方位磁石

第一印象は、気まぐれ、だった。
一目見ただけでそう思ったのは、おそらくその目のせいだったろうと思う。くるくると表
情を変える瞳は、猫のそれを思わせたからだ。
…彼がただの猫ではなく大型肉食獣であり、単なる気まぐれではなくかなりのわがままな
のだと印象が変わるまでに、さほどの時間はかからなかった。だが、不思議と嫌いにはな
れなかった。一つには、王族なんてこんなものだろうという達観もあったが、よく観察し
ていると彼は意外と部下思いで、細かいところによく気がついているとわかったからだ。
仕えるのは楽ではないが、周りから思われるほどにはつらくもない、と思い始めた矢先。
…世界が回転した。

リブの趣味は発明だ。時間さえあれば、思いついた考えを形にするべく部品や設計図をひ
ねり回す。アシュヴィンの側近となってからは、あまりその時間はとれなかったが、今日
は彼が昼寝をするから邪魔をするな、と自室に入ってしまったので、これ幸いと久しぶり
に作りかけの部品を引っ張り出したのだった。
窓を開け放つ。今、光が差し込んでくる方角が、真南のはず。……となると。
リブの手の中で、ふらふらしていた金属の板が、ひたりと方向を定めた。
「…うん、ちゃんと北を向く」
理屈は通っているようだ。だが、動きが鈍い。
「…少し、重いのかな」
もう少し薄く、軽くしてやれば、すぐに方角をぴたりと指すだろうか。
「方角を定めるのに余り時間がかかるのでは、使い物にならないし、…どのみち重くても
不便だし」
いっそ板ではなく、針にしてみようか。その方が…と、リブが机に向き直り、やすりを取
り出したとき、
「…なんだ、それは」
突然声をかけられて、リブは飛び上がった。
「……!!!」
どきどきする胸を押さえて振り返ると、
「で、殿下!?」
後ろからのぞき込んでいたのはアシュヴィンだった。
「ひ、昼寝をなさっているのでは?」
「突然目が覚めて、…目が覚めたら眠れなくなってしまった」
「お呼びいただければ私から伺いましたのに」
「昼寝の邪魔をするなと采女も下がらせていたのでな」
あわてるリブの問いかけにさらりさらりと応じて、彼はにやりと笑った。
「…何をそんなにあわてている?…なにか、俺に見られてまずいものでもあるのか?」
「いえそんな」
どきりとしながらリブは大きく首を横に振った。
「手の中の、それはなんだ」
「方角を指す道具です」
「……方角?」
アシュヴィンの雰囲気が変わる。意地悪な主君の仮面をかぶっていたのを、急に脱いだか
のように見えた。
「方角を指すとはどういうことだ」
「殿下は、磁石をご存じですか」
「…じしゃく。…ああ、砂鉄をくっつける石か」
「はい。これは磁石です。磁石を板にして、真ん中に穴を開けて芯を通し、回るようにし
てやります。…すると、何故か必ず同じ方角を指すのです」
このように、と言って、リブは試作品を手のひらの上にのせた。
リブの手のひらの上で、しばらくふらふらしていた板は、やがてふらふらしながら一直線
に北と南を指し示し、ぴたりと動かなくなった。
「…これは、お前の手妻ではないのか?」
「ちがいます。…私は手妻が出来るほど器用ではありません」
「ふうん」
アシュヴィンの瞳がきらきら輝き始める。
「これはどこを指している?」
「北です。夜空でいつも動かない星が一つだけございます。必ずあの方角を指すのです。
ですから、これを上手く使えれば、星の出ていない夜でも、雨の日でも、自分がどちらを
向いているのかがわかるようになります」
「おもしろいな。…これは誰が作ったんだ」
興がのってきたのか、アシュヴィンは行儀悪く机の上にぽんと腰を下ろした。手を出して、
リブから試作品を奪ってひねりまわす。
「私ですが」
「お前が?」
アシュヴィンはなぜか、射るような目でリブを見た。リブは思わず首をすくめる。その様
子をじろじろと眺め回していたアシュヴィンは、やがてぽんと膝をたたいた。
「…やっぱり気に入った。…リブ、お前、俺につけ」
「………は?」
リブはぽかんと口を開けた。
「…つけ、とおっしゃられましても…。…私は既に、殿下の部下でございますが」
「隠さなくてもいい」
アシュヴィンの声が、すっと低くなった。…獲物を捕らえた瞬間の虎のようだと、…リブ
は思った。
「…お前、父上の間者なのだろう」
「……!」
血が凍った。
微笑んで、ごまかすのは得意だった。…平気な顔で他人を裏切ることも出来た。だから、
間者として生きてきて、今まで見破られたことなどなかった。見破られたとしても、笑顔
と口先で言いくるめる自信があった。
……それなのに。
おそらく、笑顔は顔に張り付いているだろう。だが、声が出ない。
