その、ひとしずく。


朝早くから派手にインターホンが鳴らされた。モニターでやりとりしていた母親が大地を
振り返り、
「お友達よ、大地」
と言うので、てっきりオケ部の誰かかクラスメートかと思ったら。
「…。東金、土岐?……どうかしたのか?」
門の前に立つ二人は少し深刻な顔をしていた。特に土岐の顔色がひどく悪い。…が、大地
はそのことよりもまず、東金が土岐の手を、幼稚園の遠足よろしくがっちりと握っている
ことに目を奪われた。仲がいいのはよく知っているし、しょっちゅう抱きついたりじゃれ
ついたりしている印象はあるが、お手々つないで歩いてくるのは、それとはまたイメージ
が違うというか。
本当に仲がいいんだな、と、思わず感慨に耽ったが、実は、お手々つないで、にはそれな
りに事情があった。
「すまん。こいつが熱を出した」
東金はそう切り出した。こいつ、と言って、あごをふいと土岐に向ける。
「だが、寮の奴らはみんな健康体で、それらしい病院の心当たりがないと言うんだ」
少し早口で事情を説明されて、大地は頭をかいた。
「…で、うちへ?……言ってなかったかもしれないけど、うちは外科だよ。発熱は専門外
だ」
「知ってる。だがお前は地元っ子だし、病院つながりのネットワークもあるかもしれない
と思った。蓬生を、適当な内科に放り込んでやってほしいんだ」
「…ええわ、千秋」
青い顔で黙って横に立っていた土岐が、その時初めて口を開いた。
「熱いうても微熱や。これくらい慣れてる。今日は千秋のソロコンやのにそんなこと言う
てられへん」
「今日が俺のソロコンじゃなきゃ、俺だって無理矢理病院に放り込みにきやしねえよ。…
お前、その体調で会場に来る気だろう」
土岐が言い終わるのを待たずに、東金が顔をしかめて苦い声で言った。…そのやりとりに、
東金が暗に頼まんとするところがようやく大地にも見えてきた。
「…なるほど。…俺の仕事は病院案内人じゃなくて、むしろ目付役か」
大地の言葉に、東金がにやりと笑う。
「わかりが早くて助かる。…放っとくと絶対医者に診てもらおうとしないだろうし、無理
して動くしな。…俺は確かに、今日はコンクールの準備があるから、早めに会場入りしな
けりゃならんし」
「了解、引き受けたよ。…後顧の憂いなくコンクールに臨んでくれ」
「頼む。…じゃ、また。……蓬生、おとなしくして、ちゃんと診察を受けて体調が戻るま
で、ホールには来るなよ。…いいな」
言い置いて、東金はまた早足で去っていった。
やれやれ、嵐のようだった、とため息つくと、土岐が背を返して東金が向かったのとは反
対方向へ歩き出そうとするので、慌てて服の裾をつかまえる。…東金がぎゅっと土岐の手
を握りしめて放さなかったのは、こういう事情かと理解したが、さすがに自分が東金のよ
うに土岐と仲良くお手々をつなぐのはためらわれる。どうしたものかと困惑したまま、土
岐の服の裾を放せずにいると、
「服が伸びるやんか」
口を尖らせたお小言が降ってきた。
まことにごもっともな一言だ。…だが、ここで素直にこれを放すと、
「…逃げるだろう?」
「……」
沈黙は肯定だと理解する。
「東金に後顧の憂いなくコンクールに臨んでくれと請け合った以上、少なくとも俺は、君
をきちんと病院で診察して治療してもらうまでは、逃がすわけにはいかないよ」
「……」
土岐は本当に嫌そうな顔で大地を見て、ぷいっと顔を背けた。
「……千秋は心配しすぎやねん」
「俺はそうは思わないよ」
思わず反論が口をついた。
「…」
「東金は、君とは長いつきあいなんだろう。だから、君が本当にたいしたことがないのか、
少し気をつけた方がいい状態なのかというさじ加減はよくわかっているんだと思う。…岡
目八目、とも言うしね。自分よりも他人の方がよく見えるものだってある。……たとえば、
顔色だ」
土岐は少し動揺した表情になった。
