祝う日

僕には生まれたときの記憶がある。
正確には、記憶というほど大層なものじゃなくて、感情とか感覚とかそういうもの。
何も見えない真っ暗闇、閉じこめられている閉塞感とこもったような古びた籠の匂い。激
しく流れる水の音。
そのどれもが、体に心地よいものではなかった。不快と恐怖にしかつながらない記憶。
成長してからもそうだ。幸い僕は師匠に拾われて一命を取り留めたわけだけど、師匠はそ
のために閑職をたらい回しにされ、危険な戦場に送られ、あげく、命を落とした。
だから僕は、自分が生まれてきて良かったと思ったことなんか一度もない。

生まれてきて良かったと思ったことなんか一度もない。
たった一度だけ、千尋にそう言ったことがある。
千尋が僕の誕生日を知って、お祝いしようと言ってきたときだ。
祝われるなんておっくうでめんどくさい、っていう理由で彼女にそれを言ったことは今で
も少し反省している。でも、そのときの千尋の反応は僕の予想を超えていた。
最初千尋は何も言わなかった。けれど見開かれた目からぽろぽろぽろぽろ涙がこぼれて、
彼女は小さな拳で僕の胸をどん、と叩いた。どん、どん、と何度か続けざまに叩いてから、
とうとう声を上げて彼女は泣き始めた。
その声に驚いた風早と忍人が顔を覗かせて、理由はさておき現況を見て取った風早が、急
いで千尋を他の部屋へ連れて行った。忍人は残ったものか僕のために部屋を出たものか少
し躊躇した様子だったが、結局その場に残って僕と向き合う場所に座り込んだ。
沈黙が続く。…いつもなら忍人との沈黙は苦でなかったが、さすがに気まずくて、聞かれ
もしないのに僕はぼそぼそと状況を説明した。
忍人は説明に区切りがつくまで、腕を組んで黙って聞いてくれた。僕が話し終えて黙り込
むと、しばらく目を閉じてから、ぽつりぽつりと話し始めた。本当は自分が言うより風早
から説明された方がいいように思うが、たぶん彼は千尋をなだめるのに時間がかかるだろ
うから、と前置きして。
…その時初めて僕は、彼女が宮では忌避された存在であったこと、口さがない連中から生
まれてこなければよかったとまで言われていたことを知る。宮に近寄ることもない君が知
るよしもないことだ、だからあまり自分を責めるなと、忍人はぎこちなく慰めてくれたが
しかし、同じような外見を持ち、そのことで忌避されて鄙びた山里に隠れるように暮らし
ていた僕には、想像がついてしかるべきことだったのではないか。
千尋は姫だから、誰からも愛されて慈しまれて、祝われることにも慣れているんだろうと
思った自分が、僕は恥ずかしくていたたまれない気持ちになった。
しばらくして戻ってきた風早は、僕の顔と忍人の顔を見比べて、俺が何か言うまでもなさ
そうだね、と優しく、しかしどこか苦さを含んだ顔で笑い、
「千尋は落ち着いたよ。…でもしばらくそっとしておいてあげて」
「…うん」
僕はこくりとうなずいた。

以来、僕と千尋の間で、誕生日に関する問答はタブーとなり、彼女がいそいそと準備する
三人の(さすがに自分の誕生日は彼女はプロデュースしない。そっちは主に風早ががんば
る)誕生日の手伝いを粛々と僕もしているけれど。