「思ったよりどんくさいな、リブ。…言い訳の一つもしてみせればいいのに。…もっとも、
どんな言い訳をしても無駄だがな。…来たときからわかっていた。お前は父上の間者だと」
けろりとした顔でアシュヴィンは言う。
「父上が選ぶのか、父上の周りの人間が選ぶのかは知らんが、父上が差し向けてくる間者
はいつも似ている。笑顔が地顔で、周囲にぼうっとした印象を与える。だが、話せば頭の
切れる奴だとわかる。……お前もそうだった」
「………」
リブは、口を開けたり閉じたりした。まだ声が出ない。アシュヴィンは、リブが聞きたい
ことは全てわかると言いたげに、言葉を継いだ。
「気付いていて、なぜ追い出さなかったか、というのか?…別に、父上に知られて困るこ
とをしているわけではないしな、『今は』。それに、お前を追い出したところで、また別
の奴が送り込まれてくるだけだ。それがお前よりましとは限らない」
お前は、父上が送り込んできた中では、かなりましな方だった。だから放っておいたし、
側近にも重用した。
そこで突然、アシュヴィンはこら、と人差し指でリブの額を突いた。
「そろそろ立ち直れ。気付かれていたのがそれほど驚いたか?話が進まないじゃないか」
つつかれて、ようやくリブの喉から声が出た。
「…話…とおっしゃいますと」
「言っただろう」
アシュヴィンはやれやれと肩をすくめる。
「俺の側につけ。…寝返れ、と言っている」
「………」
リブが答えられずにいると、
「……父上に義理立てするのは、命の無駄遣いだ」
また低い声でアシュヴィンが言った。
「…数年前にも一人、気に入った奴がいた。…俺はそいつにも、俺の側に付くように言っ
た。だがそいつは、二君にまみえては間者として失格だと訳のわからんことを言って、父
上の元に戻って、……処分された」
………処分。
「父上は、裏切ろうが裏切るまいが、役に立たなくなれば切りすてる。お前はもう俺に間
者とばれているから、父上にとっては既に役立たずだ。戻れば、…かつてのあいつのよう
に、処分されるだろう」
アシュヴィンは少し苦しそうな顔で言った。…処分された彼が話すその人物は、かなり気
に入っていた側近だったのかもしれないと、ふと、リブは思った。
「だが俺は、お前が役立たずになっても、俺を裏切らない限りは見捨てない。……どちら
が分のいい雇い主か、考えてみろ。……ああ、それと。おもしろそうな発明を思いついた
ら、資金提供もしてやろう。そんなちっぽけな試作品をひねりまわすだけじゃなく、もっ
と大きいものも作れるぞ」
「……」
黙りこくるリブに、ふ、とアシュヴィンは笑った。
「…即答はできんか。…まあいい、考えておけ」
まるで悪戯小僧のように机からぽぉんと飛び降りて、アシュヴィンは、邪魔をしたな、と
戸口へ向かう。…その背中に、リブは声をかけた。
「……殿下」
アシュヴィンが背中を向けたまま、顔だけ振り返る。
「何だ」
「…殿下は、…私が裏切らないと、お思いになりますか?」
本当は、私を信じられるのですか、と聞きたかった。だが、信じるという言葉を使うのは
どうにもおこがましい気がして、口に出来なかった。
「……さあ、どうかな」
アシュヴィンはくるんと肩をすくめた。……そして突然向き直り、つかつかとリブのとこ
ろに戻ってきて、その胸をとん、と突き、…まるでリブの心を読んだかのような言葉を口
にした。
「……ただ、お前が信じてほしいなら、俺はお前を信じる。……それに」
にやりと笑う。
「…お前、もう結構俺のこと気に入っているだろう?」

…世界が、回転した。

気付けば、リブは膝をついてアシュヴィンに恭順の意を示していた。アシュヴィンはゆっ
くりとそのリブに近寄り、昂然と言った。
「…立てよ、リブ。…俺に付くからには、止まっている暇などないと思え」
傲慢とも聞こえる言葉だったが、なぜか、そんな言葉一つにさえ酔わされている自分がい
る。
……これが、彼の力だ、と思う。この王にこそ、自分の力を捧げたいと思わせる。
「元より、承知です」
立ち上がりながら言うと、は、とアシュヴィンが破顔一笑した。
「確かにな。お前が来てから、働かせずくめだった。…だが、これでも加減していたんだ
ぞ。お前には、父上にばれて困ることは見せられないからな」
……ああ本当に、最初からばれていたのだなとリブは苦笑する。
「これからはもっと忙しくなる。…覚悟しておけ」
「御意」
リブは低い声で言って、…茫洋とした笑顔の仮面で顔を上げる。
アシュヴィンはまた笑った。……それでいい、と低い声がかすかに聞こえた。

磁石が、振れる。
……夜空にただ一つの動かない星に向かって、針が振れ、…定まり、……全ての世界が回
転する。
…あなたただ一人が、ぶれない軸。