芳香 「…あー。…コーヒー飲みたい…」 性急な行為の後で、身なりこそ整えたもののまだけだるく寝転がりながら、ぽつりと大地 がつぶやいた。 「コーヒーはないけど、代わりに…」 つぶやき、ポケットを探って、あ、あかん、と蓬生がひとりごちる。 「よそ行ってる間くらいええ子にしよと思って、横浜には持ってこんかったんやった。… タバコ」 「…のまないよ、いらないよ。…てか、未成年だろ、君も。未成年じゃなくても、タバコ は害だ」 だるそうな声で、それでも厳しく叱責する大地を、蓬生はどこかうれしそうにくつくつと 笑った。 「真面目やね。コーヒーかって興奮剤の一種やで?」 「量を過ごさなければいいんだ。そもそもコーヒーやお茶に含まれている程度のカフェイ ンじゃ、何ほどのことも起こらないよ。錠剤や何かで直接接種しない限り、問題ない」 「ふふ」 含み笑いに大地はちろりと蓬生を見た。 「何だい?」 「かわいいなあ、榊くん」 「何が」 「ちょっとつつくとすぐむきになって、理論武装して反論してくるとこが」 「悪かったな、子供で」 「誰もそんなこと言うてへんやん」 「俺は子供だよ。…こらえ性がない」 低くつぶやく声には苦さが混じっていた。そしてまた蓬生から顔を背ける。その後ろ頭に、 なあ、と蓬生は話しかけて、大地のえり足の髪をくるりと指に絡めた。 「何で俺と遊んでくれたん?」 「……」 大地はそっと蓬生の指を外して向き直り、探るように、眼鏡を外したその切れ長の瞳をの ぞき込んだ。 「…土岐が、遊んでくれそうだったから」 「あれ。俺のせいにするん」 「…」 からかうような蓬生の言葉を沈黙で受け流し、やや間をおいてから大地は聞き返した。 「土岐はどうして、俺と遊ぼうと思ったんだ」 蓬生は一瞬目を伏せたが、ゆるゆるとまた笑みを含んで目を開く。 「……別に、聞いてもいいんやで。…何で、千秋と離れようとしとんのかって。…そもそ も、俺と千秋はそういう関係なんかって」 …知りたがっとったやろ? ねっとりと、耳にからみつくような声で蓬生はささやく。大地は表情を変えない。あの問 いを発するときに、もう覚悟はしていたのだろう。傷つける覚悟。傷つけられる覚悟。 受け止める度量を、蓬生は大地の目の中に見た。…だから、さらけだしてみようかと思っ た。全てではない。少しだけ。…ほんの少しだけ、…本当の自分を。 「…実験、してるんよ。…俺が、一方的に」 「……実験?」 「そう」 蓬生は長い髪をかき上げ、ベッドに頬杖をつく。…タバコがほしいなと思う。 「千秋に一回だけ、好きやって本気で言うたことがある。……千秋の返事は、俺もや、や った」 大地の眉間にしわが一本入った。にやりと、蓬生の片頬が持ち上がる。 「…相思相愛じゃないか。なんだ。俺は道化か」 「そうせかんといて」 しい、と、大地の口を封じるように蓬生は指を一本当てた。 「まだ続きがある」 「…?」 「…千秋の言葉は、俺もや、で終わらへんかった。…俺も、お前が好きや。長いこと一緒 におって、自分の一部のような気さえする」 蓬生はそこでふと言葉を切り、天井を仰いだ。大地は口を開かなかった。開けばまた、せ くなとなだめられると気付いていた。 「…千秋は一見、ナルシストに見えるかもしれん。…けど、本当はそうやない。真逆や。 自分自身には見向きもせん。あいつの思いはいつも、外へ外へと向かう。……その千秋が、 俺のことを、自分の一部のように思っとうって言う」 ゆっくりと顔をしかめる。 「この意味がわかるか、榊くん。……君やったら頭がいいから、わかるかもしれへん」 痛みをこらえるような呼吸を一つして、蓬生は言葉を続けた。 「千秋は一生、俺のことをそういう意味では好きにならん。俺はもう千秋の一部なんやか ら。……千秋は自分自身には欲情せえへん。…そういう男や」 大地は眉間を指で少しもみ、深い息を吐いた。 「…だから離れてみたのか。それが実験か」 「そうや。知り合いの少ない、刺激の多い土地。コンクールという非日常的な時間。…理 想的な条件や。この条件に賭けた。千秋と離れて、千秋に俺を意識させたかった。…俺に しては、結構がんばって努力したんやで」 …あかんかったけどな。 蓬生はぽつりと言った。 「ようわかった。千秋は俺が他の誰かに抱かれて帰っても何も気付かん。当たり前のよう に、よう、蓬生、って声かけて、ぺたぺたぺたぺたさわってきて、…それでも気付かん」 …女の子とちゃうもんなあ、俺は、と、蓬生は嘲るように嗤う。