ほどける糸

「那岐、桃いる?」
寝台に転がっていた那岐がちらりと戸口を見ると、千尋が顔をのぞかせてひらひらと手を
振っていた。振っていない方の手に、小さめの桃を二つ抱えている。
「いる」
那岐はむくりと起き上がった。千尋はにっこり笑って、とことこと部屋の中に入ってくる
と、ぽん、と那岐の隣に腰を下ろした。
「はい」
「ありがと」
手渡された桃はほんのり温かい。
「冷えてない」
那岐が口をとがらせると、
「もらってきたばかりだもん」
千尋が首をすくめる。
「もらった?誰に」
「シャニ」
今度は那岐が首をすくめた。
「ずいぶん気に入られたね」
「ていうか、珊瑚を見つけたお礼みたいよ」
「お礼ならもうもらったじゃん。食料」
「の、追加?」
「追加は変だろ」
那岐は鼻を鳴らす。
「やっぱり千尋が気に入ったんだって。…ちびのくせに、あのマセガキ」
千尋はぷっと吹き出した。
「ちびっていうほど年変わらないよ。13だって言ってたもん。四つ違い。私たちと忍人
さんの年齢差と同じだよ」
「…って事実が余計に腹立つ」
「何それ」
千尋はゆっくりと桃の皮をむきながらとうとうくすくすと笑い出した。桃の甘い香りが漂
ってくる。那岐は自分の桃を寝台脇の小卓に転がした。
「食べないの?」
千尋が顔を上げて那岐を見た。
「後で冷やして食べる」
「えー。私のはもうむき始めちゃったのに」
「半分もらうよ。僕が冷やした桃も後で千尋に半分あげる」
「あ、それいい。そうしよう」
千尋はうなずいて、また丁寧に皮をむき始めた。桃は固そうな外見の割に意外とよく熟れ
ているようで、するすると皮は実からはがれる。
「で?」
そのなめらかな果実の肌を眺めながら那岐はぼそりと言った。
「で、って」
「桃を渡すためだけにここに来たんじゃないだろ」
千尋がちらりと那岐を見る。かすかに斜め上目遣い。
「桃を渡すだけなら、いきなりここで食べ始めたりしないだろ。何か僕に話があるんじゃ
ないの」
ぽん、と背中を押すように言うと、千尋はぺろりと舌を出してから顔をそらし、那岐は鋭
いなあ、と苦笑いをこぼした。
「ちょっとね、聞きたいことがあって」
「何?」
那岐に答える前に、千尋は八割方皮をむいた桃にかぶりついた。そして、
「甘い!」
とうれしそうな声を上げる。
「おいしーい!はい、那岐」
「……ありがと」
刃の薄い果物ナイフなど存在しないこの世界では、刃物で半分に分けるという選択肢はあ
まりない。となると、半分ずつ食べるには互いにかじり合うしかないわけで。
…千尋が気にしないなら、ま、いっか、と、那岐も一口かじってみた。そして目を丸くす
る。
「本当だ。甘い」
「でしょでしょ、おいしいよね!」
千尋ははしゃいだ声で言ってから、あーあ、とため息をついて、那岐の寝台にぽすんと倒
れ込んだ。
「向こうの果物って、甘かったよね」
「…まあね」
この世界にある植物は、いってみればまだ原種の段階だ。甘さや旨みを追求して品種改良
を重ねられた異世界のものに比べると、どの食べ物も荒々しい味わいをしている。それは
それで生きているものを食べている、という実感があっておいしいのだが、たまには、あ
の甘さが懐かしくなることもある。
那岐は倒れ込んだままの千尋の手に桃を返す。千尋は寝ころんだまま行儀悪くもう一口か
じり、那岐にもう一度桃を手渡そうとした。…その手を那岐が止める。
「そろそろ、聞いていい」
寝ころんだ千尋が、那岐を見上げた。那岐は千尋を見下ろした。
「聞きたいことって、何」
うん、とつぶやいて千尋はもそもそと身を起こす。桃の置き場に困る様子なので、那岐は
きれいな布を一枚しいて、その上に桃を置いてやった。
「あのね」
そう切り出して、千尋はまっすぐ前を見ながら気楽な様子でこう切り出した。
「こないだなんとなく、向こうで住んでた家の間取りを思い出してたの」
「…うん?」
質問が思っていたことと少し違って、那岐は拍子抜けする。……てっきり、「彼」のこと
を聞いてくるのではないかと思っていたのだが。
那岐の気持ちを気付いているのかいないのか、千尋は前を向いたままゆっくりと指を折る。
「玄関があって、すぐに階段があって、その脇に洗面所とお風呂場。台所兼食堂はリノリ
ウム貼りの板間で、居間は畳」
「…うん」
「2階の私の部屋は洋室でベッド、風早の部屋は和室で、畳の上にお布団敷いて寝てた。
…那岐の部屋も畳だったよね?」
千尋はわざとらしいほど明るい声だ。その明るさが逆に那岐の中に不安を呼ぶ。なぜ今頃
そんなことを気にするんだろう。
「まあ、机とベッドでほとんど隠れてたけど、一応ね」
「そうそう、ベッドだった。畳の部屋なのに。しかもそのベッドが二段ベッド」
千尋の声は変わらず明るいのだが、どこかぽかんと空虚で、それでいて不穏なものを孕ん
でいるような気がする。
那岐の胸をざわざわするような感触が這い上ってくる。
