ふれて、つないで。 風呂に行こうと一階に下りたら、ラウンジで兄貴と大地が顔をつきあわせていた。 何をしているのかと、少しだけ近づいてみてはっとする。 ……大地が、兄貴のテーピングを巻き直しているところだった。 ぼうっと立っている俺に、先に気付いたのは大地だ。 「どうした、響也」 ごく普通の声で呼びかけられて、逆に俺はしどろもどろになってしまった。 「いやその、…ちょっと見てていいか」 何故そう口走ってしまったのだろう。自分でもよくわからない。 大地はかすかに眉を上げ、それから、いいよ、と穏やかに笑ったが、俺に背中を向けてい る律は、一言もなく黙りこくっている。 気圧されるような気持ちで、でもおずおずと、俺は椅子を引っ張ってきて二人の側に腰掛 けた。 見ていると大地は本当に手際が良かった。Y字型に切った湿布のようなものを手首に合わ せて貼り、上から包帯を巻いていくのだが、その手順が流れるようだ。 ……ああ、慣れているんだな、と、しみじみ思う。 「ずっと、やってんの。…テーピング」 ぼそりと問う。…俺としては、特にどちらに向かって問うたわけでもなかったが、兄貴が 相変わらずだんまりのまんまなので、大地がしかたがないなという苦笑をにじませて口を 開いた。 「ずっとってわけじゃないよ。調子がいいときは、テーピングは邪魔になるからね。春の 定演が終わってからコンクールが始まるまでは、わりと調子が良かったんだよ。……ただ、 練習量が増えてくるとどうしても、ね。…腕に負担がかかるとてきめんだ」 「……うん」 大地は丁寧に答えてくれたのだが、それは俺が聞きたかったこととは少しずれていた。 「…ていうかさ、その、……大地がずっと、やってやってんの?…律のテーピング」 包帯を止めながら、大地が二度ほどぱちぱちとまばたいた。 「……ああ、……そういう意味?…どうかな」 「どうかなって」 大地自身のことのはずなのに、なんだか変な返事だ。 「学校や部活で一緒にいるときは俺が手伝うけど、風呂上がりは自分でやってるんだろう、 律?」 …あ。そういう意味か。 大地に水を向けられて、律は無言で首を縦に振った。…ああ、くらい言ってもいいんじゃ ねえの、兄貴。 大地も、そんな兄貴の姿を見て小さく肩をすくめ、俺を見て、 「だ、そうだよ」 となだめるように付け加えた。 「……」 少し鼻白みかけた思いが、大地になだめられて行き場所をなくす。俺は何となく、ふうん、 とうなずいて、きれいに巻き終えられた包帯をぼんやりと見つめた。…すると、俺の様子 を見た大地が不意に、 「もしその気があるなら、テーピングのやり方を覚えてみるかい、響也。…教えてあげる よ」 と提案してきた。 え、と俺が驚くよりも先に、兄貴が顔をしかめた。 「大地」 ずっと黙りこくっていた兄貴が発した一言は少し冷ややかで、俺は思わず首をすくめたの に、大地はそんなものどこ吹く風と、いつもどおりの飄々とした笑顔のままだ。 「ちょうどいいと思うんだけどな。学校でならともかく、寮だの風呂上がりだの、プライ ベートな時間まで、俺がテーピングを直してあげられるわけじゃない。ファイナルまでは まだ日数がかかるしね」 「不要だ。自分で出来る」 「律が自分でやったテーピングって、ぐだぐだじゃないか。あれじゃテーピングの意味が ないよ」 …ぐだぐだ。 その表現に俺がぷっと笑うと、律にきっと睨まれた。…おっとっと。 「…そんなことはない」 ふいと顔をそらしてまた大地に視線を合わせ、律はきっぱりと言った。だが、大地も負け てない。 「そんなことあるって。…普通に片手でやるだけでも難しいのに、律が使えるのは利き手 じゃない右手だ。うまくいかなくて当たり前だよ」 「……」 大地の正論に、兄貴が不機嫌な顔で黙り込むので、俺も少し怖じた。元々、どうしてもテ ーピングを覚えたいわけじゃないし、不安もある。 「…でもさ、なんていうかその、力加減とか締め付け具合とかさ。…いろいろ、難しいん じゃねえの」 「慣れだよ。だから響也はしばらく、俺の手を練習台にするといい。響也は器用そうだか らすぐ慣れるだろう。俺で慣れてから律にするなら、響也自身も律も不安はなくなるだろ う?」 「……う、…それは、まあ」 兄貴は無言のままだ。だが、大地は高らかに宣言した。 「よし決まり。じゃあ今から講習会だ。