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禍日神との戦いの後、消えてしまっていた千尋が、那岐に連れられて無事に戻ってきた。
二人ともなぜだかずぶ濡れで、夕霧や道臣が大騒ぎをして、着替えさせたり暖かいものを
のませたりと世話を焼いて。
「…無事に、部屋に戻って休みましたよ」
風早が、彼自身ひどく心労の色の濃い顔をして、それでも柔らかい笑みを浮かべて報告に
来た。たくさんいても邪魔になるからと夕霧に追い出されてしまった布津彦やサザキが、
ほっと胸をなで下ろす。
「なんか、ひでぇにおいがしてなかったか」
「ああ、たぶん遠夜の薬湯でしょう。滋養強壮に効くんだそうですよ。君ももらいますか、
サザキ」
「いや、…遠慮しとくわ、あのにおいじゃあ」
うけええ、と舌を出して見せた彼の声を、ニワトリがひねられるときのような声ですね、
と気の抜けたらしい布都彦がうっかり評して、お前の首をひねってやろうかー、とサザキ
に追いかけ回される。
柊やカリガネが苦笑した。
その騒ぎの中、つい、と忍人が身を翻す。
「…どこへ?」
風早に声をかけられて、忍人は久しぶりに静かな笑みを見せた。
「堅庭で、外の空気を吸ってくる」

庭に出ると、四阿のあたりに先客がいた。
誰だろうか、と何気なく思いつつ、たいして深く考えもせずに数歩歩いて、
「…!」
四阿にいるのが誰かに気付いて、忍人は思わず足を速めた。
たぶん濡れた服を着替えさせられたからだろう、いつもとちがう少しもこもこした服を着
て、膝を抱えるようにして四阿にうずくまっているのは、
「…那岐!」
部屋に戻って休んでいるはずの那岐だった。
「…休んだんじゃなかったのか、君は!」
詰問口調になってしまった、と忍人は少し眉をしかめたが、元より自分はこういう口調な
のだ、と少し開き直る。那岐も大して気にした様子はなく、それより座ったら、とあごで
自分の傍らをさした。
「別に、千尋はともかく僕はちょっと濡れただけだし、戦いで疲れているっていうならあ
んたも同じだろ、忍人。…禍日神相手に、また破魂刀使って」
「…」
忍人は言い返せずに、ただ眉をひそめた。那岐はそんな忍人をちらりと見て、けだるそう
に、
「…まあ、眠いのは眠いんだけどさ」
とつぶやく。
「…だったら」
むっとした忍人が言おうとした機先を制して、那岐がまた口を開く。
「でもまだ眠るわけにはいかないんだ。しなきゃいけないことがある」
那岐は膝を抱えた姿勢のまま、傍らに立つ忍人を見上げ、…ようやく表情をゆるめて、子
供のようににこ、と笑った。
「…っ」
忍人もなんだか、気が抜けた。ふう、とため息を一つついて、那岐の傍らに腰を下ろす。
那岐が満足した猫のような顔をした。
「ここにいたら、忍人が来ると思った。忍人に言いたいことがあった」
「……何だ」
「前、海岸で、なくしたものがあるって僕が言ったこと、覚えてる?」
「…ああ」
「あれ、見つけた」
「…そうか、…よかったな」
ぽん、と那岐の丸い頭に手を置くと、那岐はくすぐったそうにまた笑った。
「なくしたものがなんだったか、聞かないの」
「聞くまで寝ないんだろう。…なんだった?」
「僕だった」
……。
「…は?」
「…うーん、…まあ、は、って思うよなあ。…そうだな、正しくは、自分のことも大切に
出来る自分、…かな」
那岐はふう、と息をもらして。
…ぽつりぽつりと話し始めた。
「僕はずっと、自分のことがどうでもよかった」
それは少しどきりとする言い方で、忍人はかすかに身をこわばらせた。その気配が伝わっ
たのか、那岐が少し笑う。
「自暴自棄でそう思っているわけじゃなくて、ごく自然に当たり前のこととしてそう感じ
ていたんだ。…自分だけじゃなくて、けっこう他のこともどうでもいいやって思ってたん
だけどね」
少し首をかしげて、那岐はくしゃ、と右手で自分の髪を乱した。
「ただ、千尋とか、みんなとか、…自分の大切に思う人と場所さえ守れれば、後はいいや、
どうでもいいやって。…本当にずっと、そう思ってた。だから、狭井君のところにいくこ
ともあまり迷わなかったけど」
那岐はそこで少し言葉を切って、ふところからごそりと何かを取り出した。それは彼がい
つも使っている御統だった。
その隅っこで、きらりと光るもの。
「…あの、釦か」
忍人は静かに指摘する。うん、と那岐はうなずいた。結びつけているのは忍人の糸だ。赤
みがかった美しい紫色。
「…忍人が来て、これを置いていって。…千尋があんなものかぶってまでして、たった一
人で忍び込んできて。…禍日神と戦う時だって、どうやって場所を知ったのかみんなで駆
