生きる

足は、動かない。
付け根に近い方も、つま先も、ぴくりとも動かせない。
腕も、肩も、指も、動かない。
息はしている。けれど、声は出ない。
唯一動くのはまぶたで、閉じっぱなしになりそうになるのを無理矢理にこじあける。閉じ
てしまうと、もうそれきり開かなくなりそうだからだ。

なぜそれがいけないんだ。

誰かが忍人にそうささやく。

もう眠ってしまえばいいじゃないか。起き上がらなくてもいいじゃないか。

それでもいい、と忍人の中の誰かが言う。だが、何故か、何かが忍人をそうさせない。
だから忍人は、まばたきだけを繰り返す。正確には、閉じるまぶたを無理矢理にこじ開け
る作業を繰り返す。
それだけが、今の自分の意志だと。

静かだ。
ついさっきまで、ここは戦場だった。
逃がした俺の兵は、無事本隊に合流しただろうか。
俺の刀から逃げ得た敵兵たちは生きのびただろうか。それともあの深手では、そう遠くま
では逃げられなかっただろうか。

…だるい。
ああもう、何も考えたくない。何も考えられない。
……何も。

まぶたが閉じる。
忍人は無理矢理こじ開ける。
この繰り返しの中、さっきからずっと、一人の影が忍人の脳裏を横切っている。
誰かが。
まるで、この誰かのために、忍人はまぶたをこじ開けているかのようだ。

また閉じたまぶたに、…くっきりとその誰かの姿が映った。

「……!」

ヒイラギ。

彼はある日、兄弟子の羽張彦と共に一ノ姫を連れて出奔し、そのまま戻ってこなかった。

羽張彦の一ノ姫への妻問いが龍神に許されなかったから二人は駆け落ちしたのだと、宮の
者たちは言いつのり、二人の行方ばかりを捜した。柊のことなどは口の端にものぼせなか
った。
だが忍人は信じていた。あの三人が離れて生きるはずがないと。確かに、羽張彦と姫は駆
け落ちしたのかもしれない。だがどこかで必ず、この戦乱を避けて無事でいる。そしてそ
の隣には柊もいるはずだと。

あの三人はずっと共にいるのだと。

その思いが裏切られたのは、数ヶ月前のことだった。

その頃忍人は出雲にいて、中つ国の砦に使えそうな場所を探していた。一方、筑紫にいる
岩長姫は高千穂への足がかりを築こうとしており、道臣もそこに同道していた。…その彼
から、ひそかに忍人に知らせが入ったのだ。
高千穂に、常世から新たに領主が派遣された。男は土雷レヴァンタと言い、皇の族らしい
が、その元に軍師として柊がいる、と。

耳を疑った。
しかし柊と遭遇したのは道臣本人だという。他の兵ならともかく、あの兄弟子に限って、
柊と別人を見間違えるわけがない。柊は間違いなく常世に付いたのだ。中つ国を、仲間を
捨てて。

ただ。
柊が国を捨てたということは確かに衝撃だったが、それ以上に忍人に痛みと驚きをもたら
したのは、柊しかそこにいない、ということだった。
では、羽張彦は、一ノ姫は、一体どこにいるのだ。
何があってもあの三人は離れないと、どんな場所、どんな形であれ三人一緒にいるのだと、
信じていた自分の思いは。

「ふ」
初めて忍人の呼気が音を伴った。

忍人は自分の愚かしさを改めて笑う。

俺が今まで信じていたものは何だったんだ。
仲間と信じた男に裏切られ、上官に裏切られ、国に裏切られ、…今また、彼らだけはと信
じた兄弟子にまで裏切られて。

けれど、今思い出すのはその自分の思いを裏切ったどうしようもない兄弟子の顔なのだ。

鍛錬があまり好きではないといつも書庫にこもっていて、けれど手合わせを願うと、暗器
を使ったり体格差を利用したりして、必ず自分に勝とうとする。チャトランガでは勝たせ
てもらったことすらない。走るのが嫌いでたらたら歩く。ふいとどこかへ行ってしまって、
いつも人に捜させる。興味のある竹簡を読み始めると、隣で大声で叫んでいても全く気付
かない。

なぜだか、彼の悪いところばかりを思い出してしまう。

「…ふふ」
だが忍人は笑っていた。

本当に、どうしようもなくてどうしようもなくてどうしようもなくて、それでも放ってお
けない。

「…くそ」
笑い声だけでなく、声も出た。
まるでその声に応じるように、忍人の指の先がほんのわずか、ぴくりと震える。
さっきまでは全く動かなかったのに。

動いた指を、意志の力でゆっくりと曲げようとする。
ゆっくり、ゆっくりとだが、指が曲がっていく。……他の指も、それにつられるようにし
て曲がり始め、ついに、彼は拳を握ることに成功した。

「まだ、だ」

まだ死なない。まだ死ねない。
あの兄弟子にもう一度会うまでは。会って、せめて一言、叱ってやるまでは。俺は死なな
い。

闇に沈む戦場の中、まだ動かない忍人の、瞳だけが炯々と光る。
生きるために、光る。



生きるために必要なものが、最良のものであるとは、限らない。