予備のテープがあるからやってみよう」 「今から!?」 「…俺は部屋に戻る」 兄貴はふっと立ち上がった。 「おやすみ、律」 「……おやすみ」 律の足音はいつも規則正しい。階段を上っていく音を聞きながら、俺はふっと肩から力が 抜けるのを感じた。 「なあ、…いいのかな。…兄貴、機嫌が悪そうだったんだけど」 「照れくさかっただけだよ」 大地はあっさりと言う。 「…そうかあ?」 「されるがままになってる自分を兄弟に見られるのは、照れくさいものだろう?」 ……されるがままって、…テーピングのことだとわかってないと、ちょっとぎょっとする 表現なんだけど。…わかってんのか?大地。 俺の内心に気付く気配もなく、大地は淡々とテーピングの仕方について解説する。俺も真 面目に聞く。…俺、風呂に行くはずだったんだけどな。何してるんだろ。 「…なあ」 「なんだい?」 「あんた、何で俺にテーピング教えようって思ったの」 「言っただろ、ちょうどいいって」 「ほんとは、それだけじゃないんだろ」 下からのぞき込むように大地の目を見ると、大地はふと笑って、案外、勘がいいね、と言 った。 「……テーピングの間、兄弟で会話が出来るんじゃないかと思ってさ。…老婆心ってやつ? …この年で兄弟べたべたできないのもわかるけど、もうちょっと会話があってもいいと思 うよ、君らは」 「…余計なお世話だ」 「わかってるよ、老婆心だって言ってるじゃないか。……それに、いつまでも俺と律が一 緒にいられるわけじゃないしね。響也が手当の仕方を知っててくれると思うだけで、俺が ちょっと安心できるんだ」 俺に包帯を巻くように促して、大地は俺の手際を確認するようにうつむく。…まつげを伏 せただけで、元来明るいはずの顔はひどく沈んで見えた。 俺はため息を一つつく。 「……あのさ。…律はやっぱり照れくさいんじゃなくて、不機嫌だったんだと思う」 「……?」 「最初口をきかなかったのは、確かに照れくさかったからかもしれない。…けど、あんた が俺にテーピングを教えるって言ったら、機嫌の針がはっきりマイナスにふれただろ」 「……」 …て、今度はあんたがだんまりかよ。 「律はあんたと一緒にいたいのに、あんたが俺に引き継ぐみたいなことを言うから、部屋 に戻るっていっちまったんだと、俺は思うけど」 「……。……そりゃ、俺だって、ずっと一緒にいたいけど、ね」 「…それ。後で律に言ってから帰れよ」 いつまでも一緒というわけにはいかない。それは当然だ。部外者の俺だってわかってる。 律だって、きっと。 「けど、一緒にいられないのと、一緒にいたくないのは違うだろ。あんたがいるときはあ んたがやる、…あんたがいないときだけ俺が、…そういうつもりだって、ちゃんと律に言 えよ。言わなくてもわかるはずなんて思うな」 「…響也」 大地はかなり驚いた顔で俺を見た。…って、ちょっと失礼じゃねえか? 「…うん」 けど、その顔はゆっくりと納得して、ほころんでいく。 「そうだな。そうするよ。……響也も」 「……は?」 「そうやって、律のことを思いやってるって、もう少し素直に表面に出せばいいと、俺は 思うよ」 ………。それが出来たら苦労はしない。 「…出来ねえよ」 「出来るよ」 「出来ねえって。…ほんとに」 「出来るさ。…テーピングしている時間になら、きっと出来る」 ……? 「…現に、響也は今、すごく素直に俺に心を打ち明けてくれているだろう?」 ……。 手を触れているというのはいいものだよ、と大地は言った。 「いつもより素直になれる。…手が触れあっていると、嘘をついたときにすぐばれるから ね」 「…そういう、もんかな」 「そういうものさ」 普段なら、そんなふうに断言されると、そんなはずはないって言い返したくなるのに、… 今日は何故か、そうできなかった。 …これが、触れあっている効果ってやつか。…そんなこと突きつけられたら、納得するし かねえじゃん。 「…わかった。やってみる」 教えられた通りを心がけて巻いたテーピングは、五回目でまあまずまずとなんとか及第点 をもらった。俺がちらちらと風呂道具を見る様子を目にした大地が苦笑して、明日また練 習しようと解散を告げる。 …風呂場に行こうと、廊下を少し進んでから振り返ると、大地が階段を上っていくのが見 えて、ちょっと笑った。 明日の朝にはきっと、ほぐれた律の顔が見られるだろう。