けつけてきてさ。…そこまでされて、僕はやっとわかった」
御統の勾玉を、一つ一つ繰る。
「自分なんてどうでもいいって思ってても、自分の大切な人にとって、僕は既にどうでも
よくはないんだって。どうでもいいやって投げ出した僕の体を、君や千尋がかばう。かば
って、傷つく」
那岐の指が、御統に結びついた釦のところで止まる。…彼は、泣きそうな顔をした。
「…そんなのは、いやだ」
「…」
「禍日神との戦いの後で千尋が消えて、…血が凍るかと思った。戦いの後、破魂刀を使っ
て血の気が失せた忍人の顔を見て、心臓をわしづかみにされた気がした」
ぎり、と那岐が唇をかむ。…血が出るのでは、と、忍人が思ったくらい、きつく。
「自分を大切に出来ない人間に、他の誰かを大切にすることは出来ない。僕を大切に思っ
てくれる誰かが、どうでもいい僕のために傷ついていく。…そんなのは厭だ、そんなの駄
目なんだ」
ずっとそうだったのに、…今頃になって。
「…やっと、わかった」
縮こまっていた那岐のこわばりが、ふとゆるんだ。
「……そしたら、ふっと、…僕の中にずっとあった喪失感が消えて、………そこに千尋が
立っていた」
つぶやいて、…那岐はようやく、傍らにいる忍人に視線を向けた。憑き物に憑かれたよう
に話し続けていたその瞳に、穏やかな色がかすかにさしている。
「もう、自分なんてどうでもいい、なんて思わない。君たちが愛してくれる僕を、…僕も
愛す」
那岐が笑う。…忍人も少し笑った。……心の奥が、じわりと温かい。
「……忍人。ごめん」
「…?」
唐突に謝られて、忍人はまた怪訝な顔になる。
「ずっと、ごめんって言いたかった」
那岐は、言いにくそうにまたうつむく。ぼそぼそと、小さな声で。
「あのとき、狭井君の屋敷で、僕の群れはもうここにあるって言ったこと」
「……」
忍人はやわらかく微笑む。那岐は、うつむいたままなので、その笑顔に気付いていない。
「……あれ、嘘だよ。ごめん」
「…ああ」
忍人の声のやわらかさに、那岐ははっとした様子で顔を上げた。おそるおそる、というふ
うに様子をうかがわれて、今度ははっきり忍人は苦笑した。
とたん、急き込むように那岐が話し始める。
「…僕の群れは、この天鳥船のみんなだ。千尋と君がいて、風早やサザキや布津彦や、…
みんながいる、ここが僕の家だ。……嘘をついて、ごめん。ずっと、それを謝りたかった」
「…かまわない」
忍人はゆるゆると首を横に振る。
「もういい、那岐。…君が戻ってきたから。…俺はもうそれでいい」
謝らなくても、俺はずっと知っていたから。…君の群れはこの船の仲間でしかありえない
と。
那岐は、べそかいてなだめられた子供のような顔で、笑った。そして、ごそごそと、御統
からあの釦を外す。
そして、つい、と忍人に差し出した。
「これ。…やっぱり忍人が持っててよ」
「……」
忍人は、眉間に一つしわを寄せた。…前回はともかく、今度は素直には受け取りかねる。
その様子を見て、那岐が笑う。
「大丈夫。…もうそれがなくても、僕は群れからはぐれたりしないから」
ほんとだよ。
念を押されて、忍人はゆるりうなずいて、愁眉を開いた。
「…わかった」
白い指が、金色の釦を受け取る。那岐はほっとした様子で小さく息を吐いて、それから忍
人の肩にこつんと丸い頭を預けた。
「…それさ、たぶん第二ボタンなんだ」
急に眠そうな声になって、那岐は言う。
「糸がぐらぐらしてたの、第二ボタンだったからさ」
「……?」
何を那岐が話し始めたのかわからなくて、忍人は不審そうに那岐を見下ろしているのだが、
とろとろと話す那岐は忍人の様子に気付いていないようだ。…いや、…気付かないふりを
しているのか。
「僕と千尋がいた世界では、…制服の第二ボタンは、卒業式に好きな子にあげるものなん
だ。…だから、それ忍人にあげる」
「……は?」
眼をぱちくりと見開いて。…それから那岐が言ったことをじっくりと咀嚼して、…忍人の
顔にぱっと朱が散った。
「…那岐?」
問い返したが、しかし肩に預けられた頭はこてんと重く、眠いときの子供と同じようにじ
わりと熱い。…すうすう、と穏やかな寝息が聞こえてくるに至って、忍人はため息を一つ
もらし、それ以上の問いかけをあきらめた。
「…参った」
寄りかかられていない方の手で顔を覆って、忍人はぼそりとつぶやく。顔はもう、耳まで
赤い。
もう一度ため息。そして深呼吸。ようやく肩の力が抜けてきて、忍人の唇をかすかな苦笑
が彩った。
受け取った金色の釦をそっと空にかざす。折から輝きはじめた月の光を受けて、釦はきら
りと光った。