本を読む人


実際の日付よりも一週間早く、蓬生の誕生日を祝いに、大地が神戸を訪れた。当日を避け
るのは、家族や千秋との時間を気遣う彼らしい配慮だとわかっているが、蓬生は時々なん
だかもやもやとやるせないような気持ちになる。
いつもなら会ってそのまま外泊するのだが、今年は何故かそのもやもやが先に立った。素
直にいつもどおり二人で過ごすのが何だか落ち着かない気がして、…ふと心づき、大地を
自宅へ誘ってみる。
「…いいのか?」
蓬生の誘いに、大地はひどく驚いた顔をした。
「…何で?」
「……君のプライベートに、俺が踏み込んでも」
その言葉に一瞬蓬生は呆気にとられ、次の瞬間、
「…今更」
笑ってしまった。
「俺はとっくに踏み込んどうのに、君には立ち入らせへんなんて、フェアやないやろ」
笑いながら、ああ、自分がもやもやしていたのはこれかと、ようやく気付く。
大地は、蓬生がこの世でただ一人、肌をかわして身体の深みを暴くことを許した相手だっ
た。けれど、彼の存在はいつも、千秋よりも家族よりも遠かった。現実の距離ではない何
かが。情熱も慈しみもあふれるくらい感じるのに、蓬生の心に触れる、その一歩手前で、
彼はいつも立ち止まるようで。
わがままを言わない、踏み込んでこない大地に、蓬生は焦れていたのだ。

−…なあ。…まさかまだこの関係が、実験の続きやと思ってるわけやないんやろ?千秋の
電話を黙殺した、あの日の俺を忘れたとは言わんよな?

「その代わり、両親おるし、悪さは何もせえへんで。……それでもかまへん?」
からかうように言うと、大地はもちろんと言って苦笑した。


蓬生が突然千秋以外の友人を連れてきたことに、両親は驚きを隠さなかったが、喜んで大
地を歓待した。しかもこういう時、大地は堂々として臆さない。人当たりも良く、人あし
らいも必要以上に上手く、話題は豊富だ。…結果、夜が更けて二人が部屋に引き上げるま
で、蓬生の両親はさんざん笑い転げることとなった。
座敷には布団を並べて敷いたが、宣言通り悪さは何一つしなかった。ぽつりぽつりと他愛
ないことを話し、明日の予定を相談し、…おやすみと挨拶だけをかわした。
触れない距離で身じろぐ大地の気配が新鮮で、ずっと追いかけていたつもりだったのに、
気付けばいつの間にか蓬生は眠ってしまったようだった。


夏の朝は早い。早朝、カーテンの隙間から差し込む光のまぶしさで目が覚めた。傍らを見
ると、大地が布団から少し畳の上に身を乗り出し、カーテンから漏れる光が畳に落ちると
ころで本を読んでいた。熱中しているのか、珍しく蓬生が起きている気配に気付かない。
眼鏡なしではあまり焦点が合わないのがじれったくて、枕元の眼鏡を探ってそっとかける
と、大地の眼差しの真剣さがはっきり見えて、しばらくの間蓬生は見とれた。
「…おはよ」
観察に満足してからそっと声をかけると、大地ははっとして、まぶしそうな顔で蓬生を振
り返り、おはよう、と笑った。振り返りつつも本の読みかけのところに指を挟んだままな
のを見て取って、蓬生はわざと拗ねた顔を作る。
「…横に俺がおんのに読書なん?」
「……横に君がいるからだよ」
静かに大地は答えた。
「ここで悪さが出来ないことはわかっているけど、君の寝顔を見ていると触れたくて仕方
がなくなる。…邪念を払うために、本を読んでる」
「……」
蓬生は目を見開いて、じわりと笑った。…そして、大地の方へと少し身を乗り出す。
「…全部が全部、あかんこともないんちゃう?」
大地は蓬生に迫られたことに微苦笑しながら、
「…というと?」
と応じた。
「少しなら、…悪さしてもかまへんのんちゃうって、ことや」
「……たとえば、手をつなぐとか?」
言って本を伏せ、伸びてきた手に指を絡めて蓬生はうなずく。そして今度は蓬生から誘い
をかけた。
「…抱き合う、とか」
素直に誘いに乗って、蓬生を引き寄せた大地は、ふと、唇だけで笑った。
「……キスは?」
「……」
答えは唇で返す。
…少しだけのつもりの行為が、ゆるりゆるりと深くなって、吐息も舌も奪い去られそうな
ほど激しくなる。…口づけの隙間に甘い声を上げそうになって、蓬生は必死でこらえた。
「…っ、あかん、なあ」
上がる息を呑み込むのすら切なくて、思わず口走ると、大地は額に軽いキスを落としてか
ら身を離した。
「……だから言ったのに」
そう言って笑う顔がくすぐったくて、蓬生も思わず口元をほころばせた。
畳の上に転がる本の影がくっきりと、今日の晴天を告げている。
まだあと少し、君と過ごせる、幸せ。