ひかりふる 僕と榊先輩は幼なじみだ。家が近くて、榊先輩の家が僕のうちの神社の氏子、おまけに昔 ながらの古い住宅街の常で、年の近い子供は少ない。だから、小さい頃はよく一緒に遊ん だ。 子供の時から榊先輩は背が高くてかっこよかったけど、おおざっぱでいいかげんで物言い が軽くて、…僕はよくそのことにかみついた。二歳違いなのに子供扱いされるのも我慢な らなかった。 僕がわあわあ騒ぐのを、榊先輩はいつもさらりと受け流すだけだったけど、たぶん向こう も僕のことを、堅物だとかめんどくさいなとか思っていたと思う。 それでも、小学校に入ってお互いに学校の友達と遊ぶようになるまでは、僕らは兄弟のよ うに毎日を共に過ごしていた。それはたぶん、年が近い幼なじみというだけではなくて、 一見全く似ていない自分たちの共通項に、僕ら自身は気付いていたからだ。 お互いに一人っ子で、でもたくさんの大人達に囲まれて育てられた僕らは、物心ついた頃 には既にけっこう世慣れた子供になっていた。家業の関係で人のお世話をすることも多か ったから、必然的に目配りのきく性格にもなったし、周囲に対していい子でいるのも苦で はなかった。 …だけど時に羽目を外して思いっきり暴れたいときもある。そんなとき、互いの存在はと ても貴重だった。 中学校に上がる頃には、年に二回くらい神社の手伝いに来てもらって顔を合わせるくらい で、遊ぶどころか話す機会もなくなっていたけれど、母づてに、先輩が星奏に入ったこと、 ヴィオラを始めたことは聞いた。 初めてその話を聞いたとき、僕は少し意外だった。 先輩は病院を継ぐものだと思っていたし、今でも思っている。星奏は家から近いし、偏差 値も高いけど、少し離れればもっともっと受験に特化した高校はいくらでもある。先輩な らそういう進学校に進んで、勉強に専念するものだと思っていた。 どうして星奏に決めたんだろう。…そしてどうして、突然ヴィオラを始めたんだろう。 かすかな疑問を胸の奥に抱いて、けれど聞く機会はないまま、僕も15歳の四月に星奏学 院の門をくぐった。 小学生の頃からチェロを習っていた僕は、榊先輩とは違って音楽科に入学し、入学したそ の日に迷わずオーケストラ部を訪れた。 「失礼します」 少し開けにくい扉を開けて部室に入ると、上級生が二人、何か立ち話をしていた。片方は 音楽科の制服を着ているが、もう一人、僕に顔を向けている方の生徒はなぜか普通科の制 服を着ている。オケ部はてっきり音楽科の生徒ばかりだと思っていた僕がぽかんとしてい ると、驚いたことにその普通科の生徒は僕を見て 「ハル?」 声を上げた。 「久しぶりだな。…去年の夏祭り以来か?」 大股に近づいてきたその人が自分のよく知る人だったことに驚いて、僕は思わず大声を上 げてしまった。 「…榊先輩!?」 僕の大声に、榊先輩は少し目を丸くしてから、くくくと笑った。 「榊先輩、だって」 からかうようにわしわしと僕の頭を撫でる。 「ついこの間まで、大地!って呼び捨てだったのに」 「それは小学校の時の話です!」 頭の上の先輩の手を振り払って、僕は叫んだ。 確かに小学生の時までは先輩のことを呼び捨てにしていたけど、中学校に入ってからはち ゃんと榊先輩って呼んでる、つもりだ。 「大地、知り合いか?」 静かな声が、にやにや笑う先輩とぐるぐるうなる僕の間に割って入った。 気付けば、さっきまで先輩と話していた人が、じっと僕たちを見ている。 そのびっくりするほど整った顔立ちと、すらりと立っている背格好に、僕ははっとした。 入学式で、音楽科の上級生が新入生を歓迎する曲を弾いてくれた。そのとき、ヴァイオリ ンソロを弾いた人だ。 彼は、他の人とは違って比較的技巧的には平易な曲を選んでいたが、それでいて不思議と、 確かな技術の裏付けを感じさせる弾き方だった。理知的な外見が見ようによっては冷たく も見える人なのに、彼の奏でる曲が穏やかであたたかかったのが少し意外で、強く印象に 残っている。 榊先輩は振り返り、その人の方へ数歩戻りながら、 「幼なじみなんだ。