星の一族

「風早、風早っ!」
宮を辞して岩長姫の屋敷に帰ってきた風早のところに、息を切らして忍人が駆けてきた。
小さい頃に岩長姫の屋敷に弟子入りした彼も、風早や柊が入門した年齢を越えて、ようや
く中身と見た目の釣り合いがとれてきていた。が、今日はいつもの冷静さを失っているよ
うだ。
「…今、宮から…?」
「…ああ、帰ってきたところだよ」
風早は、忍人の聞きたいことが何なのかわかっていた。…が、あえて、落ち着いた声で何
事もないかのように振る舞う。
「…さっき、師君のところに宮からの使者が来たんだ。……羽張彦が、一ノ姫を拐かして、
失踪したと」
「……」
風早は無言で忍人を見つめた。
「…使者は、すぐに羽張彦を探し出して宮に出頭させるようにと言ったそうだ。師君も、
俺や道臣殿を呼んで、心当たりを探すようにとおっしゃったが、…しかし、羽張彦たちが
一ノ姫を宮から抜け出させて遊びに連れ出すのは、これが初めてじゃない。…どうして、
こんな、…犯罪人まがいの言われ方を…」
風早と話している内に少し気持ちが落ち着いてきたらしい。忍人の声がやや静まってきた。
それを見計らって、風早も自分の頭の中を整理しつつ口を開く。
「…俺も、宮で羽張彦を探すようにと言われたときに少し聞いただけの話なんだが」
こくん、と忍人がうなずいた。
「…畝傍山へ入っていく羽張彦と一ノ姫の姿を見た者がいるそうだ」
「………?」
風早の言葉の意味がとっさにはかれず、忍人は首をひねる。
「…畝傍山には、常世の国につながる洞穴がある」
「…二人が、常世の国に行った?……でも、あそこは千引岩でふさがれているはずでは…」
「俺もそう思うのだけどね。…それと、もう一つ、これは口の軽い采女から聞いた話なの
で、あまり当てにはできないが、先般、一ノ姫は白龍に、羽張彦からの妻問いに対してお
伺いをたてたそうだ」
「妻問い…って、…え。……ええっ?」
何気なく復唱してから、忍人は真っ赤になった。そして、いや、そんな場合じゃなかった
とぶるぶる首を振る。
「それで?」
「白龍の許しはなかったらしい。…そのせいかどうか、女王陛下からも妻問いへの許しは
なかったと聞く。羽張彦は、それなりに力のある部族の出だ。白龍の許しさえあれば妻問
いへの障害はさほどなかったはず。……それを憂いて二人で中つ国を駆け落ちし、常世の
国へ逃げたのでは、というのが宮の采女の間でのもっぱらの噂だそうだ」
「………」
「犯罪人扱いなのは、重ね重ねの脱走のせいもあるだろうが、そういった経緯あってのこ
となのではないかと思う。……それが証拠に、柊の名前が一度も出てこない」
「………!」
はっ、と忍人は息をのんだ。風早も少し顔を険しくする。
「一ノ姫の脱走なら、いつも柊が手を貸していただろう。だが、宮では皆一様に羽張彦を
探せとばかり言っていて、誰も柊を探せとは言わないんだ」
「…確かに。宮からの使者も、羽張彦のことばかり言っていて、柊のことは何も……」
忍人は不意に顔色を変えた。
「…すまない、風早、また後で!」
それだけ言い置くと、彼は自分の部屋に向かって駆けだした。見送る風早は、しばらく険
しい顔でその後ろ姿を見送っていたが、忍人の姿が室内へ消えると、肩で大きくため息を
ついて、表情を変えた。さびしそうな、何もかもわかっているという顔になる。
「……動くことにしたのか、柊。…ならば、俺も覚悟を決めねばならないね…」

忍人は自室へ駆け戻り、寝台の脇に置き去りにして置いた竹簡を手に取る。昨日の朝、戸
口から差し込まれていたものだ。出だしは数字と記号の羅列で、てっきり一昨日のチャト
ランガの棋譜か何かだろうと思って気にもとめていなかったが、もしかしたら…。
はやる気持ちを抑え、寝台に腰を下ろして順番に竹簡を繰る。出だしは確かに一昨日の勝
