船出

「葛城将軍、姫が…!」
悲鳴のような声を上げて、武人の一人が部屋に飛び込んできた。忍人はいつも動じること
のない冷静な眼差しで、部下を一瞥する。とたん、彼は直立不動になって報告を始めた。
「玉垣の東から日向の男が一名侵入、二ノ姫をさらっていったとの報告が入りました!」
「そうか、わかった」
「将軍、そのように落ち着いて…」
「すでにさらわれたものを、今更あわてても仕方があるまい。さらわれたときの指示は狗
奴の兵たちに出してある。下がっていい。…ああ、待て」
言われたとおりすごすごと下がろうとした部下を、忍人は呼び止めた。
「岩長姫がどうなさったか、聞いていないか?姫と共にいていただいたはずだが」
「あたしならここにいるよ」
部下をおしのけるようにして、しかめつらの老将軍が入ってきた。あんたはもういいよ、
いっちまいな、と、忍人の部下を押し出すことも忘れない。その後ぴったり扉を閉めて深
く深く彼女はため息をついた。
ふ、と忍人は笑った。
「……ということは、見逃したんですね、師君」
「あんたに言われたかないね。…サザキを手引きしたのはあんただろう?」
「何のことです」
「しらばっくれちゃ困るね。あたしゃ、あんたが宮の周囲はきっちり固める手はずだと、
狭井君から聞いていたんだ。それがなんだい、狗奴の兵は何かことが起こってから動かす
という指示で、宮の東門を固めていたのはいつも通りの門兵たちだっていうじゃないか」
忍人は肩をすくめる。
「狗奴の兵はちゃんと配置していましたよ」
「玉垣の西と南にだろう?」
「何か問題でも?サザキの船は西の河内に停泊していたはずです。たとえ回り込んだとし
ても南の紀湊までと踏んで、西と南に兵をおいていたんですよ。…まさか東から来るとは」
いけしゃあしゃあと言ってのける忍人に、再び岩長姫は深々とため息をついた。
「空を飛べるんだよ、サザキは。…手薄な門から入るに決まっているじゃないか。…わか
っていて、わざと警備が手薄な門を作ったね。そんな細工ができるのは、軍の指揮官のあ
んたしかいないよ。……まあいい、説教したくて来たんじゃないんだ。どうせ、あたしも
あんたのことは言えない立場だからね」
二ノ姫が岩長姫の監視から力ずくで逃げられるはずもない。彼女とて、二ノ姫を逃がした
ことで忍人と同罪だ。目の前で逃がしたのだから、忍人よりも重罪かもしれない。
「…で、あんたはいつ行くんだい」
さらりと言われて、ひたりと忍人の動きが止まった。漆黒の瞳が凍り付く。
「那岐だの遠夜だの、日向の連中を見送りに行った面子は、どうせそのまま船に乗り込む
手はずなんだろう?あとはあんたが乗り込むだけなんじゃあないのかい。あたしゃ内心、
もうあんたはここにはいないかと思って来たんだけどね」
「………」
忍人は身じろぎもしない。が、やがて瞳は苦しそうに伏せられた。
「…どうせあんたのことだ、兵たちに責任があるとか、いなくなった奴が残していった仕
事がとか、いろいろ考えてるんじゃないのかい?」
「………」
忍人は答えない。…答えないことが肯定のしるしかと、岩長姫は額を押さえた。
「図星かい。ああもう、あんたはなんでそう、貧乏くじを引きたがる性格なんだ。昔っか
らそうだよ。あの勝手な兄弟子たちの尻ぬぐいをさんざんやってさ。今度だってそうだろ
う」
柊も風早も、中つ国の再興を見届けたか見届けぬかのうちに姿を消してしまった。そのた
め、国が再び動き出すまで、千尋と道臣と忍人と3人、目が回るくらい忙しかったのは事
実である。
「…あんたはもう十分やったよ。少しは自由にしていい時期だ。……それにね。弟子の尻
ぬぐいは、師匠の仕事だ。…あんたがやり残したと気にすることは、あたしが全部引き受
けてやるよ」
お行き。
岩長姫は静かに言った。
忍人はゆっくりと目を開き、師匠を凝視する。
「それにね、あんたの能力は戦場でこそ発揮できるものだ。これから平和になる中つ国じ
ゃあ、手持ちぶさたになるのが目に見えている。…でも、海賊船の上でなら、今まで通り
役にたつだろうさ。…あの子を、守っておやり。……サザキや布都彦じゃあ、心細くって
いけないよ」
「…師君」
「あたしゃ、同じことを二度は言わないよ。…じゃあね」
部屋の扉が、静かに閉まる。岩長姫は出て行ってしまった。忍人は黙って立ちつくしてい
たが、やがて窓の外に目を向けた。
青い空が広がっている。

「…忍人が来ていないって!?」
船について千尋を降ろしたサザキは、声をひっくり返らせた。その大声に千尋の方が驚く。
「ていうか、船にみんな乗ってるってどういうこと?」
「だってさ、橿原宮にずっといたら息がつまるじゃないか。…海賊船に乗ってる方がよほ
ど昼寝しやすいよ」
……それはまあ、那岐らしい感想だと思うけど。
