本当に、笑って。


朝の教室で出欠を取る教師の声が響く。
「手嶋君」
「はい」
「東金君」
「…はい」
千秋の声はいつになくすっきりしないものだった。…なぜならば。
「土岐君…は、おやすみね」
担任の一言が全てを物語る。…蓬生が、来ていないのだ。
当たり前だが、連絡を受けているらしい。あっさりと次の名前を呼ぼうと口を開いた担任
を、千秋は遮った。
「センセー」
「はい、なあに?」
ふくふく笑う、少しおっとりした担任に、千秋はまっすぐに問うた。
「蓬生、なんで休みなん?」
「熱が出たそうよ」
その言葉に千秋がぎゅっと眉を寄せると、担任はなだめるように微笑んで、
「放課後、お見舞いにいってあげるといいわね。電話のお母さんの口ぶりでは、会うこと
も出来ないほど重症という感じではなかったわよ。…じゃ、出欠の続きをとりまーす。仲
川くん」
「はい」
…明るい返事が続く中、千秋はそっと自分の爪を見つめた。千秋の爪は桃色で綺麗で、…
前に見た蓬生の爪の白さとはちがっていた。


大きな手術とその予後経過観察を終えて、蓬生が学校に復帰したのは二学期だった。入院
が長かったのと、院内学級にもなかなか行けない状態が続いたために、一年留年という扱
いになって千秋と同じクラスに編入されてきたのだが、蓬生は案外それを喜んでいた。
「無理して勉強についていけんくなるよりええわ。おまけに千秋もおるし、最高や」
そう言って笑っていたのはほんの数日前。なのにもうベッドに逆戻りなんて。
放課後、担任から預かったプリントを手に、千秋は蓬生のアパートへと急いだ。見透かす
ように使いっぱにされるのは少々しゃくに障ったが、他の誰かが蓬生のところに行くのも
気に入らない。蓬生に何か手渡すなら自分がいい。
見慣れた蓬生のアパート。
チャイムを鳴らす。返事がない。
蓬生の両親は共働きだ。母親が蓬生を置いて仕事に出ているということは、確かに蓬生の
状態はそう悪くないということなのだろう。……が。
ピンポーン。
もう一度チャイムを鳴らした。すると奥から、
「留守でーす」
というふざけた返事が返ってきた。
返事をしておいて留守ですも何もない。
ドアノブを回してみたが回らない。鍵はちゃんとかかっている。
千秋は舌打ちして、アパートの裏側へ回る。
蓬生の家のアパートの裏側には、大きな楠が生えていて、その枝を窓の方へ伸ばしていた。
雨樋をよじのぼるよりもよほど楽にベランダにたどり着ける。
いつものルートで枝からベランダに飛び移ると、蓬生がくすくす笑ってそれを見ていた。
残暑厳しい中、風を通すためだろうか、窓は網戸だけ残して開いている。
「何回も鳴らすから、千秋やろ思たわ」
「二回しか鳴らしてねーよ」
「セールスは二回も鳴らさん。他に客の当てもないし」
「るすでーすってなんだよ」
「玄関、鍵かかってたやろ。開けにいかんでも、千秋やったら、『留守ですー』いうたら
勝手に裏回って窓から来てくれるやろ、思て」
「……」
千秋は眉を寄せた。
「歩けないほど辛いのか」
が、千秋の真面目な問いに蓬生はけらけらと笑った。
「そない見えるか?」
「……」
見た目でわからねえから聞いてるんだろう、と無言のオーラを出してすごむと、蓬生は首
をすくめた。
「別にしんどない。単にめんどいだけ」
「…おい」
「ええやん、中に入れてんし。…あ、プリント持ってきてくれたん?見せて貸して」
「……」
無言で千秋は蓬生にプリントを渡し、しげしげと見入る蓬生の顔を観察した。表情こそ明
るく元気そうだが、やはり顔色は良くない。自然と千秋の顔は沈んだものになったが、そ
れを見て蓬生はくすくすまた笑った。
「そんな顔せんといてや。…千秋が思とうより元気やで、俺」
「…けど」
「ほんまやって。元からこれくらいは覚悟してたし。…進んで、戻ってでもしゃあないと
ころが、足踏みだけですんでるんや。御の字や」
「……?」
いまいち、蓬生の言ってる意味がわからない。首をかしげた千秋に、やーかーらあ、と、
蓬生は目を細めた。
わからへんねんなあ、しゃあないなあ。…そう言いたげな蓬生の顔は、自分のそれよりき
っと、大人だ。…ふと、千秋はそう思う。
「退院は一応したけど、また病院に逆戻り、も、俺自身は覚悟しててん。せやから熱出た
とき、やっぱりかと思ったら、ちゃうねんて。家でおとなししとったらまたすぐようなる
て。急に人の多いとこ続けて出たから、身体がびっくりしただけや、たいしたことない、
て言われた。足踏みしてるだけなんや」
「…蓬生」
「偽者の元気やないねん。ほんまに元気になってん、俺。せやから、安心して、……いう
んはちょっと難しいかもしれんけど、…大丈夫や、て、……信じて?」
「……。…蓬生」
「俺、絶対、千秋の隣キープできるくらい強い身体になるから、まっとったって。…場所、
空けといてな」
「わかってる。…蓬生以外の誰も、俺の隣にはふさわしない。…俺の隣は、蓬生だけや。
…待ってる。はよ、ここまで来い」
「……うん」
蓬生は笑った。綺麗な笑顔だった。
「うん、ああ、…うれしなあ。…うん行くわって言えるん、めっちゃうれしい」
「…蓬生」
と、そのとき、玄関の扉ががちゃがちゃと音を立てた。
「ただいまー、蓬生。…あら?」
玄関の扉を開けて入ってきた蓬生の母親は、千秋の姿を見て目を丸くした。
「あ、どーも。お邪魔してます」
「いらっしゃい千秋君。…あら?…でも、あら?」
彼女が見るのは玄関の三和土だ。…鍵が閉まっているのは用心のために千秋が又閉めたの
だとしても、玄関に靴がないのはおかしい、と悩んでいるのだろう。彼女の疑問は道理に
適っている。
えーと、どない説明しょうかな、と千秋が思っていると、先手を打って蓬生がのんびりと、
「千秋の靴、ベランダー」
「……あらら?」
「こいつ、窓から来よってん」
悪い奴やろー、と言いたげな蓬生の言い方に、思わず千秋は言い返した。
「せやかてお前が玄関開けてくれへんからやろ」
「開けてー、て、言わんかったやん、千秋」
ぐっと詰まる。…それはその通りだ。というか、開いてない時点で裏から入ればいいと思
った自分も自分だ。
「…すいません、窓から」
謝ると、いいのよ、と蓬生の母親は首を振り、身体の弱い息子の頭頂部を軽くぺんとはた
いた。
「横着してんと玄関くらい開けてあげなさい!…ごめんなさいね、千秋君」
「窓から入ってくるようなやつに、ごめんとか言わんでいいと思う」
「せやからそれはお前がドアを…」
「やからお前、開けて言わんかったやろー」
「それはっ、せやからっ…」
「………もう!」
やりとりに耐えかねたらしい母親がくすくすと笑い出した。
いつも辛そうな寂しげな笑顔しか見せたことがなかった人が笑っている。
…確かに何かは変わったのだと、…千秋はうれしくなって、一緒になって笑った。
気付けば蓬生も笑っていて、まじりあう三つの笑い声は、ひいやりとした秋の夕風を運ん
でくる窓の向こうへと消えていった。