」
たとえばあちらの世界の話を聞くとき。思いもよらないことがたくさんあって、話に聞き
入りながらふと、胸に忍び寄る何か。
「それはたぶん、…君と風早と陛下の間にある空気を、自分はどうあっても共有できない
という嫉妬なのだと思う」
頬を押さえていない方の那岐の手が、忍人の手をぎゅっと握る。
「…そっか。同じなんだ」
つぶやく声がいつもよりも低く、男っぽくて、ぞくりとする。
那岐は、忍人の手は握ったまま、頬からは手を放して、その代わりにその手で忍人の肩を
かき抱いた。一瞬、人が通るのではという不安が忍人の胸をよぎったが、なぜかやめてく
れとは言えなかった。……言いたくなかった。
「…嫉妬するのは僕の方だと思ってた。僕ばっかり好きなんだと思ってた」
忍人の肩に額を押し当てて、ぐずる子供のように那岐は言いつのる。鎖骨にかかる吐息が
熱い。
「…同じことを、俺も思っていた」
忍人がぼそりと言うと、那岐が顔を上げて忍人をのぞき込んだ。いたずらっぽい目で笑う。
「好きなのは自分ばっかりだって?」
「…ああ」
くっ、と笑って、また彼は忍人の肩に顔を伏せた。
「そんなわけないじゃん」
僕はこんなに君が好きなのに。
思いを吐露する声の切なさに、胸が震える。背筋をぞくぞくと何かがはい上がる。たまら
ず忍人は、那岐に捕まれていない方の手で、彼の背を抱いた。
誰に見られてもかまうものかと、思った。

深く恋する思いは、確かに毒に似ている。めまいのような酩酊感。感覚や気持ちの麻痺。
胸を灼く熱。

忍人はかき抱きかき抱かれながら、燃え上がるような赤い花の群れをぼんやりと眺めてい
た。
炎のように赤く咲く毒の花。
自分の心の中にもきっと、あの花は咲いているのだ。咲き続けているのだ。
この思いが、この身が、恋に焼き尽くされるその日まで。