出雲の祭り

あたりは、様々なにおいと音と人いきれでごった返していた。こんなにたくさんの人が一
度に集まっているのを見るのは、豊葦原にきて初めてかもしれない、とふと思う。天鳥船
にもたくさんの人間がいるのだが、あそこではただ千尋が立っているだけでも、「姫があ
ちらにおられるぞ」と注目されてしまう。だがこの喧噪の中では、誰も千尋に注意を払わ
ない。ぼんやりと人混みの中にいて、様々な会話を聞くともなしに聞いているというのは、
意外と心地のいいものかもしれない、と、千尋は思った。
…思ってからはたと我に返る。
「…あれ」
どうやら、自分は一人で取り残されているようだ。
「みんなどこにいっちゃったんだろう」
うろうろと辺りを見回すが、人が多すぎて、すぐには見知った顔は見つけられない。
千尋はとりあえず、祭りを見物がてら、知り合いを捜すことにした。
祭殿の方に行けばシャニがいるのはわかっている。その手前で、千尋は足を止めた。
サザキが日向の仲間たちを引き連れて、何か大きな声を上げていた。棒のようなものを選
んでいるようだ。少し見ているだけで、それはどうやら賭け事の一種なのだと見て取れた。
サザキが大きな声を出して盛り上がっているところを見ると、どうやらいい目がきている
ようだ。ここはじゃまをするまい、と、千尋はそっとその場を離れた。
その奥の屋敷からは、聞き覚えのある大きな声が響いている。岩長姫だ。さっき、弟子た
ちを引き連れて飲み会を始めたはずだ。
「ということは、風早と柊はあそこね。…忍人さんと道臣さんもあそこかな」
忍人がいれば、「一人でふらふら歩くな」と叱られただろうが、あそこで岩長姫に捕まっ
ているなら安心だ。
…そう思ってから、千尋は自分で自分に少し苦笑した。
「とりあえず、忍人さんに叱られることはデフォルトになっちゃってるんだな、私って」
本当は叱られたくないんだけどなあ。ぼんやりとそう思う。
さすがは姫、とほめられることはないにしても、せめて、一度も叱られないで会話したい
なあ。
忍人が何事にもひどく厳しいのは、その奥底で相手を大切に思っているからだとはわかっ
ている。足往も含めた狗奴の兵たちの忍人への心酔ぶりを見るまでもない。高千穂から筑
紫をこえて、この出雲までともに旅してきたのだ。同じ戦場を戦っていれば気づく。忍人
は元来とても優しい人間なのだと。
だからこそ厳しくされても嫌いにはなれない。むしろ足往のように、素直に慕いたいと思
う。が。
「…怒られちゃって、ごめんなさい、って謝るくらいしか、いつも会話がないんだもの」
本当は、もっといろいろ話してみたい。忍人が岩長姫に教わってきたこと。自分が暮らし
ていた異世界のこと。子供の頃の忍人や、その頃の風早や柊の話。……それから…。
「……」
ふるふる、と、千尋は首を横に振った。
何にせよ、他愛ない話題が持ち出せる雰囲気になることは未だかつてない。これからもな
いかもしれない。軍の布陣の話、鍛錬の話、次の戦の戦術の話。それ以外の話題を持ち出
したら、きっとまた「君は自覚があるのか」と怒られるに違いない。
「…ふう」
千尋はため息一つ落として、気を取り直した。
とりあえず、屋敷の中に入っていくのは遠慮することにした。千尋が行けば、岩長姫は、
千尋が未成年だろうが何だろうが酒を勧めるような気がしたし、捕まったままでは祭りが
楽しめない。
屋敷の前をこっそり通り過ぎ、千尋は他の仲間を捜す。
夕霧が、小間物屋の屋台の前で美しい布を検分している。一枚見ては脇にどけ、また一枚
選び取っては悩む。
「おしゃれ、好きなんだなあ、夕霧」
