更待月

「何だ、何をしているんだこんなところで」
堅庭でぼんやりと空を見上げていた千尋は、突然声をかけられて飛び上がった。
「もう夜は遅いぞ」
振り返った千尋の前で、アシュヴィンがわざとらしい渋面を作ってみせている。
「アシュヴィンこそ、どうしたの?」
問いに問いを返してしまったが、特にアシュヴィンは気を悪くした様子もない。派手な仕
草で肩をすくめてみせて、別に、と言った。
「黒麒麟が呼んでいる気がして厩を見に行ったんだが、気のせいだったようだ」
「…私は散歩。…なんだか、寝付けなくて」
気ままなことだ、とでも笑われるかと思ったが、意外と彼はそうか、とつぶやいただけだ
った。
…アシュヴィンも、何となく寝付けないとか、ただぼんやり散歩したいと思うこともある
のかしら。
施政者として、将軍として、千尋から見れば遙かに完璧に見える彼であっても。
千尋は空を見上げた。横で、アシュヴィンも空を見上げている。
「…夜って、本当はこんなに暗いものなんだね」
アシュヴィンは少し不思議そうな顔で千尋を見たが、空を見渡してああそういえば、とつ
ぶやく。
「月の出が遅いようだな」
指を折って何か数えて、
「そろそろ二十か。更待月だな。ではまだしばらくは月は昇るまい」
月の出を待っているのか、と聞かれて、千尋は首を横に振った。
「私のいたところでは、夜は満月の月明かりよりも明るいくらいだった」
アシュヴィンは今度こそはっきりと不思議そうな顔をした。
「中つ国の宮ではずいぶんと無駄遣いをするんだな」
千尋は小さく笑って首を横に振る。
「中つ国の話じゃないわ。…私が少しの間いた場所の話。それに、室内だけじゃなくて外
もよ」
アシュヴィンは、千尋が少しの間いた場所、というのがどういうものなのか問おうとした
ようだったが、その次に続いた言葉に呆気にとられて違うことを問うてきた。
「外をそんなに明るく照らす必要がどこにある」
解せないという色をありありと見せている彼に、うーん、と千尋は額を押さえた。どう説
明したものか。
「…外を歩く人が危なくないように、…かなあ」
「…はあ?」
今度こそ、アシュヴィンは声をひっくり返した。
「歩くときに足元が心許ないなら、手燭でも持って歩けばいいだろう。通るか通らないか
わからない誰かのために、ずっとそんな風に明るくしているのか?」
「そこでは夜でもたくさん人が通るのよ」
だから明るくしてあるのだと千尋は苦笑した。アシュヴィンは呆れ顔で肩をすくめたが、
ふっと真顔になった。
「お前は、…そこに戻りたいのか?」
その問いは、薄い氷のようにすうっと千尋の胸に入ってきて、ひやりと彼女の心臓を冷や
した。苦笑したまま笑顔が凍り付く。
ふわりと風が吹いた。熊野は暖かい地方ではあるが、秋が深まったこの時期、夜風は冷た
い。思わず腕を掻き抱くと、アシュヴィンがかすかに立ち位置を変えた。寒さが少しやわ
らぐ。
…ああ、風を遮ってくれたんだ。
ほっと息をついたら肩の力が抜けた。唇にもう一度笑みを宿して、千尋はアシュヴィンを
見上げる。彼は千尋の答えを静かに待っていた。
「……そこは、のんびりしてて、平和で、…ちょっと眠くなっちゃうくらい穏やかなとこ
ろだったわ」
目を閉じればすぐにも思い出せる。低い山に囲まれた小さな町。都会からは少し離れてい
たけれど、ほどよく至便で、でもいい感じに田舎。退屈だとクラスメートはよくぼやいて
いたけれど、千尋はあの町で暮らすことに不満を感じたことはなかった。戦いの影などみ
じんもない場所。
……だから、豊葦原に戻ったばかりの頃は、すぐにでも戻りたいとずっと思っていた。
「…でもね」
千尋は苦い笑みを浮かべる。
「向こうにいたときの私はずっと、自分の居場所はここじゃない気がしてた。どこかに本
当の自分のいるべき世界があると思ってた。そして、ここにいると、自分が生まれたのは
確かにこの土地、この世界なんだと感じる。…そんな私が向こうに行きたいと思うのは、
逃げじゃないかな」
アシュヴィンは目を伏せて、どこかうれしそうににやりと笑った。
「行きたい、と言うんだな」
「…え?」
再び開かれたアシュヴィンの瞳が、まっすぐに千尋を見た。どこかおもしろがっているよ
うで、それでいて千尋を勇気づけてくれているような、強い目だった。
「お前はまず、その世界に戻りたいと言った。だが、結論を出すときはその世界に行くと
言った。…ちゃんとわかってるじゃないか。…それがどこなのかは知らんが、お前にとっ
てその世界はもう、戻る場所ではなく訪れる場所なんだ」
お前が国と戦いを投げ出してその世界に戻りたいと言ったら、俺はこの船と軍を乗っ取っ
てやろうかと思っていたんだが。
アシュヴィンがさらりととんでもないことを言い出したので、千尋は目を白黒させた。
「ちょ、っと、アシュヴィン!」
「おかしいか?…そもそもお前と俺は敵のはずだが」
「そ、そうだけど」
もごもごと口ごもる千尋に、アシュヴィンは声を出して笑って、ぽん、とその頭を撫でた。
「心配するな。冗談だ。…お前はこの戦いを投げ出してその世界に戻ろうとは、もう思っ
ていないんだろう?」
そういう奴から、戦うためのすべを奪ったりはしないさ。そこまで俺も非道じゃない。
「それに、いいんじゃないか?たまに行きたいと思うくらいは」
そう言って、アシュヴィンは千尋から目をそらし、少し遠くを見た。
「俺だって、子供の頃は辺境の城で育てられた。常に命を狙われていることを除けば、野
原と山に囲まれて、穏やかでのんきないいところだった。戦いが終われば一度骨休めに行
ってもいいなと思ってる」
だからお前も、状況が許すなら、たまに訪ねるくらいはいいんじゃないか。
「…そうだね」
そんなことが出来るのかどうか、…たぶん無理だろうなとは思うけど。でももしできるな
ら、たまには遊びに行きたいな、って思うことくらいは、自分に許してもいいんだよね。
千尋は東の空を見た。
月はまだ昇らない。見えるのはただ降るような星とあとは闇。
……この暗い夜が、私の本当の夜。ここが私のいる世界。