人を恋ふる

中庭から、鋭い声が聞こえる。渡廊から忍人がちらりと顔をのぞかせると、裂帛の気合い
を上げているのは羽張彦だった。
忍人は、ふと、まっすぐ切りそろえた髪を揺らして首をかしげた。
……羽張彦が一人なのは、とても珍しい。
いつも彼は誰かと一緒にいた。一人が好きな兄弟子たちもいるが、彼は常に誰かといるこ
とを好んだ。
師君にたくさんの課題を出されて道臣に泣きついていたり、剣の稽古に風早を連れて行っ
たり、橿原宮へ用事であがるときには柊を誘ったり。
忍人自身、稽古につきあわされたり、散歩につきあわされたりと、羽張彦に連れ出された
例は枚挙にいとまがない。あるときなど、「散歩だ!」と言って師君の屋敷からほど近い
野原に連れ出されたまではよかったが、そこでごろりと羽張彦が横になって昼寝を始めて
しまったのには閉口した。同じようにころりと横になってみたが自分は眠くもならない。
仕方がないので、手頃な棒を見つけて、羽張彦が起きるまで一人、素振りの練習をした。
起きた羽張彦が悪い悪いとずいぶん恐縮するので、昼寝がしたいなら一人で散歩に出れば
いいのに、と言ってみると、寂しいじゃないか、そんなの、と言い返された。
「昼寝だって、誰かとした方が楽しいぞ」
……それはどうだろうか、と思ってしまった忍人である。
…ともあれ、昼寝でさえ誰かと一緒にしたい羽張彦が、一人きりで剣を振っているなど、
忍人にとっては前代未聞の出来事だった。
「……羽張彦」
ので、思わず声をかけてしまった。
「おう、忍人か!なんだ、一緒に稽古するか?」
…屈託なく誘ってくるところを見ると、別に一人で稽古したいわけではないらしい。
「いや、俺はこれから書庫の整理当番だから、一緒には稽古できないけど、…どうしたん
だ?一人で」
「…んー、…まあ、いろいろと思うところがあってな」
羽張彦は言葉を濁して頭をかいた。
……言葉を濁す羽張彦も、忍人的にはとてもとても珍しい。
「風早か、柊は?」
仲のいい兄弟子の名を上げると、ああ、とまた羽張彦はもぞもぞ言った。
「風早は今日は二ノ姫のところだろう。…柊は、一ノ姫のところに行ってる」
「……どうして、一緒に行かないんだ?」
忍人は知っている。柊と羽張彦が橿原宮に行くときはいつも一緒だ。二人で一ノ姫のとこ
ろに行って、二人で帰ってくる。…たまに、柊が先に帰ってくることはあったが、羽張彦
が柊を置いて先に帰ってきたことはなかったと思う。
「…今日は、行かないんだ」
羽張彦は、歯を食いしばっているような顔で言った。
「……?」
忍人は、ほわん、と首をかしげた。
「…忍人。…俺は、反省しているんだ」
「……反省?」
「俺は、友人の気持ちを思いやることも出来ない、駄目な奴だ」
「………」
突然そんなことを言われても、忍人は面食らうしかない。
「…俺は、…姫と会うのが楽しくて楽しくて、…だから、気がついてなかったんだ。柊が、
俺に気を遣って、時々自分だけ先に帰ってしまうことに」
しかも、自分ではそのことに気がつけなかった。
「この間姫を訪ねた帰りもそうだった。柊が先に帰って、俺はのんびり姫と話をしていて、
…姫がふと、どうして柊は時々先に帰ってしまうのかしらって言って、…そのとき気付い
た。…柊は、俺に気を遣っているんだと」
だから、今日は俺は一緒に行かないんだ。…柊が、姫と二人きりで話してくればいい。
「……」
忍人は、小さい眉間に精一杯しわを寄せた。
…なんだか、羽張彦の論理が、わかるようなどこかおかしいような…。
「…羽張彦。柊が気を遣って先に帰っているのは確かなのか?」
「どうして先に帰るんだって聞いたら、野暮なことは聞くものじゃありませんよと言われ
たからな。…そういうことなんだろう、つまり」
……ううん、なるほど。じゃあそれはそれとして。
「柊は、姫と二人きりで話がしたいと言ったのか?」
「そんな野暮なことが聞けるか」
