星朧


春の空は、夜もぼんやりとかすんで、星明かりもどこかおぼろだ。

忍人は自室にと与えられた部屋を出て、中庭でぼんやりと空を見上げていた。
橿原宮を取り戻して十日余り。ようやくあたりは落ち着いてきた。人手をかき集め、とり
あえず二ノ姫の即位の式をする本殿と前庭だけでも修復をと、新しい営みに向けての様々
な再建が始まっている。
回廊をほとほとと歩いてくる足音が聞こえた気がして振り返ると、書庫の方からリブがこ
ちらに向かって近づいてきていた。忍人を認めると、その細い眼を驚きのためだろうか、
かすかに開く。
「…起きて、良いのですか」
忍人はかすかに笑う。
「皆して俺を、瀕死の獣か何かのように」
リブはその言葉に口元をゆがめ、
「我々は皆、重篤な状態の忍人殿を目の当たりにしていますから。……でもまあ、そんな
軽口がたたけるようなら、何よりです」
そう言って、再び瞳を糸のように細めた。
「ここで何を?」
「ずっと寝ていて身体が痛くなったので、少し起き上がりたくなっただけだ。…リブは、
…今、書庫の方から来たようだったが」
「ええ、…殿下が姫の即位式まではこちらでお世話になると仰っているので滞在させてい
ただいているのですが、どうにも手持ちぶさたで。…昼間は書庫の整理のお手伝いをして
います。そのときに、興味があるものは読んでいいと言われたので、少し物色させていた
だいていました」
「…俺は、取り戻された後の宮の書庫には立ち入っていないのだが、…何か良いものは見
つかっただろうか?」
「いえ、あいにく」
リブは、別に彼の責ではないのに、どこかしら申し訳なさそうな顔で首を横に振った。
「焼け残っていたものは、宮の様々な記録の竹簡がほとんどでした。兵法や技術を伝える
竹簡もありましたが、私が目にしたことのあるものばかりで、……今ならば、常世の書庫
の方が遙かに蔵書は豊富だと思います」
「…そう、か」
忍人は眉をひそめて首を振った。
「戦前は、師君の屋敷を遙かに上回る蔵書だったと聞いていたが、…残念だ。…失われて
からこう言うのもなんだが、その頃に宮の書庫に入って読む機会があればよかった」
それを聞いて、リブがかすかにこほんと咳払いをした。
「……では、…常世にいらっしゃいませんか」
「…?」
話の展開の意図がつかめず、忍人は眉を上げてまじまじとリブを見た。
リブは表情が変わらない。穏やかに笑ってみえる顔のまま、だ。
「申し上げましたとおり、今は常世の方が竹簡は豊富です。…知識を得たい、…あなたが
もしそう思われるなら、我らと共に常世にいらっしゃいませんか」
「…」
忍人は静かに笑って首を横に振った。
「そして竹簡を書写して中つ国へ戻す、と?……俺には荷が重い。柊や道臣殿の方が適任
だ。…行くなら、彼らが」
「それでは意味がありません」
リブは不思議なことを言った。
「殿下が得たいのは、彼らではなくあなただ」
「……」
リブの言葉の真意にようやく気付いた忍人の、気配がざわりと揺れる。
「俺に、……拠る国と王を変えろ、と?」
リブは無言だが、その沈黙は肯定だった。忍人は信じられないという顔で何度か首を横に
振る。
「…聞くが、君がもし同じ状況なら、その誘いに乗って君は王を変えるか?」
「……おや。…ご存じありませんでしたか?」
静かに、…あくまで静かに、リブはつぶやく。…その口元に薄く笑いをひいたまま。
「私はかつて、間諜として殿下の元に入り込んだのですよ。…が、殿下に惚れ込み、許さ
れて、今殿下の元で側仕えをしています。…言うなれば、私は元々裏切り者だ」
「……!」
忍人の驚きを見て、リブはいっそ心地よさげな顔をしている。
「もちろん間諜は望まぬ仕事でしたし、殿下にお仕えしたからには、あの方を裏切るつも
りはありません。…が、私がそう出来るのは、殿下の懐の広さあればこそです」
過去を思い出す瞳はなお細くなる。
「…あなたが殿下の元に来られれば、殿下はさぞお喜びになるでしょう。裏切り者などと
呼ばせはしますまい。…過去の私がそうであったように」
どこかうっとりとしたリブの表情を、忍人はじっと見つめて、
「……」
ゆっくりと静かに息を吐いた。
「君の事情はよくわかった。…だが、俺は常世には行かない。アシュヴィンを王と仰ぐこ
とを敬遠するわけではない。だが、何であれ生まれた国を裏切る形になることは望まない
し、何より俺は、二ノ姫が治める新しい国、新しい世界に期待している。…この目で新し
い国を見届けたい。そのためにこそ、この命が永らえた意味があると思う」
「…そうですか」
リブは静かにぽつりと言った。…そして。
「…そうですね」
語尾を変えてもう一度つぶやいたときには、彼はひどくさばさばした顔をしていた。
「わかります。…私も、殿下の許を離れるつもりはありませんが、二ノ姫がどういう国作
りをなさるのかは見てみたい気がしますから」
首を一つすくめる。
「…つまらないことを話しました。今の話はあくまで私の一存です。殿下は全くあずかり
知らぬこと、…どうぞ、含みを持つならば私一人にお願いいたします」
「アシュヴィンはもちろん、君にも含みなど持たない。…このような弱った身体にもかか
わらず、俺の力を買ってくれたことはありがたいと思う」
「…あなたは存外、優しい方ですね」
リブは小さく笑った。
「いや、存外という言い方は失礼ですか。申し訳ない」
「別に。…意外とか存外とか言われることには慣れている」
おやおやと笑ってリブは空を見上げた。

月はなく、夜空はぼんやりと霞む、……星朧。