冬の木に寄せる思いは


「失礼する。…陛下、新年からの兵の配置と入れ替えについての竹簡だ。一部の兵は任を
解いて国許へ帰す。目を通していただきたい」
執務机に向かっていた千尋が顔を上げ、おっとりと笑った。
「わかりました。今日中には確認しておきますので、そこに」
白い手が示す場所へ竹簡を置いた忍人は、ふと、首をかしげた。
「……花の香りが」
季節は既に冬だ。この時期咲く花は少ないはずだが。
一人言のつもりだった忍人だが、彼の言葉を聞いた千尋はうれしそうに顔をほころばせた。
「気付きました?いい匂いですよね。昨日くらいから咲き始めたんです。あんな小さな花
がこんなに香り高いなんて少し不思議」
「咲き始めた?……一体、どこで?」
千尋の執務室に花が飾られているわけではない。忍人が首をひねっていると、千尋がここ
です、と種明かししてくれた。彼女が立ち上がって身を乗り出してみせたのは、執務中、
光が多く入るようにと大きめに切り取られた彼女の執務机の背後の窓だ。つられて窓から
外を覗いた忍人は、一瞬、あっと声を上げそうになって必死に呑み込んだ。
「……っ」
そこに植えられて小さな白い花を咲かせているのは、一群れの柊だった。
「那岐と遠夜に頼んでここに植えてもらったんです。見るたびに思い出せるように」
……何を、とは、敢えて千尋は言わない。忍人も問わなかった。問わずとも、答えずとも、
その木がここにある理由は明白だったからだ。
千尋が後宮の自室の側にしつらえた執務室の裏手は、そのまま、那岐と遠夜が管理する薬
庭の裏、木々が多く植えられた一角へとつながっている。薬庭を表から見ても、薬になる
木や草に隠れてそこが千尋の執務室だと気付かれないようにという配慮だ。だから忍人も、
この窓の下に何が植わっているのか知らなかった。
微笑む千尋。物言わぬ常緑の木。…忍人は、とっさになぜかこんなことを問うてしまった。
「那岐と遠夜の他にも、ここにこの木があると知る人が?」
唐突な問いだった。怪訝がられてもしかたがないのに、千尋はむしろ、その問いを予想し
ていたという顔をちらりとみせた。
「狭井君がご存じです。…元々、母様も、ご自身の執務室の窓の下には何か植えておられ
たので、母様は何を植えておられたのかと聞いたんです。…そうしたら」
『先王陛下は萩の花がお好きでそれを植えておられました。陛下も陛下のお好きな花をお
植えなさいませ。…この小さな坪庭は、陛下を侵入者から守る役割も果たしますが、まず
は陛下の心をお慰めするためにあるのです』
と、彼女は言ったのだそうだ。
そこで千尋が柊を植えると、庭が完成した後にこの部屋を訪れ、窓の外を見やった彼女は、
一瞬寂しい顔を見せてから改めて微笑んで、
『この木は魔除けになりますし、この葉の棘で、邪なことを考える者の侵入も阻みましょ
う。冬には花が、良い香りで陛下をお慰めするでしょう』
陛下らしい、良い選択をなさいました。…彼女は静かにそうつぶやいたのだそうだ。
「……。もっと華やかな花にすればいいのに、とか、言われると思ったんですけど」
千尋は小さく笑って、それから寂しく目を伏せた。
「……言われませんでした」
「……」
忍人は目を伏せた。
…きっと彼女も、この花の香りをかぐたび、姿を消した不肖の弟子を思うのだろう。常に
冷静沈着な老女の、寂しい心のゆらぎが忍ばれた。
忍人は一度唇を噛み、ぐっと思いを飲み下してから、切り替えるようにきびきびと一礼し
た。
「では陛下。…御前を失礼する。…先程の竹簡の件をお忘れなく」
「はい、わかりました」
千尋がしっかりとうなずいたのを確認してから背を向け、部屋を出ると、また、ふわりと
窓の外から柊が香った。
忍人のまぶたの裏で、皮肉な笑顔の残像が、一瞬ひらりと閃く。
「……まったく。…いてもいなくても面倒な奴だ」
回廊に一人佇んで、つぶやく言葉は苦く、せつなく。…聞いて苦笑する者は目の前にはお
らず。
冬の色をした風が、忍人の言葉をさらっていった。