星を見る人

一日の終わりに、宮の中を一通り歩いて確認するのが忍人の癖だった。天鳥船の時から変
わらない習慣だ。歩哨の兵に目配りし、怪しげな気配がないか確認する。
ゆるり歩いて広々とした前庭に出る。式典の時には人が大勢並ぶ場所だが、こんな夜には
誰もいなくて寒々しい場所。
……のはずだったが。
「……」
忍人はかすかに眉をひそめた。
前庭の真ん中にひょろひょろした影が一つ立っている。空を見上げている。ぶつぶつ言っ
ては手元の何かに書き付けをしている。
こつん、と、敢えて音を立てて一歩踏み出すと、影が振り返った。
「…おや」
場所のせいか、彼の小さなつぶやきは、思いがけず響いた。
こつん、こつん、こつん。音を立てながら忍人が歩いて近づく。
「何をしている、柊?」
彼は肩をすくめて空を指さした。
「星と月を見て、暦を数えています」
忍人も思わず空を振り仰いだ。降るような星。西の空に今にも沈んでしまいそうな細い三
日月。
「お前の仕事だったか?」
「仕事というわけではありませんがね。宮にはきちんと暦学を任じられた官人がいますか
ら。ただ、元々星の一族は暦を数えることで宮にお仕えすることになった一族ですから、
一応はそういうお訊ねにも答えられるようにしておかねば」
私の一族は皆、中つ国の滅亡と共に姿を隠してしまいましたから、一族の中で宮に残った
者として、一応の責任があるかと思いまして。
「まあ、いちいち人に確認するより、自分でわかっていた方が便利だからというのもあり
ますがね」
なるほど、月と星を見て簡単に暦が読めるなら、そういう考え方もあるかもしれない。
忍人がそう考えて小さくうなずいたときだった。
「…おや」
星を見る作業に戻っていた柊が、思いがけずという様子でつぶやいた。
「どうした?」
忍人が問うと、
「いえ、別に」
首をすくめる。
そのしぐさがいかにも忍人から事実を隠すかのようで、気になった。
「何か気付いたのでは?そういう声だった」
「ええまあ、一つ気付いたことがあるんですが、たいしたことではありません」
……そういう言い方をされると余計に気になる。
「…柊」
忍人はゆっくりと名を呼んだ。柊は困った顔…というよりは苦笑気味の顔で、彼よりもや
や背の低い弟弟子を見下ろした。
「…本当にたいしたことではありませんよ…と言えば言うだけ、君は気にするのでしょう
ね」
小さなため息をついて。
「…何でもないことです。星を見て、今日は自分が生まれた日だなと思い出したんです。
それだけですよ」
忍人は軽く目を見開いた。
「…生まれた日?」
「はい」
「…自分が生まれた日を、覚えているのか?」
「私が覚えているわけではありませんよ、いくら何でも。私だって生まれたばかりの時は
暦など読めませんでしたから」
…生まれてすぐに「今日は何月何日だ」と言いだす赤子がいたら怖い。
「私の一族は、宮に仕える者でなくても暦を読むことが出来ます。…私の母もそうでした。
幼い頃、星がたくさん流れた日に、お前が生まれた日も大きな星が流れた日だったと、日
付を教えてもらったのです。…それをふと思い出したんですよ」
ね、たいしたことではないでしょう?
言ってもう一度忍人に視線を向けた柊は、思いがけず難しい顔をしている彼を見て首をか
しげた。
「…どうしました」
「…今日か?」
「はあ?」
「お前が生まれた日というのは、今日なのか?」
「今日ですね。もうすぐ終わります」
「……」
忍人は一瞬考え込むそぶりだったが、すぐに軽く首を振って、
「まあしかし、それはそれでいいかもしれない」
とつぶやいた。
「…何のことです?」
愁眉を開いた後の、どこか満足げな忍人の様子が気になって、柊は問うた。しかし忍人は
目を伏せて首を横に振り、
「今日は冷える。余り遅くならないうちに引き揚げた方がいい」
とだけ告げて、そのまままた庭を歩き出した。彼の姿が玉垣の向こうに消えると、警邏の
兵が少し緊張してうわずった声で挨拶を返すのが、柊のところにまで聞こえてきた。…そ
れきりだった。

忍人の言葉の意味を柊が理解したのは翌日の昼前だった。
いつもの通り柊が書庫で静かに竹簡の整理をしていると、突然足音高く布都彦が現れ、
「お迎えに参りました」
言うが早いか柊をずるずると引きずって歩き出したのだ。
「何事ですか!」
聞き返しても、
「陛下の命です」
としか言わない。
「引きずらなくてもついていきますよ」
顔をしかめて柊は言ったが、布都彦は折り目正しく、
「いえ、決して手を放すなと、風早殿からのご伝言で」
…厭な予感がした。

果たして。
連れて行かれた場所にはすっかり宴席の準備が整っており、上座に無理矢理座らされた柊
は、隣に座った千尋から、昨日のうちに誕生日のことを知らせなかったことをさんざん責
められた。反対側の座を占めた岩長姫は問答無用で酒を注ぎ続ける。干さずにいると、「あ
たしが注いだ酒が飲めないのかい」と絡んでくるのがたちが悪い。酔ってもいないのに絡
めるのが師君のすごいところですね、と千尋の隣にいる風早が口の動きだけで言ってくる
ので、柊は思わず顔をしかめた。
この企みは忍人にちがいない。柊は彼にしか生まれた日のことを告げていない。風早です
ら知らなかったはずだ。
が、宴席を見回しても、忍人の姿はどこにも見当たらなかった。布都彦や那岐、遠夜、道
臣と、国元に帰ったサザキやアシュヴィンや夕霧達を除けば、仲間は勢揃いしているとい
うのに。忍人の腹心(というか従者)であるはずの足往まで、末席にちょこんと座ってい
るのにだ。
「忍人はどうしました?」
さりげなくにおわせるのが面倒で直接千尋に問うと、
「準備していたら、足りないっていう話になって。今捜しに行ってくれてるの」
「…足りないとは、…何が」
重ねて問うと、その問いには千尋は笑って答えなかった。

忍人が宴席に姿を現したのは、食事が終わって、皆が代わる代わる柊におめでとうを言い
に来ていた時だった。そして、彼は一人ではなかった。
「…アシュヴィン!」
どうやら彼の登場は千尋にも予想外だったらしい。目を丸くして立ち上がる。…というこ
とは、忍人の不在はアシュヴィンを呼びにいっていたからというわけではなさそうだ。
「心当たりを捜しても足りなかったので、アシュヴィンに手を借りた。…そうしたら、数
は多い方が良かろうと、彼が」
黒衣の皇子…いや、今は皇となって国を治める彼は、にやりと笑う。
「俺はさほどの腕ではないが、リブはなかなかのものだぞ」
「とはいえ、お役に立てますかどうか」
頭をかきながらリブが首をすくめる。
「ううん、わざわざありがとう、うれしいわ。これでええと、9面指しね」
………は?
ぽかんとしている柊を置いて、全員ががたがたと立ち上がる。今の今まで杯を空け続けて
いた岩長姫まで。
どうやら、自分以外は全員、事態を把握しているらしい。
「陛下、忍人、…いったいなにを」
こらえかねて声を上げた柊に、にっこりと花のように千尋は笑いかけた。
「お祝い兼罰ゲームよ」
「………はあ?」
「昨日柊がお誕生日だったって、今朝聞いたばかりで、とっさにお祝いを思いつかなかっ
たの。それに、昨日のうちに教えてもらえなかったことにもちょっと怒っているから」
だから、お祝い兼罰ゲーム。
笑いながら千尋は先に立って歩き出す。忍人に軽く背を押されて、柊はふらふらと彼女に
ついて行った。
誘われた部屋には、チャトランガの盤がずらりと並んでいる。にやにや笑いながら千尋と
柊についてきた面々が、悠々と一人ずつ盤の前に腰掛けていく。風早に忍人、那岐に布都
彦、道臣、リブとアシュヴィンと岩長姫と、…狭井君まで。
「多面指しよ。…柊は一手ずつ全員と指してね。相手はまたあなたが戻ってくるまで手を
考える時間があるってこと。それくらいの不利をつけないと、柊は強いでしょう?」
全員に勝てたら、何でも一つ、私があなたの言うことを聞くわ。
「でも、誰か一人にでも負けたら、柊がその人の言うことを聞いてね?」
「………」
柊は額を押さえた。
他の人間はともかく、そんな条件で風早が負けるわけがない。狭井君や岩長姫に微笑まれ
ながらちくりちくりと嫌みを言われつつ指すのも気が重い。リブとアシュヴィンの実力の
ほどは定かでないが、もともとチャトランガは彼らの国で生まれた娯楽のはずだ。
「…忍人」
条件はともかく、こんなことを思いつくのは千尋一人ではあり得ない。恨めしげに弟弟子
を睨み付けると、彼はふと笑った。
「たまにはこういう余興もいいだろう。…俺が勝ったら、ちゃんと一勝に数えてくれ」
「まさか、君、一度も勝ててないと私が言ったことを根に持って、こんなことを提案した
のではないでしょうね?」
「まさか。考えたのは陛下と風早だ。…もっとも、俺も一つだけ、意趣返しを組み込んだ
が」
「アシュヴィンを連れてきたことですか」
「いや、彼は想定外の指し手だ。そうではなくて」
彼はすっと、並んだ盤の端を、…狭井君が腰掛けている盤の前を指さした。
「狭井君に加わっていただくよう、お願いしたのは、俺だ」
「…………」
こわばった柊の顔を見て、忍人は少しだけうれしそうに笑う。
「さあ、始めましょう。私と遠夜と足往が審判よ。…柊、こちらから」
楽しげに声を張った千尋が指し示しているのも狭井君の盤だ。きっと初手から動揺させる
作戦なのだろう。
「…死んでも、君にだけは負けません」
捨て台詞を忍人に投げて柊はよろよろと歩いていく。聞こえてきた忍び笑いは風早だろう
か。
つまらなそうに、けれど少しだけにやにやしている那岐。
目をきらきらさせた布都彦は、こっそり道臣に入れ知恵してもらっているようだ。
布都彦の耳に何事かささやいていた道臣は、柊が通るのを見て一瞬言葉を切り、穏やかに
笑う。
道臣とどこかしら似通った笑みを浮かべたリブ。
那岐のこっそりしたにやにやとは違い、全力で楽しそうににやにやしているアシュヴィン。
樽を干すほどの酒を聞こし召しているはずなのに、いつものようにあっさりとした顔色の
岩長姫。
そして最後に、いつまでたってもどこか気まずい狭井君の前にたどりつく。彼女は毅然と
して柊を見てから、静かに視線を彼が前を通ってきた人々の方へ向けた。
「…表す形はどうあれ」
ふくふくと柔らかな声で口を開いた彼女は一瞬そこで言葉を切り、
「みな、あなたを大切に思っていますよ。…そのことを、二度と忘れないで」
静かに続けた。…語尾がたしなめる口調になるのが彼女らしくて、そのらしさに胸が詰ま
る思いがして、柊はこくりと一つつばを飲んだ。
「…肝に銘じます」
柊の言葉は、「はじめ!」とうれしそうに声を張る千尋の言葉に重なって消えたが、定跡
通りの初手を指した狭井君の口元が苦笑にゆるむのを、柊は確かに見た。