祈り


榊先輩の家は代々うちの氏子で、僕らは家族ぐるみのつきあいだ。…だから、子供の頃か
ら、先輩はことあるごとにうちの神社にお参りに来た。
正月の初詣、夏の例大祭、六月と十二月の茅の輪くぐりや大祓。…七五三だって、三歳と
五歳の二回ともちゃんとお参りしている。そのとき赤ん坊だったり幼児だったりしたはず
の僕がなぜそれを知っているかというと、先輩が七五三で参拝したときの写真がうちにも
置いてあるからだ。…よその子の七五三写真があるって、ちょっと変じゃないかとも思う
けど、そのあたりが家族ぐるみのつきあいならではというか。……ちなみに、榊先輩のう
ちには、僕が無理矢理女装させられて撮った七五三写真が残っている、らしい。……頼む
から、それはさっさと焼き捨てるとか何とかしてほしいと思う……。
……話がそれた。
そういう具合に、機会あるごとにうちの神社に詣でる先輩だが、決して信心深いわけでは
ないと思う。神社に来ることは、クリスマスやバレンタインなんかと同じ、季節行事の一
つと思っているんじゃないだろうか。その証拠に、数年前の大祓でお参りしていた榊先輩
が、祈祷中の拝殿の前で大あくびをして、隣にいたお母さんに思い切り後頭部をはり倒さ
れるのを僕は見かけたことがある。…榊先輩のお母さんは、理知的かつ明るい素敵な人だ
が、見た目より結構ワイルドだ。
……ああいけない、また話がそれた。
とにかく、先輩にとって神社へのお参りは、行事だからするけれど、退屈で面倒なしきた
りにすぎないはずだった。…宮司の家系に生まれた僕がそんなことをいうのもどうかと思
うけど、普通の人にはそれが当たり前で、そういうものだと思っていた。
…その考えが変わったのは、去年の冬だ。


境内を掃除するのが子供の頃からの僕の日課だった。冬場は夜明けが遅いから、日が昇っ
てから学校へ行くまでの間に一通り掃除をすませようと思うと、どうしても時間との戦い
になる。
その日も僕は、急いで掃除にとりかかろうと慌てて玄関を飛び出した。玄関から道路に面
した門までは平たい石を敷き詰めた道がついている。そこから境内へ向きを変え、玉砂利
を踏もうとしたその寸前に、人影に気付いて僕は足を止めた。
信心深いおじいさんおばあさんが早暁からお参りに来るのはよくあることだ。…けれど、
今拝殿の前に立つその人はすらりと背が高く、ぴしりと背筋を伸ばして頭だけを垂れ、神
妙に手を合わせて一心に何かを祈っていた。
目が慣れてきて、彼が着ている暖かそうなコートが見慣れた星奏学院の制服だと気付いた
とき、ようやく僕は、祈る人が誰かを悟った。

……榊先輩?

正直、意外だった。何でもそつなくこなすあの人が、一体何をそんなに必死に祈るのだろ
う。受験シーズンならばまだしも、まだ先輩は二年生で、そんなに切羽詰まったりはして
いないはずなのに。
祈り終えた榊先輩は、くるりと拝殿に背を向けて、僕に気付かず、まっすぐ前を向いて、
足早に神社を出て行った。…その表情のない眼差しに気圧されて、僕も声をかけることを
忘れていた。
見かけたのはたった一度。……でも、忘れられない記憶になった。


今年、東日本大会の舞台で部長の腕のことを知って、僕はようやくあの日の榊先輩の眼差
しの意味を悟った。
あの朝、先輩は恐らく、部長の腕が治ることを神に祈ったのだ。およそ、自分のことなら
ば神頼みなどしそうもないあの人が、部長のために。
けれど、部長の腕はまだ爆弾を抱えたままで。ファイナルには間に合うそうだが、演奏者
としての将来にはかなり暗雲がたれ込めていて。
…伝え聞いた部長の腕の状態と、今でもはっきりと思い出せるあの日の榊先輩の眼差しを
思うと、僕の胸はなんだかむずがゆくなる。
あの真摯さが、あの鋭いほどの祈りが、…どうして届かないんだろう。
「……」
僕は頭を振った。今僕がすべきは考え込むことじゃなく、ファイナルに向けて、自分たち
が選んだ曲を弾きこむことだ。
「…ふう」
僕はチェロのケースを抱えて屋上の重い扉を開けた。
いつもなら練習室や音楽室で練習するのだが、今日は練習室は全部ふさがっていた。音楽
室での練習は、他の音が聞こえてくることを覚悟しなければならない。気にならないこと
も多いが、今日は少しそういう気分ではなかった。どこか一人で弾けるところ、と考えて
思いついたのが屋上だった。
風がさらりと吹いていて気持ちがいい。深呼吸を一つしてから、どこか練習に適当な場所
はと見回すと、角に先客がいるのに気がついた。
「……っ」
榊先輩だ。
扉の開く音で、僕よりも先に気付いていたのだろう。先輩は僕の方を見ていて、目が合う
とゆっくりと手を上げた。
「やあ。…ハルもここで練習?」
「ええ。…榊先輩もですか?珍しいですね」
練習するのが珍しいと言っているわけじゃない。練習場所にここを選んだのが珍しいと思
ったのだ。先輩は音楽室や森の広場など、人がいるところでの練習を好む人だから。
僕のぶしつけな言葉に榊先輩は別に気にした様子もなく、へらっと笑った。
「たまにはね。音楽室も森の広場も、今日はなんだかどよんと暑くてさ。屋上のほうが風
が通って気持ちいいかなと思ったんだ。……でも、一人でヴィオラを鳴らすのにも飽きた
からそろそろ俺は退散するよ。邪魔の入らないところでゆっくり練習してくれ」
ゆっくり僕に向かってきて、すれ違おうとする榊先輩の穏やかな笑顔を見ていたら、…な
んだか無性に、さっきまで考え込んでいたことが気になり始めた。
いつもは一緒にいる部長はいない。小日向先輩も響也先輩もいない。
…聞くチャンスは、たぶん今しかない。
だから。先輩が通り過ぎる、その一歩前に。…僕は、急くように口を開いた。
「あのっ。…聞いてもいいですか」
榊先輩はふっと足を止めた。少し目を丸くしたけれど、すぐに鷹揚に笑う。
「俺に答えられることかな。…なんだい?」
「…その」
いざとなると、喉に石が詰まったみたいでうまく言葉が出ない。…でも。
「…榊先輩は、…神頼みって、効き目があると思いますか?」
「……っ」
ふっ、と息を吸って。…榊先輩はまじまじと僕を見た。…それから、ゆっくり、ゆっくり、
何かを察した様子で目をすがめて。
「ひどいな、ハルが俺にそれを聞くのかい?…逆じゃないか?」
軽い調子で笑いながらからかおうとしたはずの声は、痛みが勝っていてお世辞にもうまく
笑えているとは言えなかった。
「…あると思いたいな」
噛みしめるような声は、僕の知らない榊先輩だった。
「あると信じさせてくれると嬉しいよ、ハル」
くしゃ、と僕の頭を撫でた榊先輩の手を、まるで知らない人のそれのように大きく強く感
じて、僕は少しうろたえる。子供扱いされたことを怒るよりも、いつのまにこの人はこん
なに大人になってしまったのかと、はっとするばかりで。
「…聞きたいことはそれだけ?……じゃあね」
去っていく背中の広ささえ、なんだか知らない人に見えて。
……僕はただ、立ちつくした。