北極星

彼は、私よりも五つか六つは年若いはずでしたが、時折ひどく大人びた顔をしました。
いつも穏やかな笑顔を浮かべていて、何があっても激昂してみせることなどなかった彼を
しかし、私はいつも、心のどこかで畏れていたように思います。
ええ、……畏怖していたのです。

私は、弟子になった時期という意味では、間違いなく師君の一番弟子でしたが、様々な能
力においては既に、弟弟子達に追いつかれ追い越されていました。
たとえば、羽張彦の武勇、柊の書や言語に関する知識は、彼らが私の後から学んだにもか
かわらず、既に私の及ぶところではありませんでした。
が、そのことについて私は醜く妬心を抱くことこそあれ、畏怖を感じることはありません
でした。自分も彼らのように優れた人物となりたい、とは思っても、その存在や能力に底
知れなさを感じることはなかったのです。
けれど風早は、…風早に対しては、…私はいつも当たり障りなく接しながら、心のどこか
で畏れを抱いていたように思います。
彼は、羽張彦のように飛び抜けた身体能力と戦闘の才があるわけではなく、柊のように持
たされた竹簡は何でも読み下すというわけでもありませんでした。ただ、全てのことにお
いて標準以上に優れ、出来ないことなど何もないように見えるのでした。
とはいえ私は、彼が万能であることに畏れを抱いていたのではありません。
……私が恐ろしかったのは、…彼が全てを知っているかのように見えることでした。
私には、彼の目はいつも、私の目には見えないものを見はるかしているように見えるので
した。私の耳には聞こえないものを聞き、私の知り得ないことを知っている、…ええ、そ
うです、理解するのではなく既に知っている、そう思えるのでした。
こう言ってよければ、まるで人ではないかのように、……いいえ、そんな言い方は誤解を
招いてよくありません。こう言い直しましょう、彼は「ただのひと」ではないかのように
思えて、……そう思う自分が、そう感じさせる彼が、なぜだかひどく恐ろしかったのです。

「道臣」
その日、師君に呼ばれて私は回廊で足を止めました。
「少し頼まれておくれ。室生の里長のところに届け物をしてほしいんだ」
「はい、師君」
師君からこう言いつかることは珍しいことではありませんでした。師君は顔が広く、また
四道将軍のお一人として宮の用をこなされることも多いため、弟子をあちらこちらへと使
いに走らせることはよくあることでした。
そういうとき師君は、気の置けない友人親戚やなじみの人物へは弟子を、気の張る相手や
公的な用件の時には邸の家令殿や軍の部下の中で信頼厚い人物をと使い分けておいででし
たが、ある頃から、公的な用件には私を使われることが多くなりました。家令殿が少し足
が弱くなられたことと、私が師君の弟子の中ではある程度一人前と周囲からみなされるよ
うになったことがその要因であったろうと思います。
今回も、室生の里長あてとなればある程度公式の用件なのだろうと私が思っていると、果
たして、私を呼び止めながら一度自室に引き取られた師君が手にして戻られたのは、黄色
に染められた布で包まれた、竹簡とおぼしき包みでした。
普通、物を包むのに使う布は糸を紡いだままの白い布です。染めた布は高価で大切なもの
ですから、庶民は衣服以外に使うことはあまりありません。ですから、染めた布で包まれ
たものは宮からの預かり物であることがほとんどでした。この包みもおそらくは、宮から
師君へ、そして師君から室生へと伝えられる何か大切な用件なのでしょう。
「承りました」
私が恭しく包みを受け取ると、頼んだよ、と師君は私の肩をぽんと叩き、それからふと思
いついたかのようにこう付け足されました。
「そうだ、風早を一緒に連れてお行き」
「……はい」
少しぎくりとした気持ちはおそらく、私の顔にでたのでしょう。しかし師君はその表情を
いぶかしさからきたものとお考えになったようで、苦笑しいしい、理由を説明してくださ
いました。
「あの子は四国から来て、畿内にはあまり土地勘がない。だから、機会があるたび、あち
