蛍の光


本を取ろうと伸ばした手が、一歩先んじた他人の手とぶつかりそうになる。蓬生ははっと
して、思わず手の持ち主を見た。
「あ、すいません」
すまなそうな声でつぶやいたのは、見知らぬサラリーマン風の男性だ。元々、彼が先に本
を取ろうとしたところに蓬生が手を伸ばしたのだから、彼がそんなにすまながることはな
いのだが、蓬生が驚いた様子を見せたので恐縮したのだろう。
「いえ、こちらこそ。失礼しました」
合わせるように丁寧に応対して、蓬生はそっとその場を離れた。
驚いたのは、手と手がぶつかりそうになったからではない。…彼の手が、大地の手に似て
いたからだ。
大地の手は、彼の体格に比例するように、縦にも横にも幅がある大きな手だ。彼の手で持
てば、小型のヴィオラならヴァイオリンと見間違うかもしれないと思うほどだ。節が目立
つ長めの指は、その大きさからややもすればおおざっぱに見えもするのだが、意外と器用
に繊細な作業もこなしてよく動く。
「……」
蓬生は小さく唇を噛んだ。
大地のことを思い出すとき、一番最初に頭に浮かぶのはその手だ。強い印象を残している
のには理由がある。


あの日、蓬生が蛍狩りに大地を誘ったのは、ほんの気まぐれだった。
いつも誕生日を一緒に祝ってくれる千秋が、今年はコンクールの覇者としてあちらこちら
から引っ張りだこになっていた。華やかな光の中にいる彼を自分に付き合えと連れ出すの
が忍びなく、一人無聊をかこっていたところに目に止まったのが、なにやら寮に届け物に
来て、帰るところの大地だったのだ。
蛍を見に行くからつきあえ、と、断られるのを承知で試みに誘うと、その日に限って裏を
危ぶんだりもせず、要らぬ口をきくでもなく、穏やかに笑って、お供するよ、と大地は言
った。
既に少し時季が外れているだろうと思いながらも足を運んだ蛍の里は、案に相違して、二
人がはっと息を飲むほど美しく蛍が舞いちがっていた。それなのに、やはり時季外れと思
われるからだろうか、蓬生と大地の他には人っ子一人いなかった。
「…」
あまりの美しさに、ぼんやりしてしまう。
蛍の乱舞に見とれていた蓬生の傍らで、ふと、ぱし、と乾いた音がした。
「…?」
我に返って振り返ると、大地が、
「蛍」
と笑う。
ゆるく握った左のこぶしからは、なるほど、緑色の淡い光がもれていて、弱々しいながら
も点滅している。
ぽかんとしている蓬生を見て、大地はまた小さく笑い、その眼鏡の前でぱっと手を広げて
見せた。
「……っ」
淡い光が、蓬生の顔でさえ簡単にひとつかみしてしまいそうな大地の大きな手を、一瞬照
らして逃げていく。
その手の大きさ。広さ。指の長さ。
……触れられたい、という欲が、ふと、わいた。

−…!?