小学生の時からチェロをやってる」 と僕のことを説明した。 「…大地にチェリストの幼なじみがいたなんて、初耳だな」 静かに穏やかに話す人だ。そのせいだろうか、榊先輩の声も、僕が知るそれよりは穏やか に低く、柔らかい。 二人が並び立つと、ひどく絵になった。 かすかに伏せられる榊先輩の視線。やや見上げる彼の人の視線。 互いに腕組みして立って、数歩分の間隔が空いているのだが、しっかりと結ばれたその視 線だけで、触れる近さで寄り添っているかのような錯覚を覚える。 「ハル、紹介するよ」 声をかけられて、僕ははっと我に返った。 「うちの部の部長。…如月律だ」 …うちの部? 「…ここ、…オケ部の部室ですよね?」 「そうだよ。…だから来たんだろ?」 「…なんで、榊先輩がうちの部って言うんですか」 「…」 榊先輩は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。横で、ふっ、と如月部長が笑う。静か だが、いかにも愉快そうなその顔をうらめしそうに榊先輩は見て、あのな、と額に指を当 てながら僕を見た。 「俺はオケ部の副部長だから、うちの部って言ったんだが。何か問題が?」 ・・・・・。 「なんで!?」 「はははは」 僕の出した大声に、こらえきれなかったらしい部長はとうとう声を上げて笑い出した。 「そんなに笑うかあ?律」 「いや、すまん。…つい」 「ハルも、なんで!?はないだろうよ…」 「だって、なんでオケ部!?榊先輩が!?」 …あ。 叫んだ瞬間思い出した。母さんから聞いてたこと。 「…ハル?」 「…すいません、今思い出しました。母から先輩が星奏に入ってヴィオラを始めたことは 聞いてました」 そうか。そういうことか。 「オケ部に入ったから、ヴィオラを始めたんですね」 少し騒ぎすぎたことが今更ながら恥ずかしくなってきて、声を少し小さくして言うと、榊 先輩はさばさばと笑ってくれた。 「…そうか、おばさんから聞いてたのか。でも、前もって聞いてても、ハルが少しくらい 驚くのはまあ無理ないさ。そんなに真面目にすまながらなくていいよ。……だけど律。お 前はいい加減笑いすぎ」 ぽん、と先輩に後頭部を軽く叩かれた部長は、一生懸命笑いをこらえようとしている。が、 どうにもこらえきれないようだ。その瞳が僕を見て、まるで共犯者を見つけたというかの ように(たぶん僕の顔にも笑いが伝染していたのだろう)きらきらと輝く。 「…っ」 光の粒をこぼしたみたいな笑顔だと、思った。 なんてきれいに、やわらかく笑う人なんだろう。 …それが僕の、如月部長の第一印象だったんだ。 僕の部長への第一印象は、だけど、誰に言っても怪訝そうな反応をされた。 「部長が柔らかい?」 はあ?と露骨に顔をしかめる人も多い。 言われて僕も気付く。…普段、オケ部で前に立っているときや、時々音楽科棟で教室移動 の時にすれちがう如月部長は、いつも静かな表情で、柔らかいというよりむしろ硬質な印 象を与える。…硝子とか、水晶とか、…もっと言えば、つららや氷のような冷ややかささ え感じるほどだ。 …あのときはあんなに柔らかかったのに。 僕はただ不思議がるだけで、理由を考えようとはしなかった。 それはたぶん、突き詰めてはいけないと僕の中の何かが僕にセーブをかけていたのだと思 う。 その理由が、問答無用で僕に突きつけられたのは、ある日の昼休みのことだった。 その日、僕は弁当箱を抱えて屋上に上がった。 いつも一緒に弁当をつつく相手が今日は食堂で食べるという。…食堂はいつも席の争奪戦 がすごい。食堂のメニューを食べるならともかく、席を待つ人が多い中で弁当を広げるの は何となく気が引けた。 重いドアを押し開けると、その音が耳に入ったのか、屋上のベンチに座っていた人達が振 り返ってこちらを見た。 …見れば、知った顔だ。 「あれ?ハルも今日は屋上か?…よかったらこっちで一緒に食べないか?」 声をかけてきたのは榊先輩だ。大きなアルミのお弁当箱を広げている。