負の棋譜だった。忍人は竹簡が惜しいので、もっと小さな文字で書き付けるが、柊は普通
の大きさの文字で書いている。が、しばらくめくると唐突にその棋譜がとぎれて、見慣れ
た柊の手で書かれた文章になった。
「……書庫に?」
書庫に、君宛の問題がおいてあります、…その文章はそういう言葉で始まっていた。
『場所はわかるでしょう。俺がいつも読みかけの竹簡を置いておいた場所です。時間がと
れるようなら問題を解いてみてはどうですか。興味がなければ放っておいてかまいません
が、とりあえず問題だけでも見てみてください』
柊らしからぬ書き方だ、と忍人は思った。とりあえず問題だけでも、なんて。自分ならば
ともかく、彼がこんなふうに、誰かに何かを押しつけることはめったとない。
「…つまり、放っておいていいものではないということだ」
がたん、と忍人は寝台から立ち上がる。あわてて部屋から飛び出すと、足早に書庫へと向
かった。

書庫は相変わらず、乾いた竹のにおいと虫除けの薬草のにおいで満ちている。忍人は手前
の書棚を素通りし、いつも柊がいた一隅へと向かう。
彼が独占していた棚を見て、忍人ははっとなった。
適当に乱雑に置かれていた竹簡が、今日は他の棚と同じくきれいに整頓されている。いつ
も柊がそこにいたことを知る忍人でなければ、ここも他の棚と同じで軍事書や古典が置か
れているだけの棚に見えただろう。
「木を隠すには森、だ」
やはり、柊はここに何かを隠したのだ。
忍人は、片端から竹簡を手にとって繰り始めたが、どうもほとんどはチャトランガの棋譜
だ。しかも読んだ感じは忍人と柊の勝負のものばかりのように思える。
チャトランガの問題なのか?と思いながら次の竹簡を手に取ったとき、何かひっかかりを
感じて忍人は棚をのぞき込んだ。
その竹簡には、上の方にひもが結びつけてある。そのひもが、棚の奥へ伸びていって何か
につながっているようだ。
忍人が注意深くそのひもをひっぱると、棚の隙間から一巻の竹簡が出てきた。
「…!」
その竹簡には見覚えがある。いや、見覚えがあるどころではない。
少しほつれている赤い綴じ糸。持ち歩いていたために少し飴色になった竹。
「俺のアカシヤだ」
忍人が星の一族の出身だった彼の母から受け取ったアカシヤ。いや、正確には本当のアカ
シヤかどうかわからないが、アカシヤだろうと思われるもの。柊に預けたはずだった。本
当にアカシヤなのかどうか読んでみてほしい、本当にアカシヤなら、しかるべき場所に納
めたいと。
「……」
忍人は考え込んだ。
柊が、あんな謎かけのようなことをして、自分に手渡したかったものがこのアカシヤであ
ることはよくわかった。そして、このような準備をしていった以上、彼にはこの屋敷に戻
らない覚悟があったということも。だが、それだけか?
柊はこのアカシヤを忍人に返したかっただけだろうか?他に何か伝えたかったことはない
のか?
…そもそも彼は今、どこにいる?
忍人は、アカシヤのひもの先を見た。そのひもがつながっている、一巻の竹簡。
『君宛の問題』と、柊も書いていたではないか。
「…これがきっとそうなんだ」
忍人は猛然と竹簡を繰り、頭の中で駒の動きを追い始めた。

棋譜を追い始めてすぐに、忍人はおかしなことに気がついた。
この棋譜は、片側の駒の動きしか示していない。しかもその駒も、兵しか動かしていない。
たった一つの兵だけが、どこまでもどこまでも進んでいく。
「兵は、横には動けないのに」
横にも動く。敵陣に入っても、敵の駒を取らない。そしてそのまま進んでいく。……どこ
へ?
「……もし、この王がいる場所が橿原宮なのだとしたら」
この兵の動き始めた場所は、岩長姫の屋敷なのではないか?
ならば、この兵の行き着く先に、…柊がいる?
