藤の花開く

細い長い茎の先に、薄紫の小さな花がひらひらと揺れている。
千尋はしゃがみこんでぼんやりとその花を眺めていた。
この花にもきっと名前はあるんだろう。でも私はその名前を知らない。
それはこの花が、桜や椿のように、はっと人目を引く花ではないから。人目を引いて、「あ
の花はなあに?」と子供でも問う、…そんな花ではないからだ。
小さくついたため息は、目の前の花を揺らす前にどこかへ消えた。
庭の中は静かだった。
橿原宮の後宮は複雑に入り組んで、広い。戦乱の最中で宮は焼けたが、燃え尽きてしまっ
たのは主に公務の場の方で後宮には余り被害は及ばなかったらしく、千尋が子供の頃見つ
けた隠れ場所がそのまま残っているところも多かった。もちろん、大きくなった今の千尋
では隠れきれない小さな隠れ家がほとんどだったが、たまにこうして、今でも隠れていら
れる場所がある。
ここはもともと、宮の中でも比較的身分が低い采女たちが住んでいた建物に面した庭だ。
采女の数が減った今では、皆もっと広い部屋のある大きな建物の方に暮らしていて、この
小さな部屋が連なる建物には誰もいない。建物に比例して庭もごく小さく、そう美しく整
えられていたわけではなくて、ほんの体裁程度に花の咲く木を何本か植えただけ、という
作りだった。
それでも昔は、木々も花もきちんと世話する者がいて、それぞれの季節ごとに美しく庭を
彩っていたはずだが、今はもうすっかり荒れてしまって地面は生命力の強い草で覆い尽く
されている。だから、千尋の目の前で今揺れている花も、雑草、とくくられるべき花なの
かもしれない。
「ごめんね」
千尋は小さな声でつぶやいた。
「こんなにかわいい花なのに、私はあなたの名前を呼んで、花の美しさをほめてあげるこ
とが出来ない」
「…人の付けた名など、その花自身には意味がないと思うが?」
「…!」
一人言に思いがけず返事が返ってきて、千尋は言葉通り飛び上がるほど驚いた。
がば!と振り返ると、腕組みをした黒ずくめの青年が、生真面目な顔で立っている。
「忍人さん…」
どうしてここに、と問おうとした千尋の機先を制するように、忍人は自ら口を開いた。
「采女が十人いて、風早一人に出来ることが出来ないんだな」
「…え?」
千尋がぱちぱちと瞬くと、しゃがみ込む彼女の前に片膝をついて腰を落とし、視線を合わ
せてほんのかすか、忍人は笑んだ。
「朝の政務を終えて自室に戻ったはずの君が、昼の政務の時間になっても出てこない、部
屋には見あたらないと、君付きの采女たちが兵舎や玉垣のあたりにまでおろおろと捜しに
出ていた」
そこで一旦言葉を切って肩をすくめ、
「もっとも、それを聞いてすわ陛下の一大事と、人員を総動員して君を捜しに出ようとし
た官人や兵達も、似たり寄ったりの無能さだが」
無能、とばっさり言い切るところが忍人さんだなあ、と、千尋は、そんな場合ではないの
に吹き出しそうになった。笑いをこらえるために口元に手を当ててふと、我に返る。
「…も、もしかして、今、宮中総出で私を捜しているってことですか…?」
あわあわひー、という顔になった千尋を見て、忍人は今度は、くく、と声を出して短く笑
った。
「そうなりかねないところだったが、俺が止めた。陛下お一人を捜すくらい俺一人で十分
だから、各自、己の仕事に就くように、と言ったら、皆我に返った顔になって、さわさわ
と仕事に戻っていった」
状況を思い出したのか、忍人は笑顔を収めてため息をついた。
「君の不在で冷静さを欠いたのだろうが、あんな状態では、目の前に君がいても見つけら
れなかっただろう。現に俺は、捜し始めてすぐに君を見つけた」
やや憂いにかげった瞳は、千尋のそれを覗き込むときだけ、慰めるような色をした。
「…主の不在一つで、こうもたやすく冷静さを欠くのは困ったものだな。兵の教育につい
ては俺も少し考えよう。采女や官人については、狭井君に話してみる」
言って、さっと立ち上がる。
「…行こうか」
千尋は一瞬、差し出された手につかまって共に立ち上がることをためらってしまった。そ
のそぶりを見て、忍人はかすかに首をかしげる。
「…陛下?」
「…怒らないんですか?」
千尋はおずおずと顔を上げ、忍人の瞳を見た。
「彼女たちが冷静さを欠いたのは、私が、…その」
じっと自分を見つめる忍人の瞳が、とろり、まろみを帯びたように思えた。
