一瞬の永遠

斜め向かいの信号で立ち止まっている少年二人を見て、風早はおや、と思った。その片方
が忍人だったからだ。
二人は何事かを話しているようだった。…いや、話しているのはもっぱらもう一人の少年
の方で、忍人は首を横に振ったり少しかしげたり、困惑しつつ言葉少なに否定している様
子だ。
とりあえず風早は自分が目指す方向へと道を渡った。忍人たちの斜め向かいの位置から、
信号を挟んで向かい合う形になる。本当ならそのまま家へ向かうのだが、あえて足を止め
て、忍人に向かって大きく手を振った。話し込んでいる様子だったので気付かないかと思
ったが、話し相手から目をそらした忍人がはっとしたそぶりで、軽く右手を挙げた。
信号が変わる。
きびきび歩く忍人の横を、少年もすたすたと歩いてくる。…その姿勢の良さを見て、おそ
らく彼も武道の経験が何かあるのだろうと風早は思った。
「風早、今家に帰るのか?いつもより早いな」
渡り終えた忍人に話しかけられて、風早はいつもののほほんとした笑顔を見せた。
「またバイトに行くよ。ちょっと忘れたものがあって取りに戻るところ。…クラスメー
ト?」
小首をかしげて少年を見ると、彼はにぱっ、と太陽のように笑った。
「クラスメートで、もうすぐチームメイトです」
「…羽田」
忍人がまた少し困った顔になる。ははは、とまた笑って、彼も少し不思議そうに首をかし
げた。
「…ええと、…葦原の、お兄さんですか?」
「俺?…従兄弟だよ」
「ああ、そっか、家から通えないから従兄弟同士で下宿してるって言ってたっけ、そうい
や。…従兄弟と一緒に帰るよな、葦原?」
聞いておいて、忍人の返事は聞かずに、
「じゃあ、俺は今日はこれで。また明日な!」
ぶんぶん、と大きく手を振ると、彼は颯爽と走っていってしまった。ふう、とため息をつ
いた忍人が、さっきまでの困惑の様子とは少し変わって、かすかにまぶしげな様子で彼の
背中を見つめていることに風早は気がついた。
「…悪かったね、せっかく一緒に帰るところだったのに」
そっと声をかけると、いや、と忍人は首を横に振った。
「…正直、…ちょっと助かった」
風早はぱちぱちと何度かまばたいた。…そういえば、信号の向こう側でも、忍人は少し困
った様子だった。
「何故?」
「…ずっと、剣道部に勧誘されているんだ」
この間、授業で剣道をやって、その昼休みからずっと。
「放課後は彼も部活だから勧誘してこなかったんだが、今週から試験前で部活が休みで」
夜討ち朝駆けの勢いで勧誘されているということか。風早は思わず笑う。
「そりゃ君なら、俺が彼でも勧誘したいよ。…ダントツに強かったんだろう、忍人」
からかう目を向けると、忍人は真面目に首を横に振った。
「そうでもない。いつも負ける」
風早は目を丸くする。…年少ながら将軍を任されたほどの彼の剣の腕だ。こちらののんび
りした学生たちが相手になるとはとても思えない。
風早の不審げな様子に、忍人は肩をすくめた。
「こちらの剣道は競技だ。…俺はいつも反則負けだ」
今度は風早は吹き出した。が、忍人が憮然とした顔になったので、ごめんごめん、と謝っ
て、慌てて顔を引き締める。
「でもまあ、反則負けっていうのは、反則しなければ勝ってるってことだ。…竹刀でも君
の太刀筋は変わらないだろう?彼が本気で剣道が好きなら、さぞかし君と一緒に競いたい
だろうと思うよ。…いいじゃないか、入ったら?忍人だって、一人で鍛錬するより、たと
えそれが木刀や竹刀でも、相手がいた方が張り合いになるんじゃないか?」
風早のその言葉には少し心を揺らしたようだが、忍人はまた首を横に振った。