彼女はいつも美しい服を着ている。それも一着や二着ではない。異世界ではよく見かけた
がこちらではあまり見かけない、薄くて光沢のある絹のような布でできた服も持っていた。
どこで手に入れたのかと聞いたら、秘密や、と、笑ってごまかされてしまったが。もしか
したら、サザキが探している大陸のものかもしれない、と思う。
夕霧の様子があまりに真剣そうなので、どうも声をかけそびれ、千尋はまたそっとその場
を離れた。
少し離れたところにカリガネがいる。何かの料理を出している老媼に質問しているようだ。
また料理の種類を増やそうとしているのかもしれない。遠夜は木の下に一人でいるが、唇
が動いている。誰かと会話しているように見える。もしかしたら妖しと会話しているのか
もしれない。
あと見つけていないのは、那岐に布都彦、足往。
「那岐は…こういうの嫌いだろうなあ、まちがいなく」
どこか村の外にでも避難して、合図を待っているに違いない。
「布都彦は、どこかで鍛錬かな」
日々の鍛錬が大事です!と言って、祭りの音やにおいに目もくれず、槍を振っている姿が
目に浮かぶ。
「…うーん、でも、足往は?」
彼は、忍人にべったりくっついている姿しか思い浮かばないが、忍人と一緒に岩長姫と飲
んでいるとも思えない。村の中はざっと一通り見たつもりだが、あの茶色い耳と尻尾は見
あたらなかった。
「…村の外かな?人いきれにでもあたったのかしら」
そう思って、千尋は何気なく村の外に出た。

前方に、狗奴たちの姿があった。
「あ、足往、に、布都彦も。……と」
…あ、あれ?
狗奴の一団の中に、宵闇のような紫紺色の姿。
「…忍人さん…」
岩長姫のところに行かなかったんだ。
……まあ、忍人が酒を飲んで騒いでいる図というのも想像がつかないが、てっきりあちら
にいるとばかり思っていた千尋には少し意外だった。
いつも厳しい顔で軍の指揮をしている姿しか見ていなかったが、今日は多勢を率いていな
いせいか、磐座への道がつながるまでの時間をもてあましているのか、少し穏やかな顔を
している。
…もしかしたら、今なら、…話せるかもしれない。
そのとき、なぜそう思ってしまったのか千尋にはわからない。もしかしたら単なる脊髄反
射かもしれない。……後々考えれば、その後の展開くらい容易に読めたはずなのに。
…でもそのときは、今なら忍人とゆっくり話せる気がして。つい声をかけてしまったのだ。
「忍人さん」
「二ノ姫」
やはり。
いつもに比べておだやかな声で応じられ、千尋は気持ちが浮き立つのを感じた。
「こんな村の外にいるとは思いませんでした。お祭り、見ないんですか?」
「磐座に行くのが目的だからな」
そっけない返答だが、それでも、会話に応じてくれる。
「でもせっかくですから。お祭り、一緒に回ってみませんか?」
忍人ははっきりと呆れた顔をした。
「君も物好きだな」
……え。
「せっかくの祭りの夜だというなら、俺など誘ってもおもしろくもないだろう」
……うわあ。自覚あるんだ、と千尋が思わず苦笑しかけたときだった。
「…ん?…しかし」
忍人が何かに気づいた様子に、千尋の頭の中に危険信号が点滅する。
……あ、やば。
「なぜ君は一人でここに?風早はどうした」
これは、やばい。
やばいと思いつつ、うろたえるともっと追求されそうなので、とりあえずにっこり笑って
応答してみる。
「風早は村の方にいると思います。岩長姫や柊と一緒にいるんじゃないかな」
忍人の柳眉がつり上がった。
…あ、…来る。
「それで…君は供もつけずに一人でふらふらと祭りの見物をしているというのか?君には
一国を担う姫としての自覚はあるのか!」
どかーん!