忍人は竹簡を握りしめた。

忍人は、歩きやすい里道を足早にたどっていた。道の分岐で迷ったときは、竹簡を繰る。
そしてそこに書かれている兵の動きを見て、その駒が動く方の道を選んだ。
岩長姫に外出の許しを得にいったとき、忍人はあえてどこへ行くとは言わなかった。確証
があるわけではなかったからだ。岩長姫もあえて行き先を聞かなかった。彼女がうっかり
していたのだとは思わない。忍人が言わないからには、そこに何か理由があると判断して
もらえたのだと思っている。
風早には一言言い置いていこうと思ったのだが、あいにく岩長姫の屋敷には姿が見えなか
った。姉上の一ノ姫が姿を消しているのだから、さぞ二ノ姫は不安がっているだろう。き
っと彼女のそばについているに違いなかった。
道の向こうにひとかたまりの集落が近づいてきた。長の屋敷を中心として、分家の屋敷が
集落を形成している、典型的な中つ国の族の集落。忍人はもう一度竹簡を繰ってみた。兵
の動きはさきほどの分岐で終わっている。…あの集落が、おそらく目的地だ。
忍人が足を速めると、集落の入り口に誰かが不意に現れた。杖をついた老翁のようだ。集
落まであと一歩、というところまで忍人が近づくと、老翁は杖にすがって一歩忍人に近づ
き、思いがけず鋭い眼光でまじまじと忍人を見つめた。
「…ではお前が笹姫の息子か」
「…!」
老翁は、忍人の母の名を呼んだ。…柊に導かれたこの村。母の名を知る人。ではここは。
「…そうだ。ここは星の一族の村だ。…よく来た、我が一族に連なる者よ」
入るがいい。
老翁は背を翻して、杖にすがりながら一歩一歩村の中へ入っていく。呆然としていた忍人
は、あわてて後を追った。

「柊はしばらくお前の前には姿を現すまい」
彼は、星の一族の長だと名乗り、自らの屋敷に忍人を誘った。
不思議と、人気のない集落だった。まるで長以外には誰もいないようにすら思える。足の
不自由な長が杖にすがりながら歩いているのに、屋敷に帰っても誰も出迎えに出てこない。
彼はそのことを気にした様子もなく屋敷の奥の部屋に歩を進め、忍人と向き合って腰を下
ろすなり、先の言葉をつぶやいた。まるで忍人が何を考え、何を聞きに来たのか、全てわ
かっているという風だった。
「生きて…いるのですか?」
「生きてはいる。今頃は常世の国にいるだろう」
「常世の国…。…ではやはり羽張彦と一ノ姫も…」
「残念だが、その二人のことは、我々の読めるアカシヤには記されていない。柊であれば
あるいは、未来を見たかもしれないが」
「……柊を、連れ戻しにはいらっしゃらないのですか」
「あれは自らの意志で橿原宮に仕官した。常世の国に行ったのもあれの意志だ。ならば、
我らが連れ戻す必要がどこにある」
…それはそうだ。それはそうだが、羽張彦が属する吉備の族は、今頃血眼になって羽張彦
を探しているだろう。これは一族の違いだからだろうか。
眉をひそめて長をじっと見つめる忍人に、老翁は不意にまったく違う話を始めた。
「…笹姫の息子よ。…この国は、これからひどい戦乱を経験する」
「……?」
「多くの人が死ぬだろう。愚かな戦いが何年も続くだろう。…我々は中つ国の女王にその
ことを進言したが、彼女は我らの進言を容れなかった。今の中つ国は、我ら星の一族の力
を必要としない。………故に我々は、身を潜めることにした」
「…身をひそめる?…つまり、逃げる、のですか?」
「そうとってもかまわない。再び中つ国が我らの力を必要とするまで、我らは中つ国には
戻らない」
「ですが、戦いが起こるのでしょう!?国を守って戦うのが一族のつとめでは!?」
「葛城の族なら、あるいはそうかもしれぬ。…だが、我々は星の一族だ。我々のつとめは
アカシヤを守ること。そして、我々の一族を守ることだ」
中つ国は我々の進言を容れなかった。我らが国に供せるものは、この未来を見る力しかな
い。それを拒絶された以上、我々がこの国にできることは何もない。
「……」
忍人の体の半分が、そんな馬鹿な話があるか、と憤っている。だが、体の半分は、ああ、
彼らにとってはそれが正当な行動なのだ、と納得している。彼らの生き方は、自分が経験
してきたそれとはちがうのだ、と。
そして、母が、一族を愛しながらも一族を飛び出したその理由を知った。おそらく彼女は、