「…やっぱりさ、何で誕生日なんか祝うんだろう、とは思うんだよね」
ケーキを取りに行く忍人について歩きながら、僕は思わずぼそりと言った。
自分の誕生日の時は本当は何もしなくていいそうなのだが、一人部屋にこもっているのも
手持ちぶさたで、かといってパーティの準備をしている千尋の手伝いはさせてもらえない
ので、何となく忍人についてきてしまった。忍人も別に来るなとは言わなかったし、千尋
も手持ちぶさたな僕の気持ちをわかってくれているのか、ケーキは見ないでね、とだけ念
を押して行かせてくれた。以前忍人の誕生日にケーキを焼いて失敗して以来、彼女はケー
キは本職に任せることにしたとみえて、必ずお気に入りの店に注文する。
「生まれたことを祝うなら、生まれたその日に一度だけ祝えばそれでいいと思うんだ」
最近、忍人にいろいろ言う癖がついた。何故かというと、千尋に言えないことは基本的に
風早にも言ってはいけないことのような気がするからだ。本当は言ってもいいのかもしれ
ないけど、風早は千尋をとても大切に思っていて、僕はその千尋を泣かせた負い目がある
から、どうしても言いにくい。その点、忍人には結構ぶっちゃけた話も言える。もちろん、
忍人がじっと黙って聞いていてくれるいい聞き手だってことも大きいけど。
今日のこれは単なる愚痴で、別に真面目に返答がほしいわけじゃなかった。ただ口に出し
たかったんだ。千尋や風早に聞かれるかもしれないところでは絶対に言えないことを吐き
出したかった、それだけ。
だから忍人が黙りこくっていてもなんとも思わなかった。というかむしろ、返事はないだ
ろうと思ってた。
なので、
「…それだけではない、と思う」
突然忍人がつぶやいたので、逆に驚く。
「…え」
忍人は足を止め、僕を振り返った。普段から彼の瞳は感情が出にくいが、今日もやはりそ
の瞳からは彼の考えていることが読み取りづらい。
「誕生日は生まれてきてくれたことを祝う日だと言われるし、それももちろん大切な理由
だろうが、もう一つ、祝う理由がありはしないか」
「…て、…何?」
「一年間の成長」
つぶやいて、彼は僕が常に御統を隠し持っているポケットをひそり指さす。
「…」
僕は、…ぽかんとした。
「たとえば、去年の俺より今年の俺の方が、背も目方も増えて鍛練を重ねたから確実に強
くなっていると思う。……君の鬼道はそう単純なものではないだろうが、それでも去年よ
りは今年の方が強くなっているだろう」
それだけではなくて、と珍しく彼は言葉を続ける。
「人の気持ちを理解したり、誰かの思いを慮ることが出来るようになったり、…いろんな
ことが少しずつでも成長している。それを改めて確認し、祝い喜ぶ日…でもあるかなと」
もちろん、それが実際に誕生日である必要はない。現に、豊葦原にいたときはそれは元日
あるいはおおつごもりの日に確認することだった。
「だが一年に一度、自分の成長を確認し、自分をほめる。…そういう日があっていい。…
俺はそう思う」
というか、そう思うことにした。
言って、忍人は初めてふっと笑った。
「実は俺も、誕生日を祝われるのは照れくさかった。……でも、千尋があんまりうれしそ
うに祝ってくれるから、彼女を守るために自分が以前よりも強くなったことを確認する日
ならあってもいい、…そう思うようになった」
忍人の手が伸びてきて、ぽん、と僕の頭を撫でる。そしてその手でなんとなくうれしそう
にぐしゃぐしゃと僕の髪をかき乱して、
「去年より強くなった那岐に、…おめでとう」
優しい目で、笑ってくれた。
じわじわと、胸が熱くなる。
これが、祝われてうれしいという気持ちだろうか。
僕はずっと、自分が生まれてきたことを憎んできた。生まれない方が良かったと思ってい
た。だから生まれてきたことを意識せざるを得ない、誕生日が好きになれなかった。
だけど僕はこうして生き長らえていて。昨日よりも今日、今日よりも明日、少しずつでも
体も心も強くなっていく。誰かを守るために鬼道を修め、師匠以外の誰かを愛せる人間に
なり始めている。
その成長を祝ってくれる人がいる。
ひどいことを言った僕を、それでも大切に祝ってくれる人がいる。
「…」
僕は胸に手を当てた。どきどきと、少しだけ早くなった鼓動を感じて、笑う。
…うん、たぶん。
……うれしいというのは、…こういう気持ちだ。
「…行こう、那岐。…あんまり遅くなると、千尋が無駄に心配する」
「無駄にって」
その言い方に僕は思わず笑ってしまった。でも確かに、そんな感じ。
足を速めてケーキ屋に向かう忍人を小走りに追いながら、僕は小声で言った。
「ありがとう、忍人」
小さい声がたしかに届いたのかどうか、忍人は何も言わなかった。けれど、一瞬振り返っ
てふわりとゆるんだ目が、ちゃんと聞こえたと言ってくれているみたいで、僕の胸をまた
熱くさせる。
千尋、風早、それに、今はもういない師匠。僕の大切な、すべての人たち。
僕が生まれたことをとがめたのであろう、顔も知らない誰かのことはもう忘れよう。僕が
一日一日を生きていくことを喜んでくれた人が、これからも喜んでくれる人たちが、僕の
傍にいてくれるのだから。

生まれてきて良かったと思ったことはない。
だけど、生きていて良かったと思う。今日も、これからも先も、ずっと。