「やはり、土蜘蛛だったという目で見られる。…ここなら、そういう目で見る人はいない」
遠夜は確かに、船に乗っている方がいいかもしれない。橿原宮を奪還してからこちら、ず
っと居心地悪そうにしていたから。
でも。
「布都彦まで…」
「…兄がいなくなって、まだ5年かそこらしかたっていません。…兄のしたことを覚えて
いる人が、橿原宮には多いのです。…あれが羽張彦の弟よと指を指されるのがいたたまれ
ません…未熟者ですので」
言われてみれば、そうかもしれない。道臣や忍人と共にいれば、彼らがさりげなくかばっ
てくれることもあるだろうが、中つ国再興のさなかで、二人とも忙しく立ち働いていたか
ら、そんな気休めさえなかったに違いない。
「けど」
「だが」
「ですが」
そこで3人は声を揃え、
「…忍人はねえ…」
後を引き取ったのは那岐だった。
「最初はみんなで見送りに来るはずだったんだ。そのまま船に乗ることになっててさ。で
も、サザキが無事に侵入できるまで、兵が動かされないように見届けておくって言い出し
て、忍人だけ後から来るってことになったんだよ。…あれがまずかったかな」
「まずかったってなんだ!」
大声でサザキが怒鳴る。
「怒鳴るなよ。…だからさ、忍人は気が変わって宮に残ったんじゃないかってこと」
責任感のかたまりみたいなあいつが、一緒に行くと言い出したことの方がびっくりだった
んだよ、僕は。…那岐はぼそりと言う。
「けど、宮にいて息が詰まるのは忍人も同じだと言ってた。仕事仕事って追い立てられて、
その仕事が何かと言えば竹簡に目を通して承認することばかりで、退屈でしかたない、宮
の中に閉じこもるより広い空が見たいって」
「…ですが、将軍は多くの部下を抱えておいでです。…彼らへの責任のことを考えたら、
やはり最終的に二の足を踏まれたのでは…」
那岐の言葉を布都彦がひきとった。その傍らで遠夜もうつむく。船内は急に、通夜のよう
な重苦しさに包まれた。
「やめだ、やめ!」
叫んだのはサザキだった。
「落ち込むのはやめだ!めんどくせえが、しかたない、もう一度橿原宮まで俺が飛んでく
る」
「…男を乗せて飛ぶのか」
カリガネにつっこまれて、帰りは飛ばねえよ!とサザキは怒鳴り返した。それはどうあっ
ても譲れないポリシーらしい。
「けど、忍人にも俺は、広い海を見せてやりたいんだ。姫さんもだけど、あいつだって狭
いとこに閉じこもってりゃ息が詰まるはずだ。天鳥船にいたときだって、いつも堅庭にい
たじゃないか」
そうだ。確かにそうだった。みんなそれぞれ自分の好きな居場所があったが、忍人は仕事
のない時はいつも堅庭の、それも縁ぎりぎりのところにいて、ぼんやりと空を見ていた。
「…サザキ、…よく見てるね」
思わず感心して千尋がつぶやくと、ちょっといろいろあってな、とサザキは言葉を濁した。
「とにかくもう一回飛んで…」
サザキがそういって甲板を蹴ろうとしたとき、
「…どこに行くんだ、船長」
冷静な声がその足を止めた。
「…忍人!」
「忍人さん!」
「遅くなってすまなかった。いろいろ片付けていたから」
ひらりと忍人が船に乗り込んできた。
「おまえ…!はらはらさせんなよ、この野郎…」
と言いかけて腕で忍人の首を抱え込もうとしたサザキをひらりとかわし、忍人はカリガネ
に声をかける。
「早く船を出した方がいい。狭井君と岩長姫は追っ手を差し向ける気配はないが、功を焦
った官人たちの誰かが私兵を動かしたようだ」
うなずいて、カリガネは仲間たちに次々と指示を出していく。サザキも舵や帆の向きを指
示し始めた。
「…来ないかと思ったよ」
ぼそりと那岐が言うと、
「…そうしようかとちらりと思ったんだが」
忍人は苦笑を浮かべ、
「師君に、平和な中つ国では俺は手持ちぶさただろうと言われたから、来ることにした。
…それに、」
悪戯っぽい目でちらりとサザキを見る。
「師君は、二ノ姫を守るのがサザキでは、心許ないそうだ」
「なんだと、あのばーさん、今度会ったら覚えてろ!!」
さほど大きな声で言ったわけではないのだが、しっかり聞こえたらしい。離れた位置で舵
を取りながらサザキがわめく。
それから忍人は千尋を見た。
「…うるさいのが同乗してすまない」
「うるさいのなんて、そんな!」
千尋がびっくりして声をあげると、忍人はしゃあしゃあとこう続けた。
「なるべく、叱らないようにするから我慢してくれ」
「…えっ。私、大将じゃなくなっても叱られるんですか」
那岐が吹き出す。
「千尋は叱られそうだよね、この程度で船酔いするなんて、それでも海賊かとか」
布都彦と遠夜も顔を見合わせて笑い出した。
「俺の姫さんをいじめる奴は、船から放り出すぞお!」
舵のそばでまたサザキがわめく。
…船はゆっくりと港を離れ、広い海へ乗り出していった。