星めぐりのうた

「あかいさそりのめだま ひろげたわしのつばさ」
とっぷりと闇に沈んだ寮の裏庭に、ひそやかにやわらかい歌声が流れる。
ぽつりぽつりと休みがちなその歌は、
「オリオンはたかくうたい つゆとしもとをおとす」
…と歌って、ふっと途切れた。
消えた歌声を追いかけるように、さくさくと芝を踏んで足音が近づいてくる。…蓬生はデ
ッキチェアに身を横たえながら、ちらりと片目だけを開けた。
「…夜なのに、こんなところで昼寝かい?」
からかっているのかと思えば、案じるように、冷えるよ、と付け加える。声の主を知って、
蓬生は再び両目を閉じた。
「…榊くんか。…寮生でもないのに、しょっちゅう寮におるんやね」
「お呼びがかかってね。夏休みの宿題の家庭教師にって」
「…如月くんの?」
「ああ。…弟の方だけど」
苦笑を含んでつぶやき、それより、と大地は話題を変えた。
「今、ここで歌ってたの、土岐だろう?どうしてやめたんだ?俺のせい?」
…くす、と小さく土岐も笑う。
「自意識過剰やね、榊くん。…おあいにく。…単に、ここから先、二行ほど歌詞がわかれ
へんだけ」
あえてとげをもたせた自意識過剰の一言に、大地はのってこない。少しは対処法を学んだ
ようだ。そうか、とつぶやき空を見上げる。今日は雨の翌日で空気が澄んでいる。灯りの
少ない寮の裏庭で見上げる空には、満天の星だ。
「…アンドロメダのくもは さかなのくちのかたち」
低い声が歌った歌に、蓬生ははっと、今度こそ両目を見開く。
「…それ」
「…だろう?…ちがうかい?……星めぐりの歌を歌っていたんだと思ったけど」
「そのとおり、やけど…。…意外やね。榊くんがこっち方面得意やとは思わへんかったわ。
てっきり理系かと」
「宮沢賢治は好きなんだよ」
どこか面はゆそうに大地は告白する。
「意外と多いんだよ。理系の宮沢賢治好き」
せやろか、と否定的に問い返しかけて、蓬生はそれを呑み込んだ。
賢治の話によく出てくる題材は、星に鉱物、雪や風。…確かに、理系人間に響くテーマか
もしれない。
「…なんや。…はなから榊くんに聞いてみたらよかったんやね」
蓬生は手にしていた文庫本を、ぱさりと音をたてて閉じ、大地に手渡した。
「…何だい?…銀河鉄道の夜?」
「歌詞を忘れたのが気になって、思わず本屋で買うたんよ。…載ってへんかったけど」
ああ、と言って大地はぱらぱらと本を繰った。寮の窓からもれくる明かりで目次を確かめ
ているようだ。
「星めぐりの歌の歌詞が載っているのは双子の星だ。銀河鉄道の夜を収めた短編集に一緒
に入っていることも多いけど、残念ながらここには入っていないみたいだね」
大地は本を閉じて、もしよかったら、とやわらかく申し出る。
「双子の星が入っている文庫を持ってるよ。貸そうか?」
「いや、歌詞が知りたかっただけやから、もうええよ。…ありがとう、榊くん」
土岐が言うと、大地は夜目にもくっきりわかるほどきょとんとした顔になった。
「…何」
「…いや、土岐がしおらしいと調子が狂う」
「…何、それ」
「しおらしいし、おとなしいし」
少し呆れて、蓬生はまた目を閉じた。頭上で大地がぽつりとつぶやく。
「…調子が狂ったついでに、調子にのろうかな」
ふわりと髪の先が持ち上げられた。目を開かなくても気配でそれと蓬生は気付く。…彼は、
自分の髪に口づけたのだ。
「……榊くんは物知りやけど、キスする場所にも意味があるって知っとう?」
「……手の甲が尊敬、唇が愛情、…くらいは」
「髪の毛は?」
「…残念ながら知らないな」
だけど、…ここは知ってるよ。
髪の先を持ち上げられているために、蓬生のうなじは夜風に露わになっている。大地はデ
ッキチェアの上からかがみ込んで、その白い首筋に小鳥がついばむようなキスを一つ落と
した。
「首筋へのキスは、…欲望」
耳元でささやかれた低い声が、じわりと蓬生の体の中心に熱を集める。たまらず眉をひそ
めた蓬生を見てどう思ったか、大地はふわりと身を起こした。笑いながら、かすめるよう
なキスを最後に額に残し、
「額へのキスは、友情と祝福の意味があるそうだよ」
声の色がさっぱりと変わる。
「おやすみ、土岐。そろそろ夜は冷えるよ。早く中へ入ってあたたまるといい。…これ以
上、俺を調子に乗せないでくれ」
言って、とん、と蓬生の胸元に先ほどの文庫を載せ、彼はきびすを返した。
去っていく背中から、ひそやかな歌声が聞こえる。
「大ぐまのあしをきたに 五つのばしたところ」
遠ざかっていく気配。とぎれがちになる歌声。…それなのに、うすれるどころかなおもつ
のる体の奥の熾火。
蓬生もひそやかに唇を開き、歌う。
「小熊のひたいのうえは そらのめぐりのめあて」
誰も知らない二重唱は、線香花火の火花のように、闇の中にひらりと消えた。