冬の雷


鉛のような重苦しい色をした雲が、朝から低く重くたれこめている日だった。降りそうで
降らない。いっそ雨でも雪でも降ればと皆空を見上げ、冷たい風に身を震わせたが、空か
らは何一つ降ってこない。
けれど、昼を過ぎた頃、重いものを転がすようなごろごろと響く音が、遠くかすかに鳴り
始めた。
…冬の雷か。
忍人は、鍛錬中の兵を皆引き上げさせた。突発的に発生することが多い夏の雷の方が危険
は危険だが、冬の落雷も用心に越したことはない。
雷は、それをもたらす雲同様、低く鳴りつづけながらなかなか治まらなかった。いっそ大
きな稲妻になってさっぱりと晴れてくれればいいものを、と、急ぎでない竹簡を整理しな
がら忍人はため息をつく。

−…雷の音を聞くと、…彼を思い出す。

基本的に生真面目な忍人は、仕事をためることは少ない。手元の竹簡がなくなってしまう
と、どうにも手持ちぶさたになってしまった。雷はまだごろごろと鳴っている。その音を
聞きながら目を閉じると、脳裏にあの黒衣が翻る。
「……」
額に手を当て、少しこらえたが、…長くは続かなかった。ため息一つ吐いて我慢をあきら
め、長衣を一枚羽織って部屋を出る。
玉垣の外に出ようとすると、慌てたように警護の兵が声をかけた。
「将軍、どちらへ」
「急用だ。すぐ戻る」
さらりと嘘をついたが、兵は鵜呑みにしたようで、それ以上何も言わなかった。もっとも、
葛城将軍にもの申せる人間など、あの戦いの仲間以外には余りいない。せいぜいが狭井君
くらいのものだ。
足早に道をたどる。特に目的があるわけではない。だが、足は自然と耳成山に向いた。あ
の山の中腹に、…常世への道の入口がある。
「……」
忍人は無言で道を急いだ。雷を用心してか、道にも途中の里にも人影は少なかった。時折、
じわりじわりと雲が底光りする。
山中に分け入り、あと少しで洞が見えるというところで、忍人はふと我に返ったように足
を止めた。
「…何をしているんだ、俺は」
思わず声に出してつぶやく。
…こんなところに来たところで、何が出来るわけでもない。まさか、雷の音を聞いて懐か
しくなったと、ここから彼を訪ねるわけにもいかない。洞穴を眺めて、どうしようと思っ
たのだろう。
何故こんなに心がはやるのだろう。雷の音を聞くたびこうなるわけではない。けれどなぜ
だか、今日に限って。
「……」
忍人は深呼吸を二回した。
…俺のすべきことは何だ。
自問するまでもない。中つ国と女王陛下とを警護する。それが今、一番大切な自分の仕事
だ。こんなところで呆然とはやる思いに胸を躍らせている場合ではないのだ。
……戻ろう。
きびすを返そうとしたときだった。