こち行かせてやりたいんだ。…風早が羽張彦のようなら、あたしもさほど気にはしないん
だが」
師君があげたもう一人の弟弟子の名に、私の頬も少しほころびました。
羽張彦も吉備の出で、風早と同じく畿内にはあまり土地勘はないはずですが、鍛錬がない
ときなど、しょっちゅう探検と称して邸を抜け出し、あたりを飛び回っているようです。
確かに彼には、道案内などという心配りはいりますまい。
……ですが。
「頼んだよ、道臣」
「かしこまりました」
豪快に笑って私の背をたたき、部屋に戻っていく師匠には、静かにそう答えた私でしたが、
心の中にぽつりと一つ、疑問がわだかまりました。
それがどんな疑問かは、そのときはまだ、私自身にもわかりませんでしたが。

朝早く、人々がそろそろ起きて朝の支度を始めようかという時間に、私たちは師君の邸を
出ました。居残りで見送る羽張彦は少しつまらなそうな顔をしていて、柊はいつものあい
まいな笑顔でした。
「室生へ行くのは初めてです」
私と共に道を行く風早は、柊や羽張彦とは対照的な表情をしていました。わくわくと楽し
げで、好奇心に満ちた顔です。そう楽しそうにされると、私もなんだかわくわくしてきて、
慣れた道も新鮮に見えました。
室生へは、多少の上り下りはあるものの、基本的にずっと谷間の川沿いにそって歩いてい
けばいいので、比較的楽でわかりやすい道です。荷も竹簡の包みが一つと軽いので、私と
風早は初夏の風と目に鮮やかな新緑の中を、半分行楽気分で歩いていました。
そういう川沿いの道ですから、分岐もほとんどありません。山に分け入る道が途中いくつ
かあるのですが、それは無視して、人々が踏み固めた道をただただまっすぐ行けばいいの
です。……途中までは。
大野の里を越え、室生の里が近づいてきました。風早は、この間柊と羽張彦が「やらかし
た」とかいう騒ぎについて、おもしろおかしく話しています。彼は無類の話し上手で、私
も引き込まれるように聞き入っていました。
だから、つい、…うっかりしてしまったのです。
大野の里の手前では、私は確かに覚えていました。室生の里へはずっと川沿いの道を行け
ばいいけれど、最後の分岐のところはわかりにくいので、風早にきちんと道を教えなけれ
ばいけないと。
けれど風早の話があまりにおかしくて、くすくすくすくす笑っていた私は、分岐の手前で
道を教えることをすっかり失念していました。
思い出したのは、道を曲がってからです。
「……!」
道を教え忘れたと気付いたとき、思わず私は立ち止まってしまいました。
「…道臣?」
穏やかな顔で風早が私をのぞき込みます。
「どうかしましたか?」
そのおっとりした笑顔を、…私はまじまじと見つめそうになって、慌ててうつむきました。
頭の中で、その直前の様子がぐるぐると回っています。
私たちは話に夢中になっていました。風早の言い方がおかしくて、私は身を折るようにし
て笑っていました。その私が分岐に気付いて体を向けるよりも早く、風早はふっと左へ曲
がったのです。
それはごく自然で何気ない動作でした。
確かに室生へは、その分岐で左へ行くのです。右へ行くと室生の神域、古の龍神が顕れた
という禊ぎの場所へ辿り着きます。
ですが道は、右の方が、広く立派に作られています。それは、右の神域へは、都人達が行
列を仕立て輿を担いで大勢でやってくることが多いからです。いつ女王陛下の行幸があっ
てもいいよう、綺麗に整えられてもいます。
……私が何を言いたいかというと、まったく道を知らない者なら、右の道の方を本道と考
えてそちらに足を向けるのではないか、ということなのです。
まして風早は、私の左側を歩いていて、右にある私の顔を見ながら歩いていたのですから、
古びて小さな、いかにも脇道然とした左の道よりも、大きくて綺麗な右の道を選んで歩い
ていくのが普通ではないでしょうか。
風早は元々、室生への道を知っていたのでしょうか。…いいえ、彼は出発するときにはっ
きりと私に言いました。室生へ行くのは初めてです、と。
では風早は私に嘘をついたのでしょうか。室生へ行ったことはあるけれど、あえて初めて
のふりをしたのでしょうか。何のために?