そして、口ごもる千尋の語尾を救うかのように、彼はそっと、
「急ぎでないとはいえ、君が政務を忘れるとは、珍しいこともある」
と言った。
ああ、…さぼったことをそういう言い方で許してくれているんだ。
そう気付いたら、無性に千尋は全てを吐き出したくなった。
ぶん、と一つ大きく首を横に振る。
「忘れたんじゃありません。…私、…逃げ出したんです」
一旦立ち上がった忍人は、再び千尋の前に膝をついた。大人が小さい子供にするような仕
草だ、とふと思ったけれど、今は、珍しいその優しさに甘えたかった。
「…忍人さんは、…私の姉様のこと、知ってますか?」
「まあ、…それなりに。…何度か師君の屋敷にいらしたこともあるから」
忍人は少し眉をひそめたようだったが、応じる声は穏やかだ。千尋はうつむく。
「…今ここにいるのが、私じゃなくて姉様だったらいいのにと思ったことは、…ありませ
んか」
「………」
ふっ、と、…何とも言えない沈黙が降りた。千尋はぎゅっと目を閉じる。
次に忍人が何を言うか、…呆れられるか、それとも肯定されるかと、断罪されるような気
持ちで身を固くしていると、
「ふ」
頭上から落ちてきたのは小さな笑い声だった。
「…?」
あっけにとられて千尋は忍人を見上げた。彼は口元に左手の指の節を押しつけ、笑いをこ
らえているようだったが、見下ろして千尋と目が合うと、真面目な顔になった。
「…姫」
どきりとする。
千尋が即位してから、ただの一度も姫とは呼んだことのない忍人だった。親しみをこめる
時は「君」と呼びかけ、公の場では必ず「陛下」と敬う彼が、自分のことをあえて「姫」
と呼ぶ、その意味を千尋が計りかねていると、
「君のその問いに答える前に、見せたいものがある。…ついてきてもらえるか」
「…え?…え、でも私、…仕事放り出したままで」
「足往を狭井君と師君のところに走らせる。それに、そんな顔のままでは仕事もはかどら
ないだろう」
…私、どんな顔をしているんだろう、と、千尋は思わず頬を押さえた。
「行こう」
ただ、差し出された手を今度は素直に取れる。立ち上がった千尋を見て、忍人はすぐ身を
翻したので、彼がどんな顔をしたのか、千尋には見えなかった。

いざなわれたのは、宮からさほど離れていない山すその集落だった。大きな街道からは外
れているので、千尋は初めて来る場所だ。伯父の所領が近いので自分はよく通りかかる場
所なのだと説明しながら、忍人は集落を通り抜け、山道に少し分け入る。さほど進まぬう
ちに、千尋は息をのんだ。
「……!」
見事な藤の木が花を咲かせていた。八分咲き、といったところだろうか、満開にはまだ少
し足りないようだが、十分に見応えがある。
「まだ少し早いかと思ったが、結構咲いているな」
ぽそりと言う忍人を振り返って、千尋はこくこくとうなずいた。
「とても、きれい」
少しおもしろいのは、普通の薄紫の花と白い花とが混じり合って咲いていることだ。木は
一本しかないように見えるのだが。おそらく忍人も、それを見せたくてここまで連れてき
たのだろう。普通の藤なら、宮中の庭にも咲いている。
「二色咲きなんですね」
千尋が思わずつぶやくと、忍人は根元の方を指さした。
「一本に見えるが、本当は二本なんだ。絡まり合って伸びているうちに幹が癒着したのか
もしれない」
よく見ると、なるほど確かに木は二本だ。まじまじと根元を見てから、千尋はまた花を見
上げた。ほろり、開いた花はまるで蝶のようだ。
ぼんやりと花を見ていると、忍人がまた「姫」と呼びかけた。千尋はどきりとして、忍人
を振り返る。
忍人は真面目な顔で、こう問うた。
「紫の藤と白い藤、…どちらが美しいと思う?」
それは思いがけない問いで、千尋は思わず目を丸くしてしまった。
「…ええと」
忍人から目をそらし、再び花を見上げる。風に揺れる二色の花は、どちらも甲乙付けがた
く美しい。
「…紫の花は艶やかだし、白い花は清々しくて、どちらもきれいです。……どちらが、な
んて決められない」
これで答えになるかしら、と、おずおずと表情をうかがうと、忍人は何故かほっとした顔
をしていた。千尋の探るような目を見て、ふわり、唇に笑みをのせる。
「俺もそう思う」
それから千尋から少し目をそらし、彼も花を見上げた。
「先の君の問いも、…今の俺の問いのようなものだ」
………!
