春爛漫

羽張彦は声が大きい。動作もおおざっぱなので物音をたてることも多い。だから、忍人に
柊の捜索を依頼しにくる人間はいても、羽張彦を捜してほしいと頼みに来る人間はほとん
どいない。どこに彼がいるか、音でだいたいわかるからだ。
だが、その日は違った。
「忍人、羽張彦を見かけませんでしたか?」
朝からなんとなく気ぜわしそうな道臣が、内廊で通りすがりに声をかけてきた。忍人は足
を止めて礼儀正しく向き直り、首をかしげる。
「…見かけません」
「…やはりそうですか。…声も聞かないし、足音もしないし」
道臣は首をひねる。
「邸内ではなく外に出たのでは?」
「かもしれませんが…」
道臣はなんとはなし、歯切れが悪い。忍人がじっと見つめると、はっとその視線に気付い
た様子で、実は、と話し出した。
「今日は、師君の所領から筍が届く予定になっていたので、運ぶのを手伝ってほしいと羽
張彦に頼んでいたのです。…もしも用事があるならそのときに言うでしょうし、急用がな
いときに約束を違えて出かけてしまう人間ではないので、少し気になって」
確かに、それは少し妙だ。
「荷はもう届いたのですか?」
「ええ、先ほど届きました」
「…では、俺が」
荷を運ぶのは、羽張彦でなければできない仕事というわけではない。だが、道臣一人では
手が足りないだろう。
道臣は少し目を見開いた。
「ありがとう、忍人。…でも、重いですよ?」
言われて思わず忍人はむっとした。それを見た道臣は優しく笑む。
「…失礼しました。…ではお願いします、忍人。前庭に積んであるので、みな厨に運んで
ください」

道臣の指示通り、忍人は筍を抱えて厨に向かって歩き始めた。
一度目は何も気付かなかった。…が、二度目に筍を抱えて厨に向かっている途中、…ふと、
重く、けれど乾いた風が吹いた気がした。
「…?」
忍人は足を止める。
…これは、書庫の匂いだ。誰かが書庫の扉を閉め忘れているのだろうか。
気になって、筍を厨に届けた帰りに、書庫をのぞきに行った。
やはり扉は開いている。…閉め忘れかといったんは扉に手をかけた忍人だったが、人の気
配に気付いて手を止める。
「…誰かいるのか」
よく通る声で誰何すると、ややあって、…しーっ、とひそめた声が返ってきた。
「…っ」
忍人は、その声にはっとなって、あわてて書庫の奥をのぞき込む。あかりとりの窓の下、
書見台がある辺りに人影が見えた。
「…羽張彦?」
声をかけると、またしぃっとたしなめられる。
忍人は足音をしのばせて書庫の中に入っていった。
書見台の傍らの床で、羽張彦が膝に柊の頭を載せて座り込んでいる。
「…そこで何をしているんだ?」
見てわからないか、と羽張彦は肩をすくめ、何をしているかの代わりにどうしてこうなっ
たかを話し始めた。
「昨日から読んでいた戦術書にわからないところがあって、朝から柊に教わっていたんだ
が、…俺が考え込んでいる間に、気付いたらこいつ寝ちまってて」
羽張彦に指さされた柊は、眉間にしわを寄せながら寝息をたてている。
柊の眉間にしわを見るのは初めてかもしれない、と、どうでもいいことを忍人は観察する。
「…疲れているみたいだ。最近、夜が遅い。寝所に帰ってこないこともある。…何を調べ
ているんだか」
羽張彦は心配そうに柊をのぞき込んだ。
「せっかくだから、もう少し寝かせてやろうと思う。…だから、静かにな、忍人」
こくん、と忍人はうなずいた。肩のあたりで切りそろえた髪がふわりと揺れる。…その時
だ。
寝ていたはずの柊が、むむむと赤子がむずかるような声を出し、
「…たけのこ…」
とつぶやく。
「…たけのこの匂いがする…」
どうやら忍人から匂いがするようだ。自分ではわからない。忍人はくんくんと鼻をうごめ
かせてみた。
「…たけのこ……?」
羽張彦はきょとんとした。…それから眉を寄せる。…何かが引っかかる、…そういう顔に
なって、…そして。
「うああああああっ!!」
突然大声を出して立ち上がった。…ごちん、と、柊の頭が床に落ちる。
「…」
忍人は額を押さえた。柊は完璧に目を覚ましたものの、何が起こったかわからない様子で、
「…痛い…」
と後頭部をさすっている。
「…何ですか、羽張彦…」
「俺、…今朝、道臣に、筍がくるから運ぶのを手伝えと言われていたんだ…!……も、も
しかして、忍人…?」
こくん、と忍人はうなずいた。
「もう届いてる」
「しまった……!!!」
うわあ、とおおげさに頭を両手で抱え込んでから、はたと。
「あ、悪い、柊。…痛かったか?」
「……」
柊はぽりぽりとこめかみをかいた。
「…何が何だかよくわかりませんが、とりあえず道臣のところに行くんでしょう。…私も
行きますよ。忍人は?」
「元々俺は、道臣殿の手伝いの途中だった」
「ええっ!?…す、すまん忍人、俺、急いで行ってくる!!」
言うが早いか、ぴゅー、と音がしそうな勢いで羽張彦は行ってしまった。
「…一緒に行くと言っているのに」
柊はむっつりした顔で言う。
「まあ、ゆっくり行こう。…どうせ、筍を運ぶよりも、運び終わった後の皮むきの方が人
手がいる」
「…なるほど、確かに。…では、力仕事は羽張彦に任せて、私たちは厨に行きましょうか。
…ああ、せっかくいい夢を見ていた気がするのに、目が覚めてしまったらきれいさっぱり
忘れてしまった」
ぶつぶつと言いつのる柊に、忍人は少しだけ笑う。
「…また、羽張彦に膝枕をしてもらえばいい」
柊は忍人を振り返ってまじまじと見つめた。
「…膝枕、…されていたんですか、私は」
「そうだ」
「…そうですか」
頬をかく柊は、困っているというよりは照れているように忍人には見える。
「…どうりで、夢見がいいはずだ」
つぶやく唇についに微笑みがこぼれた。…つられて忍人も笑う。
忍人には、柊は時々理解できないところがある。でも、羽張彦と一緒にいるときの柊は、
なんだかいいな、と忍人は思う。

春の日差しがうらうらと中庭にさしこんでくる。若竹の匂いと辛夷の花と、かすむような
光とほっこりあたたかい風。
岩長姫の屋敷の春は、今が爛漫だった。