星の薫物


窓の外からほんのりと良い薫りがただよってくる。
朝早くから一日中儀式儀式で追い回されてくたくただった千尋だが、常にはないその薫り
に誘われて、ふらふらと部屋を出た。
薫りはどうやら、昼の御座と呼ばれる政を行う正殿の方からやってくるようだ。
回廊をめぐり、正殿へと足を踏み入れると、人がいなくてがらんと広い部屋の真ん中に、
しゃがみこむようにして狭井君がいた。
手元からはうっすら細く立ち上る煙。…どうやらこの薫りの源はあの煙だ。
「何をしているの?」
問うと、驚いた様子もなくゆっくりと狭井君が振り返った。
「まあ、陛下」
静かにつぶやく。
「今日はもうお疲れで、自室に引き取られたと思っておりましたが」
千尋は小さく笑う。
「くたくたなのは確かです」
正直に言って首をすくめると狭井君は袖で口元を隠した。苦笑したらしい。
「でもとてもいい薫りがしたから気になって」
「…この薫りは、初めてでいらっしゃいますか?」
「……たぶん」
千尋は首をかしげた。初めてか、と狭井君が問うのは、子供の頃に覚えがないかという意
味合いだろう。前年は千尋が即位したばかりで中つ国にも余裕がなく、年中行事は省略省
略で進められてきたからだ。
かいだことはあるかもしれないが、正直覚えていない。千尋が曖昧な顔をしていると、狭
井君が察しよく会話を引き取った。
「お小さい頃は、姫様方は奥の宮の方にいらして表の正殿にいらっしゃることはございま
せんから、こうして間近で薫物を確かめられるのは恐らく初めてでいらっしゃるでしょう
ね」
頼りない煙が立ち上る。ゆらゆらと今にも消えそうだが、狭井君はとりたてて火をかきた
てたりしない。空薫きと言って、それとなくくゆらすのが作法なのだと後から聞いた。
「星の薫物と申します。……今日は乞巧奠(きこうでん)ですから」
千尋も乞巧奠は知っている。今日はそのために朝からずっと儀式に追い回されて、目が回
るような忙しさだったのだから。
この時期空で輝く男星、女星…。千尋の慣れた言葉で言うなら、七夕の牽牛、織女は、そ
れぞれ農事と裁縫機織りを司る神なのだという。そこで、里の人々は豊作を願って男星に
祈りを捧げる。これが出雲で見た夏祭りだ。
一方宮中では、女星に裁縫や機織りの上達、養蚕の成功などを願う祭りを執り行う。里と
は違って、宮中でことさら女星が尊ばれるのは少し不思議な気もするが、宮では、儀式な
どに凝った作りの衣装や複雑な織りの布を身につけることが多く、緻密な美しさを要求さ
れることが多い。采女たちの切なる願いに突き動かされ、少しずつ祭りが盛大に、こみ入
ったものになったのかもしれなかった。
「女星様は慎み深く勤勉な方ですが、今日は年に一度のお休みで待ちに待った逢瀬の日。
せめてこの日は心おきなく、どうぞ楽しくお過ごしになれますようにと、目を楽しませる
鮮やかな帳、耳を楽しませる音の良い琴、鼻を楽しませる妙なる薫りの空薫をお捧げする
のです」
なるほど、言われてみれば、室内には琴が据えてあり、美々しい五色の布がかけめぐらさ
れた几帳もある。
「琴は、あとで誰かが奏でるの?」
道臣も布都彦も琴の名手だ。競演すればさぞかしと思ったのだが。
「いいえ」
狭井君は微笑んで首を横に振った。
「琴は置いておくだけです。空音を男星様、女星様に楽しんでいただこうという趣向なの
ですね。几帳ももちろん飾っておくだけ。…ただ、この薫物だけは、一晩中絶やさぬよう
にくゆらせつづけます。そうすることで、私たちと星の神々をつなぎ、願いを聞き届けて
いただこうというのです。……そのためにこれを、星の薫物と呼ぶのですよ」
「……星の」
千尋の小さなつぶやきに、狭井君はふと、内心をのぞき込むような目をした。……わかっ
