秘密

オケ部の練習が終わって、皆が片付け終えて三々五々出て行った後の音楽室で。
最後の最後まで音合わせをしていた律と響也が荷物を片付けるのをぼんやりと待ちなが
ら、ふとハルが、そういえば、と大地を見た。
「この間、山本先生にお会いしましたよ」
「久しぶりだなあ。お元気だった?」
大地が眼を細める。どうやら共通の師匠であるようだ。
「ええ。相変わらずかくしゃくとしてらして、おきれいで。高校に入学して榊先輩と同じ
部に入った話をしたら、大地くんは元気かしら、また道場に来ればいいのに、と仰ってま
したよ」
大地が首と手を振ったのは、いやいや無理無理、という表現であるらしい。
「俺みたいな見込みのないのがいってもなあ」
「見込みがあるから仰ってるんですよ。有段者じゃありませんか、榊先輩」
「…何の話ですか?」
盛り上がってるところに、かなでがふわりと首をかしげた。ハルは、二人だけで盛り上が
ってすいません、と断ってから、
「僕と榊先輩が一緒に教わっていた合気道の先生に、この間お会いしたんです。僕は子供
の頃武道を一通りやらされていたので、榊先輩のお母さんが何か習わせたいって仰ったと
きに、僕の母が先生をお薦めしたみたいで」
結構熱心でしたよね、とハルは大地に話を振るが、大地は首をすくめるだけだ。
「僕は結局剣道一本にしぼってしまって、合気道は小学生で止めてしまったんですが、榊
先輩は中学生くらいまで続けていたんですよ、確か」
「へえ…!」
かなでにきらきらした目で見つめられて、しぶしぶ、という様子でようやく大地が口を開
いた。
「惰性でね」
「惰性で有段者にはなりませんよ。…それに、実践もしたじゃありませんか」
「実践?」
「…実践?」
「ええ。榊先輩は昔」
「ハル」
ハルが何を言おうとしているかに気付いた大地が慌てて止めようとしたが、出かけた言葉
は急には止まらない。
「…誘拐されたことがあるんですよ」
「………ゆうかいぃーー!!?」
かなでのすっとんきょうな大声に、三人の会話を聞いていなかった如月兄弟が驚いた顔で
振り返った。
「何の話をしてるんだ…?」
「なんか、聞き捨てならねえ話してねえか?何だよ、誘拐って!」
大地は、ぱふ、と自分の手で自分の顔を覆った。…その反応を見て初めて、ハルがおずお
ずと、
「あの、すいません。…言っちゃいけなかったですね」
「…遅いよ、ハル」
「…って、大地か!?大地が誘拐されたのか!?いつ!?なんで!!??やっぱり医者の
息子だから!!???」
響也が片付けをほっぽり出して詰め寄ってきた。餌を目の前に掲げられた子犬のような顔
をしている。かなでも好奇心と怖さがないまぜになったような顔でじっと大地を見つめて
いる。…律までもが話を促すように眼鏡のブリッジを押し上げたとあっては、今更、いや
いや今のは冗談です、聞かなかったことにしてください、とはとても言えない。
「…昔だよ、昔。…子供の頃だ。医者の息子だからというより、ぼうっとした子供だった
からだろう」
どこが、とこっそり言ったのはハルだったようだが、大地は無視した。
「で、で、どうなったんですか?やっぱり縄で縛られたり、山の奥の小屋に閉じこめられ
たり、かっこいい名探偵が助けに来てくれたりしたんですか!?」
「…小日向」
律が額を押さえ、大地は苦笑した。
「縛られはしたけどね、あいにく、かっこいい名探偵はなし。閉じこめられたのも、逃げ
出せないような山奥の小屋じゃなくて、家の近くの雑居ビルの、しかもかなり間抜けな話
だけど一階だ。…だから、トイレに行きたいって言って縄を外してもらった瞬間に、見張
りに当て身食らわせて気絶させて、…後は自分で窓の鍵を開けて逃げたよ」
・・・・・。
状況を知っているのだろうハル以外は、ぽかんとした顔になった。
「…あのう、何かさらっと…とんでもないことしてませんか」
おずおずと言ったのはかなでで、
「……大地……」
律は額を押さえた。
「…どんな無鉄砲だ、お前は」
「いけると思ったんだよ。実際、うまくいったしね。…後からすごい大目玉食らったのは
誤算だったけど」
そのときのことを思い出したのか、大地は大きなため息をついた。
「自力で逃げたからほめられると思ったのに、警察にも両親にも危ないことするなって、
めちゃくちゃ怒られたよ。…まあともあれ、そのとき相当合気道の経験が役に立ったから、