羽張彦は胸を張った。…そこは別に胸を張るところじゃない、と忍人は思った。
「でも、俺は姫と話していると楽しい。…二人きりで話して、姫の目がじっと俺を見てい
てくれるならなおのこと。…だからきっと、柊もそうだ」
………そこだ。その論理が変だ。
「……羽張彦。柊が一ノ姫のこと好きなのかどうか、ちゃんと確かめた方がいいと思う…」
「確かめるまでもないさ」
……だから、なんなんだ、その無駄な自信は…。
忍人は、なんだか羽張彦との会話に疲れて、がっくり肩を落とした。
「…とにかく俺は、もっとちゃんと柊に話を聞いた方がいいと思う。…じゃあ、これから
当番だから、俺はこれで」
ふらふらしながら渡廊に戻って、書庫へ向かう。建物に入る直前、ちらりと中庭を振り返
ると、ぽかんとした顔で自分を見送る羽張彦が見えた。

「……忍人」
次の日の夕方、忍人に話しかけてきたのは柊だった。
「…何か?」
「散歩に行きませんか。…風が、気持ちいいですよ」
柊の言葉は勧誘だが、有無を言わさぬ雰囲気がある。
別に、散歩が嫌なわけではない。…忍人は黙って柊について行った。
柊が忍人を連れ出したのは、この間羽張彦が昼寝をしてしまった野原だった。…柊も、昼
寝をするかな、とちらりと忍人は思ったが、さすがに彼はそんなことはしなかった。
だが、連れ出したのは柊のくせに、野原の真ん中で立ち止まったきり、黙りこくっている。
だから忍人も黙って、ぼんやり夕空を眺めた。
強い光を放つ星が一つ、空に輝いている。
その瞬きを見つめていると、ようやく柊が口を開いた。
「羽張彦に何を言ったんです、君は」
「…?」
忍人はふわりと首をかしげた。
「今日、羽張彦に聞かれましたよ。…お前は一ノ姫のことが好きなのかと」
ああ、あのことか、と忍人は首をゆるりと元に戻した。結局真正面から柊に聞いたのだな、
羽張彦は、と、忍人は少し満足に思った、が。
「なぜそんなことを、と言ったら、羽張彦は、忍人が聞けと言ったと」
続く言葉にあっけにとられ、ぽかんと口を開けた。
明らかに唖然としている忍人の顔を見て、ようやく柊の表情もゆるんだ。くす、とかすか
に苦笑が漏れる。
「どうやら、君も他意があって羽張彦に聞かせたわけではないようだ」
「他意、というか…」
忍人自身は正直どうでもいいのだ。羽張彦が一ノ姫を好きだろうが、柊が一ノ姫を好きだ
ろうが。柊が一ノ姫を好きかどうかと悩んでいたのは羽張彦ではないか。
「……柊」
やむを得ず、忍人は昨日の一部始終を柊に説明した。
「俺は、羽張彦がなんだか変な思いこみをしているようだったから、一度ちゃんと柊に確
認した方がいいと思ったんだ。それだけだ」
「…なるほど。…ようやく飲み込めました」
説明する忍人も眉間にしわを寄せているが、聞き終えた柊も額を押さえている。
「…というか、羽張彦も何を子供に説明しているんだか」
「子供じゃない」
常の癖で、むっとして忍人が言い返すと、
「ここで混ぜ返さないでください。…恋愛関係の分野くらい、子供扱いされてもいいでし
ょう、君だって」
柊にぴしゃりと言われて、思わず首をすくめた。…確かに、じゃあ、とばかりに恋愛相談
をされても忍人には答えかねる。
「……羽張彦に、…なんて言った?」
柊は、君には関係ないでしょう、と言うかと思ったが、巻き込んだという意識があるため
か、意外と素直に彼は答える。
「姫宮として尊敬申し上げている、と言いましたよ」
………。
その答えを聞いて、忍人は思わず上目遣いに柊を見てしまった。普段なら、身長差を感じ
るこの目線で柊を見ることは断じてしたくないのだが。…こういう分野についてはやはり、
自分は少し子供扱いされたいようだ。
「…なんです」
「羽張彦、納得した?」
「一応ね」
……たぶん、その一言だけじゃなく、あれやこれやと口先でごまかしたんだろうな、と忍
人は思った。
今度は柊が聞き返してきた。
「なぜそんなことを聞くんです」
