本当の風早

風早は、窓を閉ざした暗い部屋の中でうつむいていた。あまり誰とも会おうとはしない。
それでも、じっと宮の中にいた。
……その瞬間を、待ちこがれていた。

扉の向こうで、人が立つ気配がした。
咳払いが一つ。
名乗らなくても、君の気配ならすぐにわかるよ、と、かすかに風早は微笑む。
「俺だ。…入っても、いいだろうか」
忍人も、まるで風早の気持ちがわかっているかのように、名乗りはしなかった。
「どうぞ」
扉を押し開けて、忍人が入ってくる。
「もうすぐ、即位式が始まる。…それだけは、見るのだろう」
「ああ、…知らせに来てくれてありがとう。…行くよ」
そうか、では、と背を向けた忍人に、待ってくれないか、と風早は声をかけた。
「……?」
「俺はね、君に礼を言いたいことがあったんだ」
忍人はけげんそうに、かすかに眉間にしわを寄せる。
「……忍人、君は、…知っていたんだろう?…俺が、本当の風早じゃないということ」
ぴりり、と忍人のこめかみが震えた気がした。
「…なんのことだ?」
けれど、表情も声も穏やかだ。…君も、少しは嘘がつけるようになったのかな、と風早は
思う。
「君が、四国に遠征してきたと先生に報告したとき、…俺はね、内心どきどきしたんだ。
四国の豪族を訪ねてきたのなら、必ず伊予の風早の一族にも足を運ぶはずだ。地方の一部
族とはいえ、伊予では大勢力だ。助力が請えるかどうか、確認に行くはずだ。…行ったろ
う?」
「…ああ。…助力は得られなかったが」
「そう。…風早の一族は、今はもう中つ国に己が部族の人質はいないからと言ったんじゃ
ないか?」
忍人は皮肉げに笑う。
「……そのとおりだ」
「…君が愚鈍ならいざ知らず、…君は頭のいい子だ。…俺がまだ生きていることも、中つ
国の姫と共にいるはずだということも先生から聞かされていただろうしね。……あやしい
と、思わなかったかい?…怪しんで、聞かなかったか?風早はどうしたのかと」
「………」
忍人は押し黙った。じっと黙って風早を見て、…やがてゆるゆると首肯した。
「…聞いた。…そして、聞かされた。橿原宮へ差し出した風早は、流行病を得て早くにな
くなった、その後は誰も送っていないと」
開き直ったような顔で、彼は言って、……なぜそんなことを聞く、と眉をしかめた。
「狭井君に君のことを告げ口したのは、まさか俺だとでも?」
「……まさか。…それなら俺は君に礼を言ったりしないよ」
ゆるゆると、風早は首を横に振った。
「それに君なら、狭井君に告げ口なんかしないで、その必要があれば俺に問いただすだろ
う。もし伝えるとしても、狭井君ではなく先生の方に伝えるだろう。……だが、先生も、
千尋も、狭井君から聞かされるまで俺のことは知らなかったと言っていた」
君は、誰にも言わないでいてくれたんだね。
「だから俺はずっと、千尋のそばにいられた。……こうして千尋の即位式も見られる。…
…ありがとう。感謝しているんだ、本当に」
「…礼を言われるようなことは何もしていない」
「君にはそうかもしれない。…けれど俺にとっては」
「風早」
忍人は強い口調で風早の言葉を遮り、言った。
「…本当の風早とは、誰だ?」
風早は、目を見開いた。
目の前に立つ立派な将軍が、なぜか一瞬、髪を肩のあたりで切りそろえ、生真面目な顔で
よそいきを着て立っている、小さな子供に見えた。
「…俺が知っている風早は、岩長姫の屋敷で共に学んだ兄弟弟子で、羽張彦が勉強から逃
げ出したら一緒に捕まえにいって、柊が割った土器を一緒に運んで作り直して、道臣殿と
一緒に竹簡の整理もした、今俺の目の前にいる君だ。……師君にとっての風早も、柊にと
っての風早も、那岐にとっても、もちろん姫にとっても、…君だけがたった一人の本当の
風早なんだ」
「………」
風早は、一瞬挟む言葉を失った。
「…四国でどんな事実を知ろうと、俺たちにとって君が本当の風早であることは変わらな
い。…だから、誰にも、何も言う必要がなかった。…それだけだ。君に礼を言われること
は何もない」
ふいと忍人は顔を背けた。
「…あまり馬鹿なことを言わせるな」
眉がきつく寄せられている。…なんだか、泣きそうな顔だ、と風早は思った。
「…すまなかった」
「……」
忍人は、頭を一つ振って、風早に向き直った。…もういつもの顔をしている。
「ところで、…まさかとは思うが、柊を知らないか?…即位式は見るだろうと思って部屋
に声をかけに行ったんだが、いないんだ」
「………ああ……」
風早は、困った顔で少し笑う。
「柊はね、…たぶんもう行ってしまったよ」
「………」
忍人は、どこへ、とは聞かなかった。ただ押し黙った。
……だから、風早が口を開いた。
「俺も、別れを言ったわけじゃないんだけれど、…この宮の中に、柊の気配はもう全然な
いよ。だから、行ってしまったんだと思う」
忍人は押し黙ったままじっとその言葉を聞いていたが、やがて、厳しい色を宿した瞳を一
度ゆっくりと閉じて、開いた。
…何かをあきらめたような、そんな目だった。
「…君たちはまた、…俺を置いていくんだな」
風早は、どきりとした。
…また、と彼が表現する「前」がいつだったかを思い返すと、人ならぬ身でも胸が痛む。
風早の表情を見て、忍人はふ、と皮肉な笑みをもらした。
「わかっている。俺が口出しできる話ではないし、別に一緒に連れて行けと言っているわ
けでもない。……そもそも、一番おつらいのは俺ではなく姫だろう」
また忍人の言葉がちくりと風早を刺す。
風早が目を伏せると、忍人はその風早から顔を背けるようにして言葉を続けた。
「ただ、そのおつらい姫をなだめる役を、俺に置いていくのだろう?…俺はまた、君たち
の尻ぬぐいだ」
以前、彼を置いていったときは、戦火の中だった。今度は違う。ちがうが、…しかし。
風早が言葉を探していると、不意に忍人が風早に向き直り、かすかに口元をゆるめた。
「…忍人?」
「…焦るな、風早。俺だって、たまには冗談くらい言う」
「……え」
「今のは冗談だ。…そんなに気に病んでくれることはない」
「……忍人……」
がっくりと肩を落とした風早の背中に、忍人は静かな声をかけた。
「……行こう。…せめて君だけでも、姫の晴れ姿を見てから行ってくれ。……君だって、
ただこの日のために、ここに残っていたんだろう」
……ああ、気付いていたのか、と風早は思った。…姫以外には誰にも何も言わなかったの
に、君には気付かれていたのか。
忍人の気配が扉に向かう。…立ち止まり、振り返り、無言で風早を促す。…うなずいて、
風早も顔を上げた。
久しぶりに出た部屋の外は、爛漫の春だった。陽光が白くてまぶしいほど。…その陽光の
中に忍人の影のような姿がくっきりと浮かび、…その向こうに、五色に彩られた美しい衣
装を着けた、千尋の姿が遠く見えた。
空は青く晴れ渡り、かすかに白く春霞む。花が咲いている。あれは桃の花、桜の花。
ああ、いい日だ。……消えるには、とてもいい日だ。
風早はうっとりと微笑んで、忍人の後を追って歩き出した。