思いついたのは、見送りに出てきた羽張彦のつまらなそうな顔です。供は二人もいらない
からと、留守番役になってしまった羽張彦。あの場で風早が「自分は室生に行ったことが
ある」と言ったら、もしかしたら私の今日の供は羽張彦に変わっていたかもしれません。
それがいやで、風早は嘘をついたのでしょうか。
……いいえでも、風早がそんな嘘をつくでしょうか。羽張彦が外出したがっていると思え
ば、本当は室生へ行ったことがなくても「室生へは行ったことがあります」と嘘をついて、
あえて羽張彦を外へ出してやる、…風早はそういう性格だと思うのです。
「…あの、道臣?」
もう一度呼ばれて、私は自分の中のぐるぐると回る螺旋のような思考の渦からはたと我に
返りました。目が合うと、風早はほっとしたようににっこり笑います。私もおずおずと笑
い返しました。…うまくは笑えませんでしたけれど。
「すいません、…この分岐の手前で、あなたに道を教えなければいけないと思っていたの
です。ここまではほとんど一本道でしたが、ここだけはしるべもない分かれ道でわかりに
くいですから。……それなのに、あなたの話が楽しくて聞き入ってしまって、うっかり道
を教えるのを忘れていました」
「…ああ」
なんだそんなことですか、と風早はくすくす笑い出しました。
「道臣は生真面目だから」
大丈夫ですよ、ちゃんと覚えました。最後を左に曲がればいいのですよね。
「…ええ、そうです」
笑い返しながら、私は自分の中のなんともいえないもやもやしたものと葛藤していました。
それは、あの日師君に聞きそびれた、あのときはどう聞いていいかわからなかった、一つ
の疑問でした。

……師君。
風早に、私が何か教えられることなど、本当にあるでしょうか。
……いいえ、もしかしたら師君、貴女でさえ、…風早に教えられることなど、本当はない
のではないでしょうか。
………風早は本当に、…私たちが見ているままの少年でしょうか?



あの初夏の日から、幾年が過ぎたでしょう。
私はとある邸の一角にいました。
風はもう晩秋の気配を示して冷たく、ただ立っていると身が凍りそうです。
それでも私は、じっとそこに立っていました。ある人を、待っていたのです。
彼は少し手前の回廊で、私の弟弟子と会話しているようです。二人の声はぼそぼそと低く、
何を話しているのかまでは聞こえてきません。
二人の邪魔はしたくないので、私はただそこで息をひそめるようにして待っていました。
話が終わったのか、足音がゆっくりとこちらへ向かってきます。もう一つの足音はゆっく
りと逆の方向へ去っていきます。
扉をくぐってきた彼は、私の姿を見つけて足を止めました。
「…道臣」
私の名を呼んで、…風早はふと、真顔になりました。
「あなたがいるような気がしていました」
それは私にとって予想外の言葉だったのですが、心のどこかでああやっぱりとも思いまし
た。
やっぱり風早は何でも知っているのだと。そう思って。
「いてくれてよかった」
しかしその次の言葉は間違いなく、私にとって予想外でした。
「…は?」
思わず聞き返すと、風早は真顔のまま、言い間違いではないと言いたげに一つうなずきま
した。
「河内に行く前に、あなたと二人だけで話す機会があればいいと思っていました。…行っ
てしまえば、もう戻ってこられないかもしれませんから」
「……」
返す言葉がなく声をのんだ私に、風早はほろ苦く笑いかけ、それから静かに話し始めまし
た。
「私はね、道臣。…昔からずっと、あなたが一番油断ならないと思っていました」
「……」
「師君も羽張彦も柊も忍人も、……他の誰をだませても、あなただけはだまされなかった。
狭井君のように、集めた情報から私を疑うのではなく、…何か、ごく根本的な、生きてい
くための本能のようなもので、ずっと私を疑っていた。私が四国の田舎から出てきた風早
という名の子供ではないと、ずっとずっと疑っていた。……ちがいますか?」
回廊はしんと静かでした。
私たちの他には誰もいないし、誰も聞いていませんでした。
…だから風早もこうして、私の前に何かをさらけ出すつもりになったのでしょう。