自分の欲求に戸惑って、蓬生は思わずうつむいた。その動作を勘違いしたのか、大地はお
どけた声で
「驚いた?」
と問うた。
動揺を隠すため息は、呆れてついたものだとちゃんと勘違いさせることが出来ただろうか。
蓬生は表情を隠すために、わざと、いつものようにブリッジではなく、フレームの両端を
親指と中指でもって、眼鏡のずれをなおした。
「案外、野生児なんやな」
「よく言われるよ」
大地は朗らかに笑っている。
「都会っこのもやしと思われがちなんだよね。不思議だよ」
言いながら手を伸ばす。今度は音はしなかったが、ひゅっとしならせた手がまた蛍を捕ま
えたのは、その指の間からもれる光でわかった。
「こんなことくらいへでもないくらいには、腕白坊主だったんだけどね、子供の頃は」
「今は?」
問うてやると、大地はまた嬉しそうに笑った。
「今も、かな。悪戯大好きだしね。あまり変わらない」
いたずら、とつぶやいたとき、一瞬瞳が光った。察して逃げを打つ前に大地の手が素早く
伸びてきて、ゆるめた胸元に手が差し込まれる。
「…ちょ!」
「ははは!」
「ははは、や、ないわ!」
蓬生の服の中でかさかさしているのは蛍だろう。大地の手が、つかんでいた蛍を蓬生のシ
ャツの内側に放したのだ。閉ざされた空間から出ようともがく蛍の動きがくすぐったくて、
蓬生は眉を寄せ、身をよじり、恨めしい目で大地を見た。
「…っ」
目が合って、…その瞬間。
大地の瞳に宿る色に、蓬生ははっと目を見開いた。
大地の目は、欲情を必死に押し殺し、平静を装う目だった。押し殺し切れていない欲は、
寄せられた眉根が物語る。理性を保とうとして変に平板になった声が、
「きれいだよ」
とつぶやいた。
「蛍の光が布越しに光ってる。すごくきれいだ。…なんというか」
つ、と伸ばされた手に、逃げを打ちたいのを必死でこらえる。ここで逃げたら負けだと思
った。
「…そこに土岐の命の灯が光ってる。…そんな光だ」
「…阿呆なこと言うてんと、…出してや」
「……え?」
蓬生のたしなめる声に、大地は夢から覚めたばかりのようなぽかんとした顔になった。
「蛍。くすぐったいから。…早よ」
大地は戸惑うように眉根を寄せた。
「…俺が、…やっていいのかい?」
何を戸惑うのかはわからぬでもない。蓬生自身も戸惑いとためらいはある。だが、あえて
虚勢を張った。
「入れたんは君やろ。…出すところまで、責任持ち」
「…」
大地の顔に明らかな動揺がはしった。蓬生は素知らぬふりでそっぽを向く。
伸びてきた手は、先程とは打って変わっておずおずと胸元に潜った。何度か蛍を捕まえよ
うと試みて、しかし捕獲されたくない蛍に逃げられてしまう。捕まえ得ないうちに、蛍は
蓬生の背中の方に逃げてしまった。
「背中にいった」
「…悪い」
「はよ、出して」
「…でも」
大地は逡巡している。
「何」
「…このままじゃ、もう無理だよ」
訴える大地の目と、冷静を装う蓬生の目が、再びひたりと合った。
「…このままで、無理なんやったら」
蓬生は次の言葉をつぶやく前に、舌でそっと唇を湿した。
「出せるように、したらいいやん」
どこか放り出すような投げやりさで言って、適当に結んだだけのネクタイを、しゅ、と音
を立てて襟元から引き抜いた。
そうして、うっすらと笑う。
「…あとは、君がやるんやで、…榊くん」
大地の瞳にうごめく欲を、どこか心地よい気持ちで蓬生は見た。伸びてくる大きな手が、
片方は自分の胸元でボタンを外して衿をゆるめ、もう片方はそのゆるめられた胸元から背
中へと回る。
抱き込まれた腕に身を委ねて、蓬生は、背を探る手の愛撫に酔った。それは本当は愛撫で
はなく、逃げた蛍を捕まえる動きのはずだが、…もうそんなことはどうでもよかった。大
地の手は大きくて、あたたかくて、…ひどく心地よくて。
酩酊するような感覚に、蓬生はやがて、我を忘れた。


「…」
はあ、と小さく息をつき、蓬生は頭を一つ振った。よみがえった記憶は蓬生の身体を熱く
している。気をそらせるために探ったポケットの中、手に触れた携帯にふと思いつき、蓬
生は書店を出てショッピングモールのベンチに陣取り、添付ファイル付きのメールを一つ
送った。
五分と立たないうちに携帯は震えた。メールかと思ったら着信だ。
「もしもし?」
笑いをかみ殺しながら電話に出ると、
「やあ」
どこかぶっきらぼうな声が挨拶を返す。
「メールの返事が電話やなんて、律儀やね」
「意味を問い合わせようと思ってね。…なんだい、あれ。…蛍の光?」
メールに添付した音楽ファイルのことだ。大地の言うとおり、蓬生が送ったものは以前卒
業式のために練習して録音した『蛍の光』のヴァイオリン演奏だ。
含み笑いで蓬生は言った。
「卒業おめでとう」
「……それだけ?」
「…ふふ」
「土岐」
「…また、遊んだげよか?……夏になったら」
ひゅっ、と、大地が息を吸った。夏と、蛍と、遊び。……暗喩に気付かぬ彼ではないだろ
う。
「……夏になるまで、待てないって言ったら?」
「…こらえ性ない子も、嫌いやないよ」
…おいで。……待っとう。
囁けば、低く静かに諾と応じる声。
じわり、心の底に灯る火は、蛍の青い冷たい灯ではなく、赤く熱く、未ださめやらぬあの
夏の埋み火。