何だろう、この感触は。…不安のような、期待のような。何かが爆発しそうな感覚。
「ねえ那岐」
そのとき千尋がぽんと聞いた。
いかにも不思議そうに。けれども何か確信を持って。
「どうして一人で寝ているのに二段ベッドだったの?」
「…!」
はっと目を見開いた那岐を、千尋はすがるような目で見つめている。次に那岐が何を言う
のかと、恐れと期待が混じり合った瞳で。
あの家は借家だった、きっと元々そういう備え付けの家具だったんだ、と、無理矢理こじ
つける説明も浮かんだけれど、本能のような感覚で、那岐はそれを否定した。
柊の訳知り顔と、風早のどこかすまなそうな笑顔と、表情の乏しい「彼」の顔とが那岐の
頭の中をぐるぐると回る。
「彼」は言った。
…風早は前もってそうなることを知っていたんだと。そんな気がしてならなかった。
もやもやざわざわした何かは、明確な焦燥感となって、那岐の前に立ち顕れた。
…僕は何かを忘れている。そして風早はそれを知っている。
それはたぶん、「もう一人」に関すること。那岐のベッドの上段に寝ていた「はず」の誰
か。食器棚でふさがれた席に、ふさがれる前に座っていた「はず」の誰か。
こぼした味噌汁がしみこんだリノリウムのような、日焼けして少し古びた壁紙のような匂
い。
……匂い。
「ごめん、答える前に少し違う話をしていい?僕も少し気になっていたことがある」
那岐がそう話しかけると、千尋の思い詰めた表情がふっとゆるんだ。肩の力が抜け、瞳の
光もやわらかくなる。
「……あ、うん。…なに?」
「あのさ、匂いのことなんだけど」
「…匂い?」
「そう。向こうの世界のものって向こうの匂いがするし、豊葦原のものは豊葦原の匂いし
かしない。…ていうか、しないはずだ、って思うんだよね」
「…うん」
千尋は少し首をかしげている。今まで匂いを意識したことなどないのかもしれない。
「でも、僕と千尋と風早以外にあっちの匂いがする人間が…」
言いかけて、那岐はふと言葉を切り、
「…そういえば」
まじまじと千尋の髪を見つめる。
「…?」
「千尋の髪飾りって、向こうの匂いがする」
「…そりゃ、向こうでつけてたから」
何を今更、という顔で千尋は目をくるんと丸くした。那岐はしかし、その返答にゆるりと
眉を寄せる。
「…それっておかしくないか?」
「…どうして?」
「僕らがあの世界で身につけていたものは、元々こちらから持って行った御統や太刀の武
器以外は全部、豊葦原へ戻ったときに豊葦原のものと勝手に入れ替わっていたのに、どう
して千尋の髪飾りだけはそのままなんだ?…それ、こっちから持って行ったものだった?」
千尋はぱちぱちと何度か瞬いた。瞬きを繰り返すうちに、千尋の瞳は霞がかかったように
くすんでいく。
「ううん、…ちがう、……と思う。……うん、ちがう。これは、フリマで買ったのよ、確
か」
「…フリマ?」
「……うん。フリマに行ったの、誰かと。……誰とだったっけ。那岐とじゃなかった気が
する」
「うん、間違っても僕じゃない」
那岐は首を振った。
「そんな人が多くてごちゃごちゃしたところ、頼まれても行かない」
「…だよね」
いつもなら、那岐がそういう話し方をするとくすくすうれしそうに笑う千尋が、笑いもし
ない。かぼそい記憶の糸をひたすら探りたどり続けている。
「…那岐じゃない。…でも、風早でもなかった気がするの。……私、……誰と行ったんだ
ろう」
那岐の胸のざわざわは、ゆっくりとふくらんでいく。喉元までもうふくれあがってきてい
る。きっともうすぐ破裂する。
今までずっと出せなかった答えが、ようやく出せそうな。
「……」
千尋は両手を組み合わせた。その瞳の色を見て、那岐は確信した。
彼女はもう答えを出している。ただその答えを口にすることを恐れているだけだ。
かすかに震える千尋の両手が、組み合わされたままそっと唇に当てられる。……そしてさ
さやきのようにかすかに、声がこぼれた。

「……お兄ちゃん」

……!
那岐の中でも何かが破裂する。
「…お兄ちゃん。……お兄ちゃん、お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん…!」
一度こぼれてしまえば、もう歯止めはなかった。千尋は壊れたレコードのようにその一言
を繰り返す。
那岐は破裂したものからあふれ出てくる波にゆっくりと呑まれる心地を味わっていた。ま
だどこか曖昧な記憶の中、ベッドの横板を遠慮がちに叩く、とんとん、という音だけがく
っきりと耳に響く。
その音は千尋の声と次第に同調し、波となりうねりとなり、やがて那岐の脳裏にはっきり
と彼の笑顔となって浮かび上がった。
知らず、那岐の顔も泣き笑いに歪んでいく。
眉をきつく寄せて、けれども唇には笑みを浮かべて、彼は小さくその名を呼んだ。

「……忍人」

思い出したよ。
僕の大切な、初めての友達。