「自分では、自分の顔色なんて見えないだろう。……ひどい色をしてるよ、土岐」
「……」
「こんなところで立ち話なんかさせていられない。…とりあえず、一旦うちに入ろう。子
供の頃、俺が行きつけだった先生に、診察時間前にさっと診てもらえないかどうか、母に
電話で確認してもらうから」
「……」
顔色の一言が効いたのか、ようやく土岐はおとなしくなる。のろのろと自分について入っ
てきた彼を、とりあえず応接間のソファに寝かせて、
「逃げるなよ」
念押しすると、ここまできたらもう逃げへんよと苦笑いが返った。信じて、一人残して部
屋を出る。
まだ病院に出ずに家にいてくれた母をつかまえ、事情を話し、内科への連絡を頼んで応接
間に引き返すと、逃げへんと言った彼はソファから身を起こそうとしていた。
「…逃げるなって言ったろ」
思わず声をとがらせると、
「逃げてへんやん」
こちらもふてくされたような返事が返ってきた。
「寝てる方が、なんか目ぇ回ってだるいから、起きて座らせてもらお、思ただけや」
「……」
もう少しでいがみあいそうになるところを踏みとどまったのは、大地の母親がひょいと顔
をのぞかせたからだ。
「大地。お友達、どう?……あら」
彼女は少し眉をひそめた。
「…本当に、ひどい顔色ね。貧血?…熱よりその顔色の方が心配だわ。……田中先生は、
今すぐ来られるなら診察前にすぐ診るっておっしゃってくださったけど、往診をお願いし
た方がよかったかしら」
「……そこまで、ご迷惑はかけられませんから」
土岐がよそいきの標準語で話すのを聞いて、大地は思わずおっと、とのけぞりそうになっ
たが、ここでつっこんでいる場合ではない。
「とりあえず、こっちから出向く方がいいと思うよ。往診をお願いしたら、今すぐ診ても
らうのは無理で、午後からになっちゃうだろ、母さん。……すぐ診てもらう方がいいと思
うんだ」
「そうね。…じゃ、車出すわ」
「いや、そこまでは」
「「駄目」」
遠慮しかけた土岐の言葉を遮る声ははもった。
すぐ鍵をとってくるから待ってて、とぱたぱた部屋を出て行く彼女を見送って、土岐は何
故かため息のような笑いをもらした。
「……似たもの親子やな、君ら」
「よく言われるよ」
「……」
土岐は少し黙りこくって、…それからぽつりとこう言った。
「…お友達、なん。…俺」
それは問いかけというよりは確認のようなつぶやきだった。大地は困惑して、少し目を伏
せる。
「……ケンカ相手って紹介するのも変だろう。……もし君が俺を君の親に紹介しなければ
ならないとしたら、君なら何て言うんだい?」
「…。…ま、オトモダチ、言うわな」
「…今の言い方、なんか、妙な含みがなかったか?」
「…別に?」
土岐はしらっとそっぽを向いた。大地は腕を組んで、…しかし、それ以上は何も言わなか
った。


大地も子供の頃何回か世話になった老医師は、土岐を診てあっさりと、微熱は疲労のせい
で、あとは暑気あたりと栄養失調と診断し、看護師に点滴を指示して通常の診察に行って
しまった。
点滴室に寝かされて点滴の管をつながれた土岐は、頭上にぶらさがる巨大な点滴袋を見上
げてげんなりした声を出した。
「…これ、君がお願いしたんちゃうやんな」
「…何で俺が」
「点滴されとう間、俺、動かれへんし、逃げ出されへんやん。…せやから」
ぽん。…大地は右手の拳で左手を叩く。
「なるほど、名案だ」
「ちょ。…まじで?」
「…。そんなわけないだろう。れっきとした先生の指示だよ。おとなしく最後まで点滴さ
れてるといい。……ひどい貧血と栄養不足だってさ。……こっちの食事は、そんなに口に
合わない?」
「…そういうわけやないよ。…元々、家におっても夏は全然食が進まんたちや。口に入れ
るんおっくうやし、呑み込むんしんどいし。…食べるって、結構エネルギーいるんやで。
…知っとった?」
「知ってる。…でも、だからこそ食べてエネルギーを作らなきゃいけないんだろ」
