冬の波


かばんの中で携帯が震えている。メールならしばらく放っておけば止まるが、意外と止ま
らない。取りだしてみると電話だ。ディスプレイに表示された電話相手の名前に片眉を上
げ、大地は口を開いた。
「もしもし」
「もしもし」
電話相手は一呼吸置いて、
「今、電話してもかまへん?日曜日やし、予備校?」
「いや、模試の帰り」
「帰り道?…電車やったらかけ直すわ」
「大丈夫、駅から家まで歩いてるところだよ。…いいタイミングだな、どこかで見てるん
じゃないか?」
「はは」
蓬生は小さく笑った。
「ほんま、魔法の鏡かなんかあって、そっちが見えたらええのにな」
その背後で、かすかな音がする。携帯電話が拾うくらいだから、向こうでは相当大きな音
だろう。
「土岐。後ろの音は?」
「音?……ああ、波の音?」
「……波?」
「今、須磨におるんよ、……って、関東の人はそんなん言われても知らんわな。…神戸の
海水浴場や。こっちの海は冬場に荒れることはあんまりないんやけど、今日は天気が荒れ
模様やから、海も荒れとうかなって、見に来た」
「…物好きだな」
ふふふ、とまた蓬生が笑う。
「…人恋しくなったんよ」
「……は?」
意味がわからない。
冬場の海水浴場というだけでも人気がなさそうなのに、おまけに天気は荒れ模様だという。
人恋しいどころか、人っ子一人犬一匹、いないだろうに。
そう指摘すると、そうや、誰もおらん、と屈託なく蓬生は言う。
「せやから、あんまり人恋しいから、人の絶対おらんようなとこ行ったら、あーあ、やっ
ぱりおれへんかったってあきらめもつくんちゃうかなと思って」
……。
「……何だそれ」
そっけない返答に、蓬生はふふ、と笑っている。大地は歩きながらの電話をあきらめ、目
に着いた公園に入ってベンチに腰掛けた。日曜の午後だが、人影はない。子供達は互いの
家で、カードゲームにでも興じているのだろう。
「…東金は」
「ここにはおらんよ」
「そうじゃなくて。…君にはいつも東金がいるだろう?…人恋しくて一人になる必要なん
て、ないんじゃないのか」
「……」
蓬生は沈黙した。ざざん、と波の音だけが聞こえる電話を大地は耳に押し当てる。
「…せやね」
波の音に負けそうなほど静かな声で、蓬生は肯定した。
「千秋は灯台や。絶対動かんし、絶対灯りを消さへん。…あの光さえ見つめてれば絶対大
丈夫って思うんやけど」
ふっとまた蓬生は言葉を切った。聞こえる波の音。海はどれほど荒れているのだろう。
寄せて、返して。
「…けど?」
波音に胸が騒ぎ、大地はたまらず蓬生を促した。
「…けど、時々、…波の音に気を取られてふっとそっちを見てしまう。寄せてきて、返し
て、また寄せて、返して、つかまえられそうやのに、つかまえられへん。見とって不安に
なるばかりやのに、目をそらしたらまた音がして、やっぱりそっちを見てしまう。…見ず
にはおれん」
俺がつかまえられる波は、ここにはないて、わかっとんやけどな。
静かな独白。
「……」
大地はため息をついた。
東金が灯台なら。…波は、俺か。
人恋しいから人のいないところに来た、という言葉の意味がようやく腑に落ちた。
大地にも経験がある。人混みの中に、蓬生に似た人影を捜してしまうことがある。あれは
もしかしたらと思ったことも幾度かある。
…たいていは見間違いで、結局は似ても似つかないどこかの誰かだ。一瞬心弾ませて、や
っぱりがっかりしての繰り返し。そういうことが度重なると、心が疲弊する。人混みを疎
ましく思う時もある。
だからきっと蓬生は、誰もいない冬の海へ逃げ出したのだ。人恋しくて。せつなくて。
「…土岐」
口を開こうとしたら、蓬生はふいに、ほな、と言った。
「…変な電話してごめん。…もうちょっと海見たら帰るわ。付き合うてくれて、ありがと」
大地の返事を待たずに電話は切れた。と同時に、波の音も大地の耳から遠ざかったはずな
のに、蓬生の声は消えても、波の音だけが大地の耳の底に残っている。
おいでおいでと、誘うように。
「……」
額を押さえ、ため息をついて。…吐き出したため息の勢いを借りるように、大地は立ち上
がって公園を出た。そして、自宅ではなく元来た駅の方へと道を戻っていく。
その途中、電話がまた震えた。着信かと思ったがそうではなく、それはタイトルのないメ
ールで。開けてみると本文はたった一行。
『遠き遠き恋が見ゆるよ冬の波』
「……」
大地は薄く笑った。
駅について、来た電車に飛び乗る。…目指すのは、寄せて返す波が見えるような、浜のあ
る海の街。
海についたら、蓬生に電話をかけようと思う。
俺の波の音も、君に聞こえているのかな、と。
……会いたい、会いたいと、寄せては返す、その波が。



掲出句 鈴木真砂女   『都鳥』所収