膝枕


「無事に終わって何よりでした」
儀式の後片付けがすんで、正殿にはどこかしらがらんとした空気が漂う。片付けの見落と
しはないかと、一人隅々まで見回っていた道臣は、声をかけられてゆっくり振り返った。
「…柊」
正殿の入口で片手を挙げた柊は、疲れた顔の道臣にほほえみかけながらゆっくりと近寄っ
てくる。
「今日は八面六臂の活躍でしたね。…やはり儀式の仕切りはあなたに限る」
「鎮疫祭が終わればじきに夏越の大祓ですよ。…次はあなたにがんばっていただかなくて
は」
「ついでに大祓も取り仕切ってはいただけませんか」
くだけた声で言う柊に、
「いけません」
道臣は笑いながらもきっぱりと応じる。
「手厳しいことです」
首をすくめ、しおしおとうなだれてみせてから、柊はだらりと下げていた方の手を持ち上
げた。
「お疲れ様でした、ということで、少し呑みませんか」
先ほどまでの態度が嘘のようなからりとした声だ。本来の目的はそちらかと、苦笑しなが
ら道臣も応じる。
「それはいいですね」
いい月夜なので外で、と、二人肩を並べて正殿の階に腰掛ける。注いで、注がれて、とろ
りとした液体を口に含めば、ざざ、と青葉の鳴る音がして。東南の空には銀色の月。
「……時々、思うのです。…何故ここに、忍人や風早や羽張彦がいないのか」
ぽつりと柊が言った。
「……」
道臣は杯に唇で触れて、動きを止める。
忍人は姫の刺客と刺し違え、風早は即位式を見届けた後ふっつりと宮中から姿を消し。…
…行方知れずになったと思っていた羽張彦が、実は神との戦いで命を落としたことを道臣
が知らされたのは、忍人と風早がいなくなってからのこと。
柊は空を見上げている。
「私などよりよほど陛下をお支えするのに相応しい人達が皆姿を消して」
見上げながら、くい、と杯を干した。再び酒を注ぐ。先ほどから見ていると、もうずいぶ
ん量を過ごしているのではないかと思うのだが、彼の顔色は白いままだ。…否、月の光に
照らされているせいか、いつもよりも一層に青白く見える。
…もしかしたらそれは、酔い故の白さ、かもしれない。なぜなら彼は、こんなことをつぶ
やいたからだ。
「……私は一体、何をしているのでしょう」
「……柊?」
「ここから消えるべきは私なのに。今ここにいるべきは、…あなたと酒を酌み交わし、い
なくなった者への悪態をついて笑い合うのは、本当なら忍人の役割なのに」
うかがい見る柊の目は前方を見据えてどよりと据わっているようだった。…道臣は意を決
して杯に少し口をつけ、なるべくさらりと聞こえるように気をつけながら、なだめるよう
な声を出した。
「…消えるべき、などと言わないでください。あなたがいなければ、宮はどうなることか」
「消えるべきなんです。……私には、いつも何も出来ないのですから」
「何を言うかと思えば。…あなたの有能さには、陛下も狭井君も、もちろん私も、いつも
助けられていますよ」
柊は道臣を見ず、横顔だけで笑った。その笑顔の苦さ、痛々しさに、彼が出来ないと言っ
ていることが、今道臣が思っているような実務的なことではないのだということは察せら
れた。
…だが、ならば何を出来ないと彼は言うのか。忍人の死を回避すること?…しかし、そう
だとすると、『いつも』という言葉の意味が通らない。
「……」
何かがつかめそうで、けれどつかめなくて、道臣は背中がぞわぞわした。
「……私ばかり呑んでいますね」
柊はふっとつぶやき、穏やかな笑みを道臣に向けた。
「あなたもどうぞ、杯を干してください」
促されて、おずおずと道臣が杯を干すと、間髪入れずまたなみなみと酒が注がれた。白く
濁るそれは、目の前の男の顔色に似て。
「……」
気付けば、道臣は手を伸ばして柊の背を撫でていた。
「……?…道臣?」
柊がけげんそうに、まだ光が残る方の瞳を見開く。
「…何です、いったい」
「……わかりません」
道臣はぼそりと言った。
「ただ、何となくこうしたくなったのです」
「………」
「…あなたがつらいのに、私には何も出来ない。あなたが本当は何に苦しんでいるのか、
察することも出来ない。……こうしてあなたの背を撫でたところで、それが何になるとい
うのか」
「………」
道臣は、ただ、とつぶやいて、穏やかに目を細めた。
「一つだけ言えることは、私の前では無理して笑わなくてもいい、ということです。不機
嫌でいい、ふてくされていても、拗ねてもかまいません。つらいならつらい顔を、泣きた
いなら泣きたい顔をしてください。……素直に人前で感情を出すことで、楽になれるとき
もあります」
「……道臣」
柊は彼の名を呼んだ。…噛みしめるような声だった。
「……そうはいっても、かぶりなれた仮面は、なかなかはずせないものですがね」
「…そこでそうつけくわえるのが、いかにもあなたですね」
くっ、と柊は喉を鳴らし、…それから続けてくっくっと笑い出した。……笑いながら彼は、
道臣に寄りかかる。
「…柊」
「少しだけ肩を、……いえ、できるなら膝を、貸していただけませんか」
……膝?
「…かまいませんが?」
かまわないが膝をどうするというのだろう。
道臣が首をひねりつつも促すと、柊はころりと倒れ込んで道臣の膝に頭を預けた。

−…ああ。…そういうことか。

預けられた頭はじわりと熱くて、…しらっとして見えても彼はやはり酔っているのだと、
今更ながらに思い知る。
「……心地良いです」
かすか、震える声で、柊は言った。
「とてもとても心地良いです、…道臣」
「……それは、よかった」
そっと髪を撫でると、ほとり、何か熱いものが膝にしたたる。

−…涙。

「…すみません、膝を濡らしました」
律儀に柊は謝る。
「かまいませんよ」
「…あなたがあたたかくて、…月が綺麗で、……。……なんだか、泣けて泣けて、仕方が
ありません」
その言葉通り、柊は泣いているようだった。ぼろぼろと号泣するのではなく、じわりじわ
りとにじみ出すような涙がまた痛々しく、その涙に何も出来ない自分に苛立ちながら、道
臣はひたすらに彼の髪を撫でる。
「……あたたかいです」
ぽつりつぶやいた柊の声は夜のしじまに消え、後は二人とも声もなく、ただ月を眺めるば
かりだった。