古傷


熊野はいで湯が多い。
山中だけではなく、海辺の波打ち際、満ち潮になれば波をかぶるような場所にまで、豊富
な湯がわいている。そのうちの一つが、天鳥船の停泊場所の側にあり、船に乗り合わせた
仲間たちの憩いの場所になっていた。


その夜皆が寝静まった頃を見計らって、那岐は船を抜けだし、湯を目指した。大勢の他人
と狭い一つ所にいるのが苦痛な那岐は、夕方や食後など、普通に湯が混み合うような時間
にいで湯に向かうことはない。だいたいが真夜中、人がいなくなってからだ。
だがその夜は先客がいた。明らかに自然にたったものではない水音を聞いて、那岐は一瞬
引き返そうかと思ったが、湯船代わりにうがたれた岩の手前、暗がりにきれいにたたまれ
た衣服を見て気が変わった。
彼となら一緒に肩を並べて湯につかってもいいかと思ったのだ。だから、さっさと服を脱
いで、乱雑にそれを投げ出す。
「忍人」
声をかけると、先客はゆっくりと首をめぐらせる。驚きはなかった。おそらく脱ぎ着の物
音を耳にしていたのだろう。
「珍しいね。…こんな時間、いつもはもう休んでるだろう?」
「ああ。……だが、一人でゆっくり風呂につかれるのはこの時間くらいだからな」
穏やかな黒い瞳が、かすかに悪戯っぽく笑んだ。
「君も一人がいいのだろう?」
「え?」
「だからこの時間を選んだ。…ちがうか?……俺はもうのぼせるくらいつかったから上が
る。気にせずゆっくり入っていくといい」
「……あ、うん」
忍人となら一緒でも気にならなかったんだけどな、と思いつつ、那岐がぼんやりしている
と、ざばりと音を立てて忍人が湯から上がった。
湯につかっていた白い肌が、ほんのり上気して月明かりにさらされる。何気なく目を向け
て、那岐は息を呑んだ。
「……!」
夏でも袖の長い服を着て、服装を乱すことなどないから気付かなかった。
体中のあちこち、胸や腹にまで、無数の傷がある。ただ、背中にだけは少ない。そこはい
かにも忍人らしい。
矛盾する言い方だが、それは目を背けたくなるような、それでいて目が離せなくなるよう
な痛々しさで。
思わずぶしつけに凝視している那岐に、背中を向けて下帯をつけながら忍人はゆるりと笑
った。
「醜いだろう」
「……っ」
はっ、と息を呑むと、優しい目で肩越しに振り返る。その目がふと丸くなって、それから
やんわり細められた。
「……昨日今日の傷じゃない。古傷だ。……那岐、そんな顔をするな」
そんな顔、と言われて、ぼんやり首をかしげる。
「…そんな顔、って」
「まるで自分の傷のような顔をしている。……痛そうな」
はらりと長衣を肩に羽織っただけの姿で忍人は那岐のところに戻ってきた。湯の中に足だ
けひたして忍人を振り返っている那岐のそばに、片膝をついて腰を落とし、そっと頭に手
を載せてくれる。
「……君は優しいから、同調してしまうんだろう。……こんなもの、見せるべきじゃなか
った。……すまない」
「……っ、忍人が、謝ることじゃっ……」
息が詰まった。ひくりと喉が震える。
「謝ることじゃ、ないっ」
たまらなくて。湯から上がり、岩の上に膝をついて、むしゃぶりつくように忍人を抱きし
める。
近くで見ると傷は一層痛々しかった。有能でなくてもいい、誰か専門の癒し手がいれば、
こんなひどい傷跡にはならなかったはずだ。ケロイドのようになっているものさえある。
刀に毒でも塗られていたのだろうか。
「……!」
忍人はきっと、たった一人でこの傷を癒したのだ。誰の助けも借りずに。あるいは、借り
たくても借りる相手がどこにもいなくて。
……そう思うと、たまらなかった。
「……那岐?」
忍人は少し困った声をしている。けれど、むしゃぶりついている那岐を無理に振り払った
りはしなかった。それどころかなだめるように優しい指で、そっと髪と背中を撫でてくれ
る。
「……言っただろう。もう痛くはないんだ。大丈夫だ」
「……ちがう」
那岐はかすれる声で言った。
「そうじゃない。…そうじゃなくて」
君の過去の痛みを嘆いているわけではなくて。
「……これからは、僕が」
「……?」
鬼道の力は癒しに使えるものも多い。……だから。
「全部、どんな傷も、一人で我慢したりしないで、……僕に、治させてほしい」
これからのことを。これから君が受ける傷のことを。どうか僕にも分けてほしいと願って
いるだけ。
「絶対に、癒すから」
「……」
ぽんぽん、と優しい手が那岐の頭を撫でてくれる。許されていると、そう感じてほっとす
る。抱きしめ返すと忍人がくすぐったそうに息で笑うのがわかった。

−……抱きしめることでこの傷痕が全て癒えればいいのに。

らちもないことを考える自分を、那岐は小さく笑った。