隣にかけている如 月部長は購買部のパンの袋を今しも開けるところだった。 「はい、お邪魔します」 榊先輩の隣にちょこんと座って弁当箱を開く。 「おお、豪華」 遠慮なくのぞき込んできた榊先輩が声を上げた。 「いつもこんな豪華な弁当なのか、ハルは」 「いえ、昨日、ご近所の神社で大きな祭礼があったんです。祖母や母達が手伝いにいって、 お供えのおさがりや宴会のごちそうのあまりをいただいてきたので、これはそのあまりの あまりです」 「へえ。そんなこともあるんだ。…助け合いなんだなあ、神社も」 なるほど、とうなずきながら、榊先輩はなぜか部長に余分のはしをさしだしている。…部 長が自然とそれを受け取って、榊先輩のお弁当からおかずをつまんだ。 一瞬首をひねったけれど、ああそうか、とすぐに気付く。 寮は朝晩の食事は出るけど昼はない。パンばかりだと栄養が偏るから、榊先輩がおかずを わけてるんだ。 …ふうん、と納得する気持ちの裏で、なんだか、胸がきやきやする。 …何だろう、これ。 僕の感慨をよそに、榊先輩が一人で間を取り持つようにしゃべっている。 「残念。その煮豆がハルのおばあさん作ならもらおうと思ったんだけどなあ。ハルのおば あさんの金時豆は絶品だから」 「あ、これはおさがりじゃなくて祖母の作ですよ。よろしければどうぞ」 「いいのか?」 榊先輩の顔がぱっと輝く。わかりやすい反応に、僕はつい苦笑してしまう。 「どうせ僕は、うちに帰れば晩ご飯にもこれが出るんですから。…部長も、ごはんのおか ずが甘いというのがお嫌でなければ、どうぞ」 おさつのたいたのとか、甘い卵焼きとか、うちではけっこう出るおかずだけど、それが駄 目って人もいることは知ってる。だから無理強いは出来ないけど、祖母の作る煮豆は、榊 先輩じゃないけど本当に美味しいから。よかったら部長にも食べてもらえるといい。 僕が差し出した弁当箱に、部長は少しあいまいな顔で、 「いいのか?」 と問うた。 一方で榊先輩は遠慮なく、一度に二つほども豆をつまんでいる。 「味見させてもらえよ。本当に美味いから。…うう、久しぶり」 「じゃあ、失礼する」 きれいな箸使いで豆を一粒つまんだ先輩は、口に入れて、…ふわ、と笑った。 …その、柔らかい、笑顔。 「…ああ、本当だ。…美味い」 低く静かな優しい声に、僕ははっと我に返る。一瞬、僕は部長にみとれてしまっていたよ うだ。 「なあ、言っただろう?」 榊先輩が、まるで自分の手柄のように自慢げに言う。榊先輩が威張ることじゃないでしょ うと僕がたしなめる前に、部長は先輩に向き直って、ゆったりとうなずいていた。 「…うん」 …ああほら、また。 きらきらと、光の粒をこぼしたみたいな。さらさらと、胸に音が降ってくるような。 改めて僕に向き直って、ごちそうさま、美味しかった、と言ってくれた笑顔は、あのとき のあの笑顔だった。 「…いえ。そう言っていただけたと聞いたら、きっと祖母が喜びます」 折り目正しく答えながら、どきどきと僕の鼓動は早くなる。 胸の中できやきやしている感じが、痛みに変わる。 ……だって、気付いてしまった。 自分が、部長に焦がれていること。…部長の笑顔に惹かれてしまっていること。 それなのに、その笑顔は僕のものではないんだ。 その笑顔は榊先輩のもの。僕に向けられていてさえ、榊先輩のものなんだ。榊先輩が側に いるときだけ、見られる笑顔だ。……僕のものじゃない。きっと僕のものにはならない。 せつなくて痛くて、…だけど、榊先輩のものだとしても、今は僕に向けられている。それ がひどく幸せで。 楽しいのか苦しいのかわからないまま、僕も笑い返していた。 僕の初恋と失恋は、こうして同時にやってきた。 今も本当は、並び立つ二人を見ると時々、胸にじわりと何かが打ち寄せてくることがある。 それはたいてい、あの笑顔が榊先輩にだけ向けられているときで。 だけどそのたび、僕は目を閉じる。僕の胸にこぼれる光、僕の胸に降る音を。部長が僕に くれたものを思い出す。 いろんな思いが凪いで、僕の中で音楽になるまで、ずっと。