大地は押し黙ってその独 白を聞いていたが、ふとそこで起き上がり、ベッドから降りた。そして、サイドテーブル に置きざられた自分のかばんをがさごそと探る。 「…榊くん…?」 唐突な行動に少し呆気にとられている蓬生に、ようやく何かを探り当てた大地が、ぽいと それを投げてよこした。反射的に手を出して受け止めた蓬生は、自分が受け止めたものが 小さなガラスのビンと知って、咎め声をあげる。 「…っぶなっ…。何これ、…何のビン?」 大地はうっすら笑っている。蓬生は小さなビンに鼻を近づけてみた。ふわりと心当たりの ある芳香が鼻をくすぐる。どうやらコロンか何かのようだ。 なぜこんなもの、と言いかけて、蓬生は気付いた。もう一度香りを確かめ、間違いないと 確信する。 「…これ、榊くんの匂いがする」 当たり、という代わりに、大地は肩をすくめてみせた。 「そういうのを何かつけてないと、俺、湿布薬や消毒薬の匂いがするんだよ。…家が病院 だから」 …病院。 蓬生がひそりと眉をしかめるよりも早く、大地があっけらかんと、 「あげるよ、それ」 言った。 「……?」 「土岐はいつも白檀の匂いがする。もし違う匂いがしたら、…どうなると思う?」 蓬生は苦く笑う。 「そんなことしたかて、変われへん」 「いや、試してみる価値はあると思う。…何のゆかりもない匂いじゃない。自分の知って る奴の匂いなんだから」 「……」 蓬生は片目をすがめ、ゆるゆると首を振ってから、ベッドから出たまま傍らに立つ大地を 睨め上げた。 「なあ、でもそしたら。…如月くんも気付くで、…俺と君のこと」 「…いいんだ、かまわない」 「…何で」 大地がそんな危ない橋を渡る必要はない。この関係に意趣を含むのは自分だけのはず。大 地はただ遊んでいるだけだ。そうでなければならない。 だが、大地の答えは蓬生の予想の斜め上をいくものだった 「実験が好きなんだ。理系だからね。いろんな条件を試したくなる」 耳を疑い、呆気にとられ、…次の瞬間蓬生は、生まれて初めて千秋以外の人間を怒鳴りつ けていた。 「……っあほか!そんなん理由になってへん!そんなことで……!」 自分の大切なものを壊すつもりなのか…!? 蓬生はそう続けようとした。だがそこに、大地の声が驚くほど低く冷静に割って入って止 める。 「じゃあ、どう言えば理由になるんだい?」 冷たいとすら感じる視線が、蓬生を射抜いた。 「君を好きだからだ、と言って、君に信じてもらえるのかな、俺は」 ……! 「あの夜、何も変わらないと君が言ったとき、俺は少なからずショックを受けたんだよ。 …俺は、君を変えたかった。変えたつもりだった」 突然大地が、のしかかるように蓬生の上に馬乗りになった。その手から渡したコロンを奪 い、指にとって、耳の後ろに、こめかみに、うなじに、鎖骨に、……蓬生が千秋の傍らに 立ったとき、彼の鼻腔をくすぐるであろう箇所に、大地の匂いをつけていく。 「…っ」 蓬生は、初めて大地に抱きすくめられた瞬間を思い出した。すがりついて声を上げた夜。 自分の体に恐る恐る、やがて大胆に触れてきた指。 大地の指は、最後に蓬生の髪の先を撫でた。そのまま、自分の服のポケットにビンを滑り 込ませようとする、その手を、…蓬生は止めた。 「……あかん」 「…」 「…あかんよ。…返して。……くれたんやろ、俺に」 大地は静かな目で、再び蓬生の手にそのビンを落とした。受け取ったビンを鼻梁に押し当 てて、蓬生はひっそりと笑う。 「これから、このビンに触るたび、今の指を思い出す。…榊くんがコロンをつけてくれた 場所も、つけ方も、身体が覚えた。……ぞくっとするくらい、気持ちよかった」 ……忘れへん。 ささやくように言って、蓬生はねだるように大地のうなじに腕をからめた。 「実験結果は報告せんならん。…予約は受け付けてもらえるんやろか、…先生?」 …大地は、薄く笑った。 「医者は嫌いなんだろ?」 「君は別にしといたげるわ」 「…光栄だな。もちろん、予約は受け付けてるよ。診療時間内ならね。…いつでもどうぞ」 蓬生の誘いに応じるように、大地は腕を広げて蓬生を抱く。ゆるゆると蓬生の髪に鼻梁を 埋めて深く息を吸い、そのまま目を閉じてしまった。寮の門限まで、まだ時間はある。も う少しくらいは眠れるだろう。 蓬生は無性にタバコが吸いたかった。タバコを吸えば、涙を煙のせいにできる。ここには 泣く言い訳にできるものが何もない。 泣いてしまいたかったのに。