「・・・・。…母親みたいやなあ、榊くん……」
まじまじと見つめられ、しみじみと言われて、大地はむっつり拗ねた顔を作ってから目を
そらした。
「すまないね。…母親似で、こういう性分なんだよ。……俺の看病だと気が滅入るような
ら、八木沢でも呼んでこようか」
こちらも不機嫌な顔で寝台に横たわっていた土岐が、ふと肩を大きくふるわせた。
「……何で、八木沢くんなん?」
その声に含まれたかすかな痛みのようなものに気づいて、大地は少し困惑した。
「…何で、って」
自分としては、ごくごく常識的な提案をしたつもりだった。
「君のところの芹沢は、東金のソロコンに付き添うだろうから。…となると、菩提樹寮に
いるメンバーで、看病に向いてそうで、君とそれなりに面識がある奴が他には思い浮かば
ない」
「……」
かすかな間があった。
「…八木沢くんは、あかん。…千秋の晴れ舞台を見たいんは俺と一緒やろうと思う。迷惑
かけられへん」
答えが返るまでのその曖昧な間は、続く言葉を嘘だと告げているように感じた。が、大地
にはとっさに、土岐の本心をくみ取りかねた。ただ眉をひそめ、困惑を隠しきれずにいる
と、土岐は薄く笑って、からりとふざけた声を出した。
「小日向ちゃんがおるやんか。女の子に看病される方が元気出るわ」
「かわいい後輩をオオカミと二人きりにする男がどこにいるんだ。……それに彼女じゃ、
君が逃げ出したときに押さえ込めない」
「……君、俺を押さえ込む気か」
「万が一、その必要があればね。…とにかく、俺の看病じゃ不満だろうけど、しばらくお
となしくしていてくれ」
必要があれば使うようにと置いていかれた洗面器の水に、布を浸して軽く絞り、ぺちりと
額の上に載せてやる。
「……」
土岐は無言で眼鏡を外し、与えられた布をまぶたの上に置き直した。
「気持ちいい?」
「ん」
目が隠れただけで、土岐の表情はつかめなくなる。うなずく仕草はがんぜない子供のよう
で、やけに素直だ。
「……少し、寝たら」
「朝起きたばっかりで、寝ぇ言われてもな」
低く笑みを含む声が、…つと、力を失った。
「…俺はほんまに、…あかん、なあ」
「……?」
は?と聞き返そうとして、大地はぐっとのみこんだ。大地の第六感が、とりあえず土岐が
言葉を詰まらせるまで、彼に好きなように思いをはき出させた方がいいと警告してきたか
らだ。
土岐自身、大地の相づちを待つつもりはなかったようだ。まるで一人言のように淡々と言
葉をつづる。
「俺は、壊れかけの車みたいや。だましだましでないとよう走らん」
小さな吐息。
「自分に嘘ついて、周りにも嘘ついて、…それでようやく走っとんや」
大地は口元を手で覆った。うっかりしたことを言わないようにというよりは、はっと呑み
込む呼吸を土岐に聞かれないようにするためだった。
「八木沢くんはきっと、そんなことないんやろな。…心も体も健やかで、誰かに嘘つかな
生きてかれへんなんてこと、絶対ないような気がする」
「……」
「八木沢くんとおったら、自分の嫌なとこばっかり目ぇつく。俺の体は、手術して完治し
た言いながら、時々こんなんなってまうポンコツやし、千秋のそばにおったら、千秋によ
って来るやつ全部牽制したり排除したりしたなってまう。……時々、自分で自分にうんざ
りすんねん」
大地は無言で土岐の独白を聞いていた。土岐は思いがけないほど素直だった。目を布で覆
っているから周りが見えなくて、自分が誰に告白しているのかを失念しているのだろうか。
それとも疲れとけだるさから、もうどうでもいいと捨て鉢な気持ちになっているのだろう
か。
問うてみたかった。…ここにいるのが誰だかわかって、その告白をしているのかい、と。
…ここにいるのは、俺だよ。いつもの君なら、死んでも弱みを見せたくない相手じゃない
のかいと。
「……」
何かが胸に迫って、奇妙にほだされてしまいそうだった。自分を嫌悪するなと、弱くても、