「……!」

いななきが聞こえた気がして、はっと振り返る。
…こんな山中に、…馬?
普通の馬ではあり得ない。そもそも、葛城周辺にあまり馬はいないのだ。宮では何頭か飼
育しているが、こんな雷の日に外に出す愚か者はいない。
「…」
固唾を呑む忍人の耳に、今度は蹄の音が聞こえてきた。そして、よしよし、となだめるよ
うな声を聞いて確信する。
木々をめぐり、常世につながる洞に向かって数歩歩く。…そこに、いななきの主とその主
人を見て、忍人は息を呑んだ。
黒い麒麟の背を撫でて黒衣のマントを翻した彼は、何気なく木々の間からふもとを透かし
見ようとして、忍人と同じく息を呑む。…それからゆっくりにやりと笑い、手袋をした指
先を口元に当てた。
「よもや、出迎えがいるとは思わなかった」
言われて、忍人も思わず苦笑する。
「久しいな、忍人。…息災か」
「ああ。君も変わりなさそうで何よりだ、アシュヴィン。…しかし、何故ここに」
単刀直入に問うと、常世の皇は首をすくめた。
「くさくさするような会議と進言が続いてな。気晴らしに遠駆けに出た」
「…遠駆けといえばそうなのだろうが、……ずいぶん遠出をしたものだな」
「そうでもない。別に橿原宮を表敬訪問するわけでなし、ここで少し中つ国の景色を眺め
るだけのつもりだった。黒麒麟でなら、ここまではさほどの距離じゃない」
ふっとまた、子供が喜ぶような顔で嬉しそうに笑って、
「まさかここで忍人に会えるとは思わなかった。…ここで何を?」
問い返されて、忍人は一瞬答えに窮した。会議や進言で気分がくさくさしたというアシュ
ヴィンの理由は、自分の理由に比べればずいぶんと真っ当だ。…何しろ自分は。
「…遠雷が、聞こえたので」
迷いながら口にした言葉に、アシュヴィンは目を丸くした。
「…俺のせいではないぞ」
真顔で言うので、うっかり忍人も笑ってしまう。
「そうではない。…そうではなくて」
ゆっくりと首を横に振り。
「その音を聞いていたら、…無性に胸がはやって」
ああ、と忍人は思う。何故こんなにも、いてもたってもいられない気持ちになったのか、
やっと腑に落ちた。
「……君を思い出して、たまらなくなった」
…その言葉に、珍しくアシュヴィンが動揺を見せた。一瞬のことだが、その瞳に驚きと喜
色が宿り、やがてその驚きは優しい慈しみの色に変わる。…つ、と手が伸びて、愛しげに
忍人の髪を弄び、そっとその首筋に触れて。
「…かわいいことを言ってくれる」
「アシュヴィン」
まるで女性に対する睦言のような一言に、忍人は眉を寄せた。
「そんな困った顔をするな。…もっといじめたくなる」
「……」
忍人が当惑して口を閉ざすと、アシュヴィンは人の悪い笑みを浮かべた。
「…臣達も、どうせ嫁を勧めるなら忍人を連れてくればいいものを」
…なるほど。くさくさする進言というのはそれか。…妙齢の、大国の皇がいつまでも妻妾
なしというわけにはいかない。さぞ、常世の臣下達は気がもめていることだろう。
「引き合わされた嫁候補が忍人なら、その場で婚礼の儀でもかまわんがな」
「…アシュヴィン。…戯れ言はそれくらいにしてくれ」
眉間にしわを深く刻んで忍人が低い声を出すと、いつもなら破顔一笑するアシュヴィンが、
冗談だとも言わず、少し苦しそうに眉根を寄せた。
「戯れ言ではない、…と言えば、お前は俺の元に来るか」
…。
「嫁にとは言わん。将軍として迎え入れる。俺の側で、俺と、…常世の国で暮らしてくれ
るか」
「…」
答えられず、忍人が目を伏せると、アシュヴィンも瞳を閉じ、ため息混じりに笑った。
「ああ、答えは言わなくていい。…お前がそういうことの出来る男なら、俺はお前に惚れ
込んだりしなかった。…お前の忠誠は、永遠にひとところにある。そういうところを好き
になった」
「…アシュヴィン」
彼は大仰に肩をすくめてみせる。
「こうして、友好国の皇と将軍として、刃を交えず顔を見られるだけでも、僥倖と思うべ
きなんだろうな」
「…アシュヴィン」
繰り返し名を呼ぶばかりで他に何も言えない忍人を見て、アシュヴィンは艶っぽい笑みを
浮かべた。…そっと、耳元に唇を寄せる。声はひそやかに、甘い。
「…そう何度も名を呼ぶな。……さらってしまいたくなるだろう」
耳朶に唇が触れたのは、偶然か、故意か。目尻をほんのり朱に染めて忍人が耳を手でかば
うのと、アシュヴィンが何もなかったような顔をしてさっぱり身を翻すのは、ほぼ同時だ
った。
「思いがけない、いい気分転換になった。…そろそろ国に戻らないと。……忍人」
「……」
無言で、ただ目をひたりとアシュヴィンに据える忍人に、黒麒麟にまたがりながらアシュ
ヴィンが手をさしのべる。
「こんな風に会うのも逢い引きのようで情趣があるが、また常世にも顔を見せに来てくれ。
…待っている」
つ、と指先が頬にふれた。視線が絡む。
「道中、気をつけて」
「ありがとう。…忍人も」
「…?」
アシュヴィンはすっと空を指した。低く重くたれこめたその雲は雷雲。
「あの雷雲は、そろそろ動く。…降られぬうちに宮へ帰れ。……もしお前が風邪でもひい
て熱を出しても、今の俺は、おいそれとは見舞ってやれないから」
あとはもう、思いを振り切るようにきっぱりと彼は背を向けた。その黒い影が洞に消えて
いくのを、忍人は立ちつくして見送った。

ごろごろと、遠雷だけが切なかった。