「…やはり駄目だ。帰りが遅くなる。…那岐と姫だけ、ずっと家に残すのは心配だ」
風早は眉間にかすかに苦さを浮かべつつ、ゆるりと歩き出す。…忍人は傍らをおとなしく
ついてきた。
「…深夜になるわけじゃないだろう。…少しくらいかまわないよ。何なら、食事当番を口
実にして、週2回か週3回の参加にさせてもらえばいい。…彼のさっきの熱心さから察す
るに、君さえ部に入ってくれるなら、多少の譲歩はしてくれるんじゃないかな」
また忍人の心が傾ぐ様子だった。…だが、また彼はきっぱりと首を横に振った。
「……やっぱり、…駄目だ」
その様子はあまりに頑なで、風早はそっと眉を寄せた。
「帰りが遅くなることの他に、駄目な理由があるってことかい?」
「………」
忍人は唇を噛んで言いよどんだ。風早に合わせてゆるゆると歩んでいた足が止まる。うつ
むいて、…迷い迷い、彼は言った。
「…楽しそう、だから」
「……!」
風早にとってそれは、少し思いがけない、けれど非常に腑に落ちる理由だった。
何か言わねば、と焦りながらも言葉が一瞬見つからない風早に、忍人の方から話しかけて
くる。
「……風早」
低い声で言って風早を見るその瞳は、あの日、豊葦原からここに連れてきたばかりのとき
と同じ色をしていた。月も星も出ていない、闇夜の海の色。焦点の定かでない感情を失っ
た瞳。
「…俺は、何のためにここにいるんだろう」
「……!」
………それはね、俺のエゴのためだよ。
心の中で風早は即答していた。口に出しては何も言わず、ただ黙って、忍人の暗い瞳を見
つめ続ける。
こちらの世界で千尋を守るだけなら、自分と那岐で事は足りたのだ。だが、自分たちが異
世界へ跳んだ後、忍人の身の上に起こることを考えると風早は耐え難く、…エゴを承知で、
彼をもこちらに連れてきた。
…おそらくは、既定伝承の自浄作用のために、豊葦原に戻るとき、忍人だけは元の時間に
元の姿で戻されるのだが、もしかしたら、…上手くしたら、そうはならないかもしれない
と、一縷の望みを持って。
「…向こうできっと、みんな戦っている。…師君も、道臣殿も。……俺は、姫を守るため
にこちらにいるはずなのに姫を守りもせず、ただ学んで」
心を殺していても、きっとその日々は楽しいのだろう。新しい世界で新しい知識を得るこ
と。気の置けない多くの友人も出来たに違いない。あの太陽のような少年を見ればわかる。
…ここの暮らしが楽しくて、楽しいからこそ、忍人は自分を責めるのだ。
これでいいのか。…俺はここにいていいのか、と。
君が自分を責めることはないのに。…責められるべきは俺なのに、と、…わがままな麒麟
は思う。
俺はね、忍人。…君に笑ってほしいんだ。ここで楽しいと感じてほしいんだ。
それはきっと、うたかたの泡のように君の中から消えてしまう記憶だけれど。消えてもい
いから、…いや消えるからこそ、君に少しでも長く、少しでも多く、幸せな時間をあげた
いんだ。
風早は一度目を閉じ、また開いた。いつもどおりの穏やかな表情を浮かべて、忍人をのぞ
き込む。ぼんやりと失われていた忍人の瞳の焦点が、ふっと風早に合った。
「…忍人。…君は、姫が何故ここに来たのかはわかるかい?」
「……?……常世から、姫を守るためだろう」
「一つにはね。…もう一つは、中つ国の有力者から姫を守るためだ」
「………?」
忍人は首をかしげた。
「彼女は中つ国の女王の血筋の唯一の生き残りだ。彼女を庇護した有力者は必ず、彼女を
旗印に据えて、常世から中つ国を奪還する戦いを起こそうとするだろう」
それは、いい。いずれはその戦いは起こされねばならない。…だが。