嫌な奴でもかまわないと言ってやりたかった。
しかし、それを土岐に告げるべきは自分ではない。今土岐に必要なのは自分の言葉ではな
い。…それもよくわかっていた。
では、自分が今すべきは何だろう、と、考えて。
「……」
……考えて。
「……」
逆効果かもしれないけれど。…それでも、と、思いついたことを実行する。
「……」
大地は心を決め、そっと手を伸ばした。右手で土岐のこめかみにかかる髪の毛を静かに払
ってやり、ゆっくりとなだめるようにそのなめらかな額を撫でた。
土岐は動かない。
それを見てとってから、今度は左手をのばし、土岐の点滴を受けていない方の手を静かに
握る。
「……っ」
額を撫でられたときは反応しなかった土岐が、つながれた手にはびくりと震えた。
…だが、振り払いはしなかった。
…それは何故か。…その体力が、今彼にないからか、それとも今の彼にはこのぬくもりが
必要だからか。…たとえそれが、心ならずの相手とわかっても。
大地は、後者であれと願った。ここにいるのが気に入らぬ相手ときちんと理解して、それ
でもぬくもりを受け入れてくれているのだと思いたかった。そして、握る手に少し力を込
める。少しでも心が落ち着き、体を落ち着かせる余裕が生まれるようにと。
ほつりほつりと少しずつ、点滴のしずくが管の中に滑り落ちていく。時を刻む道具すらな
い点滴室の中はひどく静かで、時折、廊下で診察を待つ人の小さな咳払いが聞こえるだけ
だ。
点滴を見上げて、ふと横たわる土岐の顔に視線を下ろすと、…ちょうど、目を覆った布の
すきまから頬骨を通って枕へと、透明なひとしずくがこぼれたところだった。
知らず、大地の唇が薄く笑う。
……泣けるようなら、もうきっと、大丈夫。
…そう、思った。


点滴には時間がかかったが、それでもなんとか東金の一曲目開始に間に合った。
楽屋に連れ立って現れた大地と土岐に、東金は無言で気遣わしげな視線を投げたが、
「巨大な点滴を打って、貧血の薬ももらってきたよ。クーラーの効いた客席でおとなしく
座っているなら問題ない」
と大地が請け合うと、安堵をあらわにした顔で手を伸ばし、ぐしゃぐしゃぐしゃと土岐の
頭をかき乱した。
「痛い。…痛い、て。…千秋」
土岐の文句は馬耳東風で、東金はまっすぐに大地を見る。
「世話になった。…お前もファイナル直前の貴重な一日だったのに、迷惑をかけてしまっ
たな。…礼はいずれ」
大地は肩をすくめた。
「まだ今日が終わったわけじゃない。練習はこれからみっちりやるさ。気にしないでくれ。
…君が結果を出してくれれば、それでいいよ」
「……」
大地の応答に、東金は目をすがめてにやりと笑う。…そして、
「わかった。…見てろ」
昂然とあごを上げ、ステージ袖へと出て行った。
「…じゃ、俺はこれで」
大地が辞そうとすると、
「待ってや。…俺も客席に回る。そこまで一緒に行くわ」
そう言って大地の先に立ってすたすたと歩き出した土岐は、ロビーに出る扉の手前でその
足を止めた。
「…あんな、榊くん」
「…君が、今日もらしたことなら、俺はもう全部忘れたよ。……あんまり複雑なことは覚
えていられないたちなんだ」
「……」
土岐はうつむいた。
「…その嘘、…信じてええん」
「…嘘はひどいな」
大地が笑おうとすると、
「せやかて、嘘やろ」
遮るようにつぶやく。
「……」
大地は小さく息を吐いてから、まっすぐに土岐を見て、改めて口を開いた。
「君が俺を信じてくれるなら、俺はうれしいよ」
土岐はじっと大地を見て、……やがて、月が冴え返るような鮮やかな笑顔を見せた。
「…せやな。……信じるわ。……君の手が、優しかったから」
「……」
大地は笑い返して、土岐に背を向けた。…背を向けたまま片手を挙げて、…そのまま振り
返らずに会場を後にする。
ロビーに出た瞬間、一瞬だけもれ聞こえた東金の音に、結果を出すという約束は果たされ
そうだと静かに笑って。