落ちた雷にしょんぼりする暇はなかった。勢いに任せて忍人がとんでもないことを口走っ
ていたからだ。
「わ、お、忍人さん、だめです。大きな声で言っちゃ。このへんには知ってる人しかいな
いけど、一応秘密なんですから」
出雲にいる間は、極力意識して「君」と呼んでいた忍人だが、怒りが沸騰したとたん、大
切な注意事項が吹き飛んだらしい。
「そうだったな、すまない」
さすがの忍人も声を鎮めて謝罪した。が、その謝罪の言葉が千尋の耳に届いたか届かない
かのうちに、
「だがいくらなんでも無用心に過ぎる。船の中ならまだしも、ここは見知らぬ村だ。泥酔
しきって羽目を外した連中もいるだろう。少しは警戒心というものを持ったらどうだ」
くどくどといつものお説教が始まる。
……ああ…なんとなく予想はついてたけど、やっぱり怒られた。
最近ではなんとなく怒られなれてしまった感もあるのだが、さっきうっかり、「今日はい
けそうかな」と思った分、ショックは大きい。千尋はしょんぼりうなだれた。
やっぱり、忍人さんとお祭りを見て回ろうなんて、無謀だったんだ…。
考えればわかるはずなのに。私のバカ。
だが、しょげかえる千尋に、忍人は思いがけない言葉を投げた。
「…仕方があるまい。俺がついて行こう」
「……はい……。…えっ?」
がば、と千尋は顔を上げる。忍人は眉をしかめてそっぽを向いているが、もう怒った顔で
はなかった。
「祭りの興がさめるかもしれないが、それくらいは我慢してくれ」
いや我慢とかそんなことないですから!ていうかそれってつまり、一緒にお祭りを見て回
れるってこと!?
千尋が急展開について行けずに口をぽかんと開けていると、狗奴の一人に何事かを指示し
てから忍人が千尋に向き直った。
「行かないのか?」
「い、いきます!」
千尋はあわてて、きびすを返す忍人の後を追った。

そのまま、忍人から一歩遅れてついていこうと思った千尋だが、苦虫を噛み潰したような
顔で「離れられると警護しにくい」と言われたので、とりあえず並んで歩く。
…知らない人が見たら、恋人同士に見えるのかな。
…こっそり思って忍人の顔を見上げたが、
「……」
むっつりと不機嫌なその横顔で隣に立たれたのでは、とても恋人同士には見えまい。
はあ、と少し肩を落とした気配が伝わったのだろうか。
「すまないな」
千尋を見もしないで、忍人が言った。
「え、何がですか?」
「やはり俺が一緒では、祭りを楽しむというわけにはいかないだろう」
しかめつらは、千尋の行動に怒っているからというわけではなく、今の状況に困惑してい
るからだったらしい。
「本当なら、風早がいるのが一番なんだが、…師君につかまっているなら、やむを得まい」
…岩長姫がやらかすことには、さすがの忍人もあまり強く意見できないと見える。
「でも楽しいですよ」
「無理しなくていい」
「ほんとです。一緒にお祭りが見られるなんて思わなかったから。楽しい」
「……そういうものか」
言外に、よくわからん、と言われた気がしたが、千尋は気にならなかった。単に危険を避
けているだけだろうが、さりげなく千尋を歩きやすいところへ誘導してくれるその仕草が
なんだか優しい。
「それに、この機会に聞いてみたいこともあったし。いつも、面と向かってだと、用事が
あることしか話せないから」
「…なんだそれは」
用事ではないことを話すというのはどういう意味だ。
「だっていつも、布陣の話とか、次の行き先の話とかしかしないから。……私、忍人さん
に、私の姉様のことを聞いてみたかったんです」
「……君の、姉上?」
思いがけない言葉だったのだろう。忍人は少し足を止めて千尋をのぞき込んできた。
「……おかしいですか?…なぜかな、異世界にしばらく行っていたせいかな。…私、姉様
のこと、あまり思い出せないんです。…一緒に育った姉妹のはずなのに」
…いや、一緒に育ったという記憶がそもそもないのだ。橿原宮での記憶は、迷子になるた
びに風早が迎えにきてくれたことをのぞけば、いつも、母にも会わず、姉にも会わず、あ
まり話しかけてくれない采女たちに囲まれていただけのように思う。
「俺なんかより、風早の方が詳しいと思うが。彼は、岩長姫のところにいないときはずっ
と宮に詰めていたはずだ」
「ええ。私のところに。……だから、姉様のことは余り知らないって、風早は言うんです」
……そんなはずはないと思うが、と忍人は呟いたが、一の姫のことを千尋が聞いて風早が
そう答えたのは事実だし、忍人も再度念を押すほどの強い疑念は持てなかったらしい。次
の手を打ってきた。
「君の姉上のことなら柊に聞くといい。柊は君の姉上と親しかった」
「…ええ、柊に聞いてもいいんだけど…」
そう、聞こうかと思ったこともあったのだが。
「なんだか、はぐらかされてしまