星の降る井戸

岩長姫の邸で学び始めてどれほどたったときだったろうか。
いつもぱきぱきと歯切れのいい烈女がふと、柊を眺めてぽつりもらした。
「…あんたは本当は、あたしのところよりも彼女のところに行った方が、力を出せるんじ
ゃないかと思うんだがね」
その場にいたのは柊だけだった。共に時間を過ごすことの多い羽張彦も風早もおらず、岩
長姫の傍で何かと代用を勤めていることの多い道臣も席を外していた。…だからこそ彼女
も、ぽろりとそんなことをもらしたのかもしれない。
「…彼女、とは」
柊が思わず口にすると、どこか慌てた様子で岩長姫は、ああいや、と首を振った。
「なんでもないよ。…一人言さ」
そうしてそのまま口を閉ざしてしまい、ぽつりともらした言葉の説明は何もせずじまいだ
った。柊も、師匠とそんな会話を交わしたことさえ忘れていた、そんなある日。

「ちょっとお使いに行っておくれ」
柊を呼んだ岩長姫はそう言って、竹簡とおぼしきものを包んだ布をあごで示した。
「はい、どちらまで」
柊は、てっきり自分が知っている場所に使いに出されるものとばかり思っていたが、岩長
姫はおもむろに中空に地図を指で描き始めた。
「三輪の里は知っているね」
「…はい」
「その里から山沿いに北へ行くと、狭井というこじんまりした集落がある。大きな一つの
邸を中心に、その邸に使われている者の家がくっついているといった作りだから見ればす
ぐわかるだろう。そこへ行って、邸の主に岩長姫からの信書だと言って渡してくれればい
い」
そこで一旦言葉を切って、彼女は何か考え込む様子だったが、
「この時期は在宅していることが多いはずだから、なるべく直接主に渡しておくれ」
と付け加えた。考え込む様子だったのは、相手方の状況を計ろうとしたからであるらしか
った。
「承りました」
素直にうなずいて、柊は包みを抱え込んだ。信書はさほど量がないと見えて、思いがけず
その包みは軽かった。

邸の場所はすぐわかった。岩長姫からの使いであること、主に直接渡すよう指示されてい
ることを告げると、やや年かさの、もののわかった風の下女は、穏やかにゆったりと一礼
して柊を中庭へ通し、静かに邸の奥へ消えていった。
通された中庭は、静かでよく風が通り、美しく整えられていた。植えられているのは優し
い花の咲く木々が多い。
この邸は女主人なのだろうか、とふと思う。
花が多いからといって、庭の持ち主を女性と決めつけることもないのだが、訪なってまず
出てきたのが女性だったことや、中庭に通されるまでの小さなしつらいや意匠が繊細で美
しいものだったことは、邸の主の性別に由来しているような気がした。
しつらいと言えば。
柊は中庭の中心に目を向けた。
井戸がある。この井戸もまた、独特のしつらいだった。
たいていの井戸は、単に石や木を周りに組むだけだ。石の大きさを揃えてあったり、なめ
らかな質感の石を選んで積んであったりすると、少し凝った作りだな、と感じる。がしか
し、ここの井戸は、きらきら光る小さな粒を内包する石を選んで井戸組がなされていて、
しかもその周囲や上方を美々しい竹の細工で囲ってあった。
その竹の細工も一風変わっている。普通にかごを編むと、籠の目は六芒の星になるものだ
が、この細工はそこをあえて五芒の星になるように工夫してあった。
どう編んだらこうなるのだろう。
柊がまじまじと細工を確かめようと少し井戸に近づいたときだった。

−−。

音が、聞こえた気がした。

何の音と言えばいいのか。水音ではない。風の音でもない。衣擦れや葉擦れの音とも違う、
どこか金属質な音。
柊はかすかに眉をひそめて、かすかすぎるその音の残響を探そうと耳を澄ます。意識は耳
に集中していた。
そのためだろうか。近づく人の気配に全く気付かなかった。
「その井戸が気になって?」
突然声をかけられて、らしくもなく柊は肩をふるわせた。
振り返ると、やや年配のふくよかな女性が、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
年格好は師君の岩長姫とおっつかっつか、少しこちらの方が年上かもしれない。
「…見事なしつらいですね」
別に悪いことをしていたわけでもないのに、なぜか悪戯を見つかった子供のような気分に
なって、柊はとりつくろうようにそう言った。
「…美しい竹細工で囲ってあるので、思わず編み方に見入ってしまいました」
「…空井戸なのですよ」
おっとりと女性は苦笑した。
「間違って使わぬよう、囲ってあるだけです」
「…空井戸、ですか」
確かにそうなのだろう。こう囲われては井戸としては使いづらい。…だが、ただの空井戸
にしては扱いが丁寧なように思える。
柊の物問いたげな様子を見た彼女は、
「拍子抜けという顔ね」
先ほどとは少し違う顔で笑った。意味ありげな。何かを孕んだような。
「…そうね、ごまかすのは止めましょう。この井戸はただの空井戸ではないのですよ」
一歩、二歩、井戸に近づいて、その竹細工を撫でる。
「この井戸は、星の井、というの。星が降る井戸とも呼ぶわ。……名前の由来は、かつて
この井戸で神託を聞いたからだそうよ」
柊の胸の奥で、何かがりんと震えた。
星。
その言葉に、彼が血を受けた一族を思う。膨大なアカシヤが綴られた竹簡の山。ほこりく
さい蔵。政の表舞台からは敢えて遠ざかって、アカシヤだけを守り続ける一族。
「その頃、この井戸とこの邸の主は私の一族ではなかったの。宮で預言を司ったある一族
がこの井戸を守っていたのだというわ。…けれどいつの頃にか、その一族は宮から姿を消
してしまった。この邸も、井戸も捨ててね。……それが、この井戸から神託が聞こえなく
なったからなのか、それとも別の理由なのかは、私には知るよしもないけれど」
女性は考えるそぶりで、右手の指をそっと唇に当てた。
「…前者の理由だろう、と、皆思っていたわ。宮からの命を受けて、私の曾祖父に当たる
人が井戸の守りを受け継いだけれど、井戸からは一度も何も聞こえてこなかったというか
ら」
少し伏せられていた目が、突然まっすぐに柊を見る。射抜かれるような眼差しだと、ふと
思った。
「でも、もしかしたらちがうのかしら」
静かではあるが、探るような声だった。
「もしかしたら、聞こえるのかしら。…あなたなら」
柊はまっすぐに彼女を見た。
星の一族は、表舞台から姿を消したとはいうものの、細々と宮と連絡は取っている。その
存在を知る人物もわずかながらいるはずだ。
この女性は、一族を知る人間なのだろうか。それとも何も知らずにただかまをかけている
だけなのか。
わからない。
わからないから、柊はわざとおずおずと笑って見せた。
「おっしゃっている話が、途中からよくわからないのですが。…聞こえる、とは?」
「………」
一呼吸、二呼吸、…沈黙がその場を支配した。
「……なんでもないのよ」
どこかそっけなくも聞こえる言葉をつぶやいて、彼女はまるで仮面を付け替えたかのよう
に、元の通りふっくらと笑った。
「ごめんなさいね、いらないおしゃべりをしてしまったわ。岩長姫から信書を持ってきて
くれたそうね。受け取りましょう」
包みを差し出すと、彼女はさらりと目を通して、ああ、やはり、と小さくつぶやいた。
「岩長姫のところに大陸の言葉を読める弟子がいると聞いていたの。あなたがそうなのね」
風早も少しは読み下すはずだが、一番よく読めるのは確かに自分なので、ええまあ、と、
とりあえず応じる。そのあいまいさを謙遜と受け取ったか、女性はかすかに苦笑した。
「優秀だと聞いていますよ。…宮の古い貢物の竹簡の整理をしているのだけれど、大陸か
らのものが多くてなかなか進まないの。……三日か四日でかまわないから、手伝いに来て
ほしいのだけれど、いかが?作業の間はもちろん、作業が終わってからも、あなたはうち
の邸も書庫も出入り自由、というのが報酬ではどうかしら。珍しい竹簡もたくさんあって
よ」
「…師君の許しがあるのなら、私に否やはございません。……が、…いいのですか」
「…何が?」
「出入り自由、とは」
女性はおかしそうにくすりと笑う。
「他でもないあの岩長姫の愛弟子を、怪しんだり疑ったりする必要があって?」
「……」
返す言葉に困って柊が口をつぐむと、女性はまた小さく笑った。
「お願いするわ」
「承りました」

以後、柊は狭井君を、岩長姫とは違う意味で師匠と仰ぐことになる。
星の井は柊に神託を使わすことはついぞなかったが、それが、星の井の知ることを柊がそ
のとき既にアカシヤの形で知っていたからなのか、それとも井戸から神託が聞こえるとい
うこと自体が事実無根のことだったのか、それだけは柊にもわからなかった。