インドの虎狩り


部室で楽器の準備をしていた律が、首をひねって上を見上げた。傍らでヴィオラを出して
いた大地が、
「どうした、律」
と声をかけると、
「いや……」
と眉をひそめる。
「ずいぶん荒れた音のチェロが屋上の方から聞こえるんだが、水嶋じゃないかと思って」
「…ハル?」
大地も思わず耳を澄ました。
猫や鳥にむかっ腹を立てているときのセロ弾きのゴーシュもかくやという弾きっぷりで、
あの几帳面な後輩の音と言われてもにわかには信じがたいが。
「気になるから、ちょっと行ってみる」
腰を浮かせる律について屋上に上がると、そこにいたのは確かにハルだった。いったい何
時から練習しているんだろう。額には玉の汗が浮いている。そして、その音の荒れ具合と
いったら。
「…インドの虎狩りだな」
思わず大地はつぶやいた。ゴーシュが動物たちに頼まれてめちゃくちゃに弾く曲だ。
律は何も言わずにつかつかと近づいて、一心にチェロを奏でて二人に気づいていないハル
の肩にそっと手を置いた。
「……っ!」
ハルがぶるりと震え、チェロの手が止まる。
「少し、休んだ方がいいな。チェロも、水嶋も」
「…部長」
「どうした、ハル。…ずいぶん音が荒れてたけど」
大地が何気なさを装って聞くと、
「別に、そんな」
ハルは強い声で言い返そうとした。が、その言葉は律の眼差しに出会って力をなくす。
「別に何もないという音なら、俺と大地がわざわざ来はしない」
「……」
律の静かな声に、少しうなだれて。
「夏のコンクールに向けて、水嶋は貴重な戦力だ。…何か不安要素があるなら、今取り除
いておきたい」
…お、うまい、と大地は思った。ハルは律にほめられるのに弱いからだ。案の定、彼はす
るりと口を開いた。
「…たいしたことではありません。ごく個人的なことで。…音楽とも関係がないんです。
それでチェロが荒れたのは、我ながら未熟だと思います」
「…」
律は無言で首を傾けた。その答えで満足しようか、もう一声説明してもらおうか、という
顔だ。悟ってか、先回りするようにハルはつぶやく。
「…僕は、この間の誕生日で十六になったんですが」
「知ってる」
と大地。
「おめでとう」
と律。
「…ありがとうございます。…ですが今朝、神社にお参りにいらした方に、『大きくなっ
たね、今度中学生?』と言われて」
大地は吹き出しそうになった呼吸を手で押さえて、あわてて飲み込んだ。
「いえ、と言いかけたら、もう一人の方に『あら、ちがいますよ。今度六年生よね』と」
……追い打ちを食らったか。
「目上の方に言い返すのは失礼だと思ってこらえたのですが、…平常心になりきれていな
かったみたいです。ご心配、おかけしました」
ぺこ、と頭を下げる、そのてっぺんに、律はなぐさめるようにぽんと手を載せた。
「水嶋はえらいな。…俺の弟だったら、相手が目上だろうが年配だろうが、わめき返して
いると思う」
眼鏡の奥の瞳が穏やかに笑う。…目を上げてその表情を見たとたん、鳳仙花がはぜるよう
に、ぽん、とハルは真っ赤になった。
「今、はき出してすっきりしただろう。…それでいい。落ち着いたら、またいつもの水嶋
の音を聞かせてくれ」
「……っ、……はいっっ!!!」
ハルの声が裏返った。
「…そんなに力まなくていい」
「…はいっ!」
声はまだ裏返っている。大地はくすくす笑い出した。
「…なんですか!」
「いや、ハルを笑ったんじゃない。…律はすごいなって思っただけだ」
「…俺?」
「そう」
「……?」
律は首をかしげる。ハルは口元に笑みをひいて、弓を持ち直す。
…風が吹いて、屋上の風見鶏をからからと回していった。