「今の千尋はあまりに幼い。判断力も人を見る目も、まだまだ養われてはいない。そんな
彼女を見つけたら、…中つ国の貴族たちなら必ず、彼女を傀儡にしようとするだろう。自
分で判断できる君主でなく、お飾りの王として祭り上げられるだろう」
俺はね、中つ国のため、姫のために、それはあってはならないことだと思う。
風早がそう言うと、忍人も力強くうなずいた。目に力が戻ってくる。
「だから俺は姫をここへ連れてきた。常世からも中つ国からも、完全に彼女を隠しおおせ
るようにね。姫には時間が必要なんだ。彼女がもっと君主として幅広い見識を得るための
時間。人として成長し、お飾りではない本当の君主として中つ国を取り返し、治めるため
にね」
うん、とまた忍人がうなずく。その表情を愛おしげに見つめて、…風早は言葉を継いだ。
「…そしてね、忍人。姫に時間が必要なように、俺は君にも時間が必要だと思う」
「……?」
じっと風早の言葉に聞き入っていた忍人が、不思議そうに目をみはった。
「…君もたぶん薄々は気付いているだろうけど。…羽張彦と柊の失踪と、常世の土蜘蛛の
裏切りは、君をひどく動揺させている。……君は子供の頃からとても冷静な判断力を持っ
ていたのに、その判断力が、あの事件以来曇ったままのように俺には思える」
「……」
忍人はひどく悔しそうな顔をする。だが、口に出しては何も言わなかった。
「君にも、君を取り戻す時間が必要だ」
「……風早」
「………だから、君はここにいる」
忍人は迷うように、ぎゅ、と目を閉じた。風早の言葉をじっと、何度も、胸の中で噛みし
めるように。
「風早」
やがて開いた忍人の瞳は揺れていた。自分を許してもいいのかと、…この世界で、俺は笑
ってもいいのかと。
風早は笑った。…相手に何も言えなくさせるような笑顔の煙幕。
「おそらく君が君らしさを取り戻すには、姫の成長ほど時間は必要ないだろう。だから、
君は姫より先に豊葦原へ帰ることも出来るかもしれない。だが、君の傷が癒えても、俺は
君にここで、共に姫を守ってほしい。…君ならその選択を是としてくれると、俺は信じて
いるんだけどね」
忍人はまたぎゅっと目を閉じた。
風早は黙ってその様子を見つめる。
…さほど長いサボタージュになりはしない。
心の中で、そうつぶやく。
俺たちの一生の中で、この時間はきっと、まばたきほどの一瞬にすぎないだろう。だがき
っと、そのまばたきは俺たちの中に永遠の何かを残す。
…忍人。どうか許してくれないか。ここにいる自分を。
俺はひどいことをして、ひどいことを言っている。だから俺のことは憎んでも軽蔑してく
れればいい。
…だが、自分のことは許してくれないか。君に咎はない。君はただ、俺に無理矢理連れて
こられただけなんだから。
そしてどうか、楽しいと感じる自分を責めないでほしい。君はここで笑っていい。誰にも
それを責める権利はない。それが神であっても。既定伝承であっても。
忍人がゆっくりと目を開けた。日の光に一瞬まぶしそうにまた目を細めて、だが、きっぱ
りと何かを決意した目で、再び目を大きく開く。
背筋がすっと伸びた。頬の線に、まだかすかな惑いが見られたけれど、それでも彼は前を
向いて、胸を張った。
…ちらりと腕を見て、時間を確認して。
「…帰ろう、風早。たまには那岐や姫より先に帰って、二人をびっくりさせよう。…それ
から」
忍人は一瞬言葉を切って、…確認するように風早を見た。
「…明日、羽田に話をしてみようと思う」
穏やかに言う忍人の背を、そっと風早はたたき、うなずく。
…二人は、まっすぐ前だけを見て歩き出した。