耐えられなかったのだ。一族の中に閉じこもるのではなく、自らの知り得た未来で、誰か
を助けたいと願ったのだ。
「笹姫の息子よ。…君は、身の半分なりとも、我らにつながる者。君が望むなら、我らと
共に行くことを許そう。…柊も、それを願って君をここに導いたのだろう」
…そうだろうか、と忍人は思う。おそらくそれはちがう。柊は忍人のことをよく知ってい
る。忍人がどこか小さな里で命を長らえるために隠れ住むことを望むような人間でないこ
とを、彼はよく知っているはずなのだ。
彼はただ、自らが果たせなかった忍人との約束を、こういう形で叶えようとしてくれただ
けなのだと思う。
忍人は、手の中の竹簡を握りしめた。彼をこの星の一族の村へ導いたあの棋譜と、もう一
つ。
「…私は、あなたがたと共には行けません」
長はゆっくりとうなずいた。…答えはわかりきっていた。そう言いたげだった。
「ただ、一つだけ教えていただきたいことがあります。……この、竹簡を」
彼は竹簡を広げて見せた。……母から預かった、あの、アカシヤ。
「これを、私は私の母から預かりました。…これは、アカシヤでしょうか」
長は目で忍人に問うてから、竹簡を手に取った。忍人には読めない文字を、まるで幼児で
も読みこなせる文章であるかのような速さで追っていく。やがて竹簡を読み終え、彼は再
び忍人をじっと見た。
「…これは、確かにアカシヤの文字だ。それらしい詩文も書いてある。だが、本物のアカ
シヤではない。アカシヤに似せたまがいものだ」
やはりそうか。忍人は心の奥でどこかほっとしていた。本物のアカシヤだったら、とずっ
と悩んでいたのが、すうっと楽になった気がする。
「だが、持っておくといい。この竹簡に触れると君の未来が見える。おそらくは、君の母
親が見た未来を、アカシヤに似た形で書き残しておいたものだろう」
しかし、すぐにそう続けられて、忍人は少し身を固くした。…ではこれも、忍人の死につ
いて書いてあるものなのか。
だが、長の言葉は忍人の予想とは違った。
「弓の導きを信じろ、とある」
「……弓、…ですか?」
「そう、弓だ。…いつか弓が、君を君の星のもとへと導くだろうと」
「私の、…星?」
「そう、君の星だ。君が守り抜くべき君の希望だ。…君はいつかきっと、その希望に出会
うだろう。…この国に残ることを選ぶなら、君は多くの絶望を知るだろう。だが、あきら
めてはいけない。君はいつか、希望に出会うから」
そう言って、彼は忍人をこの里に導き入れてから初めて微笑んだ。厳格な長の表情が、そ
の一瞬だけ、孫を見るような好々爺のものに変わる。…ほんの一瞬でかき消えてしまった
が。
「…もう行きなさい。私ももう行かねばならない。一族の者はもうすでに旅立ったのだ」
「……!」
この里の人気のなさはそういうことだったのか。星の一族はアカシヤと共に、中つ国から
すでに去った後なのだ。
「もしや、あなたは…」
「…そうだ。君が来る未来が見えたのでな。…待っていた。…会えてよかった」
そう言って、長は、忍人に向かって手を差し出した。忍人が両膝に揃えておいていた手に
その手を重ねる。……暖かい手だった。
手を元に戻しながら、ふと思いついたという顔で、彼は忍人の顔をのぞき込んだ。
「ところで、ひとつ、頼まれてはくれまいか?」
「…?はい。私にできることでしたら」
君ならば、おそらくできるだろう。彼はひとりごちる。
「君が再び柊に会ったら、…この爺不幸者がと、儂が怒っていたと言ってくれ」
忍人は、思わず吹き出しそうになって、そんな場合じゃない、とあわてて表情を引き締め
たが、こっそりうかがうと長の顔も苦笑していた。
「会えたら必ず、伝えます」
「ああ。…では」
忍人は一礼してすっくと立ち上がり、身を翻した。部屋を出るときに、一度だけ長を振り
返ろうとして、…彼は目を疑った。
そこには、誰もいなかった。
「…え…っ?」
自分は夢を見たのだろうか?
だが、この手には確かに、さきほどの温かな手の感触が残っている。彼の言葉も、一言一
句忘れてはいない。自分は確かに、星の一族の長と出会ったのだ。
忍人は、そのまま二度と振り返らずに星の一族の里を後にした。いままでずっと重かった
母のアカシヤを、今はひどく軽く、温かく感じながら。