「俺だったら、その言葉だけでは納得しない」
柊が薄く笑った。
「…まあ、そうでしょうね」
そう言って、ついと横を向く。…その横顔にいらだちが見える。自分でも自分に納得でき
ていないような。いや。
忍人は、また首をかしげた。
きりとつぐまれた柊の唇が、…もっと何かをはき出したいように見えてならない。
…だから、もう一度聞いてみた。
「…柊。…本当は、姫様のこと、どう思ってる?」
「…聞きたいですか?」
剣呑な目で柊が忍人を見る。
「……」
忍人は黒目の多いまろい瞳でじっとその目をのぞき込んだ。
「俺が聞きたいというより、柊が言いたいんじゃないかと思った。自分の気持ちを。羽張
彦でない誰かに」
ふっ、と柊の瞳がゆるんだ。…それから、くっくっと、肩をふるわせて少し笑う。
「…かないませんね、君には。…そういうところ、羽張彦よりもよほど大人だな」
ふう、と空を見上げた、その柊の二つの瞳に、星が映る。
「…そうですね。…私はたぶん、一ノ姫をお慕いしているのでしょう」
言ってから少し首をかしげて。
「けれどそれは、羽張彦が一ノ姫をお慕いする気持ちとは少し違うように思います」
「……?」
忍人ははっきりと首を傾けた。柊はまた笑う。
「…上手く説明できていませんね。…しかたない。君には正直なところを話しますから、
誰にも言わないと約束してくれますか?」
もちろん、と忍人はこっくりうなずいた。その姿を見て、柊はまたゆるゆると話し出す。
「…私はどうも、羽張彦と共にいるときの一ノ姫をお慕いしているように思うのです」
「…?」
忍人の頭の中の疑問符がなかなか減らない。
「私と二人きりでいらしても、姫の聡明さや美しさに何ら変わるところはありません。…
ありませんが、しかし、羽張彦といらっしゃるときの姫の方がもっと輝いて楽しげでいら
っしゃる。…つまり私は、羽張彦に恋をしている姫のことを、お慕いしているのです。…
どうやら」
「……」
ようやく、忍人の頭の中の疑問符がいくつか減った。
「…それは…」
もごもごと口ごもる弟弟子を見て、柊は苦笑してみせた。
「不毛な恋でしょう?…恋とさえ呼べぬと思えます。だから、姫宮として尊敬申し上げて
いる、と羽張彦に伝えた言葉に嘘はないのです。私としては」
「……」
忍人は何か言いかけ、また口を閉じた。そしてじっと考え込む。
「…忍人?」
柊に促され、忍人はもごもごもごと口を開いた。
「少しわかって、少しわからない。…そのわからないことを、聞いてもかまわないか?」
「…どうぞ」
真正面から、忍人は柊の目をのぞき込む。上目遣いに、ではない。精一杯同じ目線で。
「姫と羽張彦が幸せになれば、柊はうれしいか?」
「…!」
驚く柊の瞳に二つ、忍人が映る。必死な顔の忍人が。
その忍人の顔は、柊のまぶたが伏せられて、消えた。
じわりと忍人の言葉を噛みしめて、…柊は、薄く笑ったようだった。
「…ええ、はい。…とても。心の底からうれしいです」
誰よりも、どの二人よりも幸せになってほしいと、願っています。
忍人は、その答えにとても満足した。
「…うん。…それなら、いい。何かが腑に落ちた気がする」
「…そうですか」
柊も、うん、と一度うなずいて。
「…ありがとう、忍人。…君は優しいですね」
ぽつりと言った。
「…?」
「わざと私に聞いてくれたのでしょう。…私がはき出せるように」
正面切って言われると、何か恥ずかしい。忍人がそっぽを向くと、くくっと、いつもの柊
らしい笑いがこぼれるのがわかった。
「すっきりしましたよ。…本当にありがとう」
帰りましょうか。…遅くなりましたね。君を余り遅くまで引き回すと、あとで羽張彦から
私がお小言をちょうだいしてしまう。
ゆるり、と柊が歩き出す。ぽん、と弾むように忍人も駆け出して、あっという間に柊を追
い抜いて走っていく。柊は慌てない。空を見上げ、悠揚せまらぬ様子で歩いていく。
その瞳に、星が二つ映って、輝いていた。