……私が、昔からずっと胸の奥にあったものを吐き出す気になったように。
「…少し、違います」
風早は私の言葉を聞いて、いぶかしそうに眉をひそめました。
「…?」
私はその目をまっすぐに見つめました。……こんなふうに彼をまっすぐに見つめるのはど
れくらいぶりでしょう。
「…私はずっと、畏れていました」
「……」
息をのむ形で小さく開いた風早の口元から、白い歯がのぞいています。
「私は確かに、あなたが、自分で名乗っているとおりのごく優秀ではあるけれど普通の豪
族の子息ではないことに、かなり早くに気付いていたように思います。…けれど、あなた
を疑ったことはなかった」
私は風早のその歯をじっと見つめて話し続けました。
「あなたが自分の姿を、本当の姿よりも過大に見せていたのなら、…たとえば、狭井君が
おそらく今疑っているように、名もない寒村の一少年が、豪族の子息を名乗って宮に入り
込んでいたのだとしたら、…それは私も、あなたを疑ったかもしれません。……けれど、
あなたはそうではなかった」
きゅっ、と風早は口を閉じました。どこか痛みをこらえる目で、私の口元を見つめながら。
「あなたはごく普通の子供を装い穏やかに笑っていたけれど、…本当は装っている姿より
ももっともっと大きな力、…力と言っていいのかどうかわかりませんが、その仮の姿より
ももっと強く大きな何かを持っていた。……私は、そんなあなたをずっと畏れ、怯えてい
た」
苦しそうに眉をひそめる風早に、私はようやく笑いかけました。
ああ、私の予感は間違ってはいなかったのだと、…安堵して。
「けれど、…今はもう、そのことが怖くはありません。いいえむしろ、それだからこそ、
少し安心して、あなたを行かせられると思うのです」
「…道臣?」
私の笑顔に風早は少しいぶかしそうです。その顔が、次の私の言葉ではっと引き締まりま
した。
「あなたがこれから向かうのは悲惨な戦場です。普通なら、死にに行かせるようなもので
す。…けれどあなたは普通の人ではない」
「……っ」
「…だから、…戻ってきますね?」
ね、と私は語尾を強めました。
「何があっても私たちのところに戻ってきてくれますね。……姫や忍人を、泣かせはしま
せんね?」
「…千尋はともかく、そこでどうして忍人なんです」
風早の表情がようやく少しゆるみ、彼は苦笑を浮かべました。私も苦笑を返しました。
「あなたをこんな形で行かせて失ったら、…あの子はきっと傷つきますから」
風早はため息を一つついて、右手で胸を押さえました。
「あなたはそういうところが変わりませんね。…いつも弟弟子達を気遣って、優しくて」
それから、唇を引くように、何かをこらえるような笑みを浮かべて。
「ええ、…あなたのその言葉に誓って、…必ず、無事に帰ってきます」
そう言って風早は私に一礼し、再び回廊を歩き出しました。…彼と会話するという目的を
果たした私も、もう室内に引き取ろうと身を返しかけたそのとき、
「…道臣」
風早は私の名を呼んで、足を止めました。
「…はい?」
私が、静かに応じると、彼は私に背中を向けたまま、こうつぶやきました。
「……私たちの前に、兄弟子として、……いいえ、長兄として、あなたがいてくれてよか
った。……心から、そう思います」
いってきます。
そう付け加えて、今度こそ、風早は振り返らずに行ってしまいました。
「………」
ゆるりと私は風早の最後の言葉をかみしめ、……急に力が抜ける心地がして、回廊の壁に
そっと背を預けました。
私は本当に凡庸な人間です。…けれどこんな私でも、何かの役に立てていたのでしょうか。
あなたは本当にそう思ってくれますか。
あなたのような力がなくても、私にも何かが為せていたと。
「………」
体にゆるりと力が戻ってきます。拳を握り、足をぐっと踏みしめて、私は立ち上がりまし
た。
ええきっと、私に出来ることはあるはずです。
あなたをただ送り出すのではなく、この場へ呼び戻せる策を講じるために、私にも出来る
ことが必ずある。
私は夜空を見上げました。
空に輝く星の中、一つだけ動かぬ北の星。けれどその星を見つけるために私たちは、その
星よりももっとささやかな光の星々の力を借りることもあるのですから。