「君も、一ノ姫も、どちらも姫として立派な志を持っておられる。一ノ姫がああいう形で
国を守られたことも、君があの戦いでこの国を守りきったことも、どちらがどう、とは言
えまい」
再び忍人の視線が千尋に戻ってきた。…少し熱を帯びたその瞳にどきりとする。
「君を王に戴くことを、俺は心から誇りに思っている」
千尋は小さく鋭く息をのみ、両手を口に当てた。
忍人は嘘をついていない。元より嘘がつける人ではないし、言葉と視線の熱が何より雄弁
に彼の本気を語っている。
泣き出しそうなくらい、うれしい。
…それと同じくらい、素直に彼の言葉を受け取れない自分が情けない。
「…だって」
こらえきれず、思わず子供のように千尋はもらしていた。
「………だって、…姉様を知る人は、…皆」
一ノ姫がここにいれば、という顔をするのだ。あるいは陰でそう言うのだ。
それを言わないし、そぶりも見せないのは岩長姫と狭井君くらいだ。だが老獪な二人だか
ら自分がそれを見抜けないだけではないかという気もして。
日々の小さな陰口が自分の中で澱のように積もり積もって。誰にも言えなくて。
忍人はさすがに困惑した顔で千尋を見ていたが、やがて思い切ったように一歩近づき、お
ずおずと言った。
「こらえるより、一度泣いた方がすっきりすると思う」
その一言がとどめだった。
ひとしずく涙がこぼれたら、もう止められない。千尋は堰を切ったようにわんわん泣き出
した。忍人はしばらく手を出しかねる様子だったが、やがてそろりと千尋の髪を撫で、泣
きじゃくるべちゃべちゃの顔をそっと自分の肩に預かった。
「……幼い頃から帝王学を施されてきた一ノ姫とそうでなかった君とを同列に見るような
愚かな人間のことは気にしなくていい」
ぼそぼそと忍人が語る。
「…藤のつぼみを見たことがあるか?虫のさなぎか何かのようで、少なくとも俺はあまり
美しいと思わないんだが、それがこんなに美しい花になる。三分咲きと八分咲きを比べれ
ば、八分咲きの花の方が美しいだろう。だが三分咲きの花だってすぐに満開になる。君は
王として、ちゃんと花を咲かせつつある。……焦るな」
慰めてくれる言葉が妙に理屈っぽいのが忍人らしい。無器用で、でも貸してくれる肩は温
かい。
また涙が出た。
泣くだけ泣いて、もうたぶん水分が残ってない、というところまで泣いたら、…本当にす
っきりした。
「……」
すっきりしてしまったら、…なんだか、自分は一体何を落ち込んでいたんだろう、という
気がする。
そろりそろりと顔を上げて、…上目遣いに忍人を見ると、忍人も苦笑していた。
「憑き物が落ちた顔だな」
「えーと、…はい」
こくりとうなずいて。
「……なんだか、…自分が落ち込んでいたのが馬鹿らしくなりました」
忍人が何とも言えない顔をしたので、千尋は慌てて謝る。
「ご、ごめんなさい、あの、心配してもらったのにこんなこと言って」
「いや、…やっといつもの君らしくなってほっとした」
忍人の顔に苦笑が戻る。千尋も笑う。
「…ありがとう、忍人さん。……ごめんなさい」
「…何度も謝ることはない」
忍人は首をすくめる。千尋が首をすくめ返して、
「でも、忍人さんにも仕事があったのに、…時間を取らせてしまって」
と言うと、彼は真面目な顔でこう応じた。
「君が再び笑ってくれることが最優先だ」
…………。
思わずうつむいてしまう。千尋は、鏡も見ないのに自分の頬が赤くなっていることを自覚
した。
さらりとそんなこと、言わないでほしい。期待しそうになる。
期待しちゃいけないのに。だって、彼のそれは、きっと。
「……私が、女王だから?」
心の中でだけつぶやいたつもりが、知らず口に出していた。千尋ははっと手で口を押さえ、
忍人を見上げる。
自分を見下ろす忍人が、心底困った顔をしていた。
「ちがう」
彼はため息をつきかけて、のみこんで、…千尋の前髪をさらりと撫でた。
「君が俺の大切に思う人だからだ。…君が女王でなくても、俺は君のためになら精一杯の
力を尽くす」
言って、ふいと顔をそらす。そのまま手だけ差し出して、
「戻ろう、姫」
三度千尋を姫と呼んだ。
「戻って、狭井君や師君を安心させなければ」
呆然としていた千尋は、はっと我に返って、はい、とその手につかまる。
「…あの、…忍人さん」
「何か」
「……どうして、姫と呼ぶんですか?」
「…他にどう呼べばいいかわからない」
千尋の手を取りながら、半歩先を行く忍人の耳が赤い。
「陛下と呼ぶのは君が王だからだ。だが、王としての君ではなく、君個人に呼びかけたい
時もある」
千尋は笑った。笑って、ぎゅっと忍人の手を握った。
「名前を呼んでください」
忍人が一瞬ちらりと千尋を見て、また前を見た。頬に朱が走ったのを、千尋は確かに見た。
うれしくて、笑う。握った手に力を込める。
「千尋って、呼んでください。呼んでほしい」
「……」
忍人の歩みが少し遅くなった。うつむいて、逡巡している様子でいたが、やがて意を決し
たように、千尋の手をきゅっと握り返す。
「行こう。………千尋」