お礼も兼ねて真面目にやろうって、中学までは続けたんだよ、合気道。…ただ、それくら
い続けていると、護身術って意味ではもう充分かなと思えたし、演武の方には興味がなか
ったんで、ちょうど頃合いかなと思って止めたんだ……って、何でこんな話を披露しない
といけないんだ。律、響也、…片付けは終わったのか?音楽室の鍵を閉めて事務室に返し
に行かなきゃいけないんだから、早くしてくれよ」
響也は慌てて元の場所に戻って片付けだしたが、律は何か考え事でもあるのか、再開はし
たものの、のろのろとあまり手が動かない。
結局、響也が先に片付け終わった。楽器店に用事があるというハルにかなでと響也が同調
し、先に帰ると三人で音楽室を出て行ってしまってから、大地はようやく息をつく。
ふと見ると、片付かないのか、律はまだヴァイオリンケースに手をかけていた。
「律、片付いたかい?」
「……」
「……律?」
肩にそっと手を置くと、はっと律が肩をびくつかせた。その反応に、大地の方が少し驚く。
「…悪い。驚かせた」
「いや、考え事をしてぼうっとしていた。…すまない」
その顔が少し青いような気がして、大地は眉をひそめた。
「…考え事って?」
「……」
律はかすかに逡巡したが、大地の顔を見て、ため息と共につぶやいた。
「お前が誘拐されたときのこと」
いつもわかりのいい大地だが、今日は珍しく要領を得ない顔でゆっくりと首をかしげる。
「…というと?」
「もし今そういう状況に陥ったら、お前はまた、自分で何とかしようとして危ない目に合
うんじゃないかと思ったら、…怖くなった」
ひたり、眼差しを大地に据えて。
「……危ないことはしないでくれ。…頼む」
「……」
律の目は、大地をいさめるようでいて、どこかすがるような色もしていた。大地は目を伏
せ、穏やかに何度か首を横に振る。
「…もちろん、今ならあんなことはしないよ。それだけの理性も分別もついたからね。…
昔そうしたのは子供だったからだ」
「…そうか」
目に見えてほっとした律に、大地は含みのある眼差しを向けて、でもねと付け加える。
「もし律の身に危険が迫ったのなら、どんな危ないことでも俺はやるよ」
「…大地!」
咎めるように眉をひそめ、律は声を尖らせた。だが、応じる大地は飄々として、
「律のことになると、俺、理性とか分別とかどっかいっちゃうんだよ。……だから、こん
なこともできる」
「…っ…」
突然大地がのしかかるように律に迫って、律の背後にある机に両手をついた。大地の腕の
間に挟まれて、のけぞるような体勢になった律には逃げ場がなく、唇を奪われてもたださ
れるがままになるしかない。
…校内で息が絡むようなキスをされたのは初めてだった。室内に人気がないとはいえ、窓
にカーテンはない。誰かに外から見られているかもしれないと思うと、羞恥で頬が燃える
ように熱くなった。
恥ずかしくてつらいはずなのに、キスのもたらす熱とは少し違う不思議な心地よさが、じ
わりと律の背筋を這い上っていく。まるで、見られたかもしれないという感覚を快く感じ
ているかのように。
律はぶるりと震えた。
…まさか。…でも。
惑乱して目をぎゅっと閉じ、身体を強張らせる。息を継ごうとしたのか、大地が一瞬唇を
離した隙に、息を吸い込むようにしてその名を呼ぶ。
「…だい、ちっ…!」
「……っ!」
大地がはたと力を緩めた。…我に返ったのだろう、おろおろと、いつもの優しい声でごめ
ん、とささやく。
「ごめん、調子にのった。…俺、ちょっと…。…すまない、律、悪かった、その…」
支離滅裂に謝ってくる大地の声が暖かくて、こわばっていた肩から力が抜けた。…律は吐
息と共にくすりと笑う。
「…そう何回も謝らなくていい、大地。…一度で十分だ」
「…律」
「…その代わり、校内で理性をなくすのも、これ一度きりにしてくれ」
律の言葉に、大地の顔にも朱が走る。口元を大きな手で押さえ、目をあらぬ方に向けて。
「…………ごめん」
直立不動で深々と頭を下げられて、律は笑った。
もういいと言っているのに、とからかうように言うと、ようやく大地は少しほっとした顔
になる。
その左手に己の右手の指をからめて。律は、あの不思議な心地よさのことを大地に話そう
かと一瞬考え、…すぐにその考えを打ち消した。

…自分にも一つくらい、大地に言えない秘密があってもいい。