ていますよ、と言いたげな目だ。
「…そうです。これは元々、星の一族が執り行う秘儀でした。あの人達は星の声を聞いて
予言する一族ですからね。星に関わることは彼らの仕事だったのです。この薫物の調合も、
本来なら星の一族にだけ伝わるもの」
狭井君はそこで眉をひそめた。
「ですがあの人達は一斉に姿を消し、宮から離れてしまった。…予言はともかく、こうし
た行事は、執り行う人がいなくなりました、しかたがないのでやめましょう、というわけ
にはいかないので、見よう見まねで私が続けているのです。……私も星の一族ではありま
すが、幼い頃に一族を出されてしまったので、正直いって、余り秘儀については詳しくな
いのですが」
「星の一族の人達がどこにいったか、本当にわからないの?」
「ええ。…それがわかれば、こちらにも対処の仕様があるのですが」
眉をひそめたまま、ゆるゆると狭井君は首を振った。……確かに、彼女なら、居所さえつ
かめば一人二人ふんじばってつれてくる、くらいのことはやりかねない。
「……柊も、今はそこにいるんでしょうか」
「……」
狭井君は指先を唇に当てた。
「……私の勘ですが、陛下。…あの子は、一族と共にはいないでしょう」
千尋自身もそんな気がしていたが、狭井君がそう考える根拠を知りたくて、わざと不思議
そうに首をかしげる。
「なぜ、そう思うの?」
「…あの子の心は一族のところではなく、別のところにあると思うからです」
狭井君の目は伏せられてはいたが、静かに微笑んでいるような気がした。
「羽張彦と一ノ姫と共に出奔して、ただ一人戻ってきたときに思いました。何が起こって
どうなったのかはわからないけれど、この子は、戻ってこなかった羽張彦と一ノ姫のとこ
ろに心を置き去りにしてきたのだなと」
「……」
「その思いは今も変わりません。陛下達と戻ってきたときも、陛下には申し訳ないことを
申しますが、あの子の心は遠いままだなと感じました」
「……狭井君」
狭井君はようやく目を上げた。千尋に向かって一度にっこりしてみせてから、立ち上る煙
の行方を追うように天を仰ぐ。
「……きっと今頃どこかで一人、待っているのでしょう。……親友と認めた青年と、思い
焦がれ憧れた女性とに再び会える日を。……たとえそれが、今の身体が朽ちてからであっ
たとしても待ち続けるのでしょう」
いいえ、もしかしたら。
そう言いかけて、一瞬狭井君は言葉をつぐみ、呑み込むそぶりを見せた。が、千尋と目が
合い、千尋が促すように一つうなずくと、うなずき返して言葉を続ける。
「むしろ待っているのかもしれません。……今の身体が朽ちる日を。…朽ちて彼らの元に
行ける日を、待っているのかもしれません」
ため息をついて、狭井君はにこりと笑った。
「……陛下。私ももうこの年ですから、今更縫い物の上達を星に願おうとは思いません。
……ですが、一つだけ、星に願いたいことがございます」
「…?それは?」
「私の身体が朽ちる前に、もう一度、あの子の顔を見たいと思います。…見て、心ゆくま
で叱りたい」
ほほ、と袖で口を隠して笑ったが、…なぜかその笑顔は泣いているようにみえた。
「願いが叶うよりもおそらくは、私の身体が朽ちるのが先でしょう。……そもそも、私の
お説教を聞くためにあの子が宮に戻ってくるとも思えません」
「……狭井君、……でも」
「もし陛下が生きている間にあの子にお会いになることがあったら、……どうかお伝えい
ただけますまいか。……私が叱りたがっていたと」
それきり、また煙を追って天を仰いでしまう。……その様子は、うかうかと本心を話して
しまったことを悔いるかのようだった。だから千尋はもうそれきり何も言わず、ただ同じ
ように煙の行方を見上げた。
煙が星ではなく、柊に届けばいいのにと思いながら。