不眠の力 午前二時に、携帯が鳴る。 特別なメロディを設定しているわけじゃない。でもわかる。…いや、知っている。 ……これは、彼からの電話だと。 「…もしもし」 「もしもし?…起きとった?」 やわらかな関西なまり。大地にはあまり区別はつかないが、関西人同士では、あれは神戸、 あれは京都、大阪……否、さらに細かく、河内のなまりだの北摂だのと細かくわかるらし い。そうやって細分化するならば、神戸のなまりなのだというこの男は、時々深夜に電話 をかけてくる。 非常識な時間だが、迷惑かと問われたことはない。迷惑だと言ったこともない。 「…起きてたよ」 参考書のページをくりながら、大地は静かに答える。ページをめくる静かな音を、電話が 拾うはずもないのだが、まるで見えているかのように蓬生は、勉強中やった、邪魔してし もたねとつぶやいた。 「タバコがないと口さびしいて、つい電話してしまうんや」 「増税されたんだし、そろそろ本気で禁煙を考えろよ」 未成年とは思えない会話を淡々と交わす。 「口さびしいなら、ひいじいさん秘蔵のパイプコレクションがうちにあるよ。何か口にく わえてればまぎれるんじゃないか。どうせ誰も使わないし、今度一本送ろうか」 「パイプ?…へえ、さすが、ハイカラやなあ。キセルやったら何本か、俺のじいさんも持 っとったけど」 「キセルか。キセルで煙草をのむのもいなせだな」 「せやね」 相づちを打ってから、ふと蓬生は、なあずっと思ててんけど、と改まり、 「榊くんてタバコのこと、吸う、やのうて、のむ、て言うんやな」 「…そうだな、確かに」 「何で?」 「……さあ、なぜかな」 問われるまでそんなこと、意識して考えたことがなかった。 「たぶんひいじいさんかじいさんかが、そういう話し方をしていたのを覚えたんだと思う よ」 「ふうん。…タバコをのむ、かあ。かっこいいな。今度から俺もそない言お」 「その前に禁煙しろって」 「努力しとうよ。…実は夏が終わってからずーっと吸うて…いや、のんでへんもん」 …へえ、と大地は思わず口笛を吹きそうになった。…電話をかけてくるとき蓬生ははいつ も、口がさびしいと言い訳するから、夜半にタバコがきれて買いに行けずにいるだけで、 普段は吸っているのかと思っていた。 まるでその大地の考えを読んだかのように、含み笑いで蓬生はこう続ける。 「口がさびしなったら、君が愚痴聞いてくれるしな?」 …さびしいのは本当に口だけか、と大地は聞きたくなる。さびしいのは、タバコではなく 彼への思いを押し殺す、君の心ではないのか、と。 だが聞かない。聞く勇気も、聞く権利も、自分にはない。だからただ淡々と、闇の中、こ ぼれてくる君の心のかけらだけを受け止める。涙の代わりの、小さな繰り言。 「…もしほんまにパイプを贈ってくれるなら」 …不意に、少し前の話を蓬生が蒸し返した。 「榊くんが二十歳になってからがええな」 「……何故?」 「榊くんがタバコは嫌いでのまへんって知っとうよ。…知っとうけど、…一度だけでいい、 パイプでタバコをのんで、君がのんだそのパイプを、俺に贈って」 …。 大地がついたため息は、電話ごしでも聞こえたようだ。 「えらい大きなため息やな。…呆れたん?」 「ちがう。…我慢してる」 「我慢?何を?」 「…今、猛烈に土岐にキスしたい」 「………」 沈黙。それから、ふっと笑みを含んだ声がやわらかく、 「阿呆」 大地をいなした。そして、小さなあくびが一つ。 「これ以上電話して、榊くんの勉強邪魔したらあかんし、もう切るわ」 大地は電話の向こうの気配をすくい取るように、耳に強く携帯を押し当てる。 「…眠れそうかい?」 …答えは、くす、という小さな笑いだった。 「おかげさんで。…おやすみ」 「ああ、おやすみ」 そのまますぐ切れるかと思った電話の向こうで、蓬生は何かためらうように沈黙し、 「……。ありがとうな、…大地」 ぽつりつぶやき、電話を切った。 「…」 不通音だけを響かせる携帯を参考書の上に放り出し、大地は両腕で頭を抱える。 「…くそ、反則だぞ」 ひとりごちる声は苦い。 「…名前を呼ぶなよ、バカ。……もっと」 ……もっと、…否、今すぐ。 「君に触れたくなったよ、…蓬生」 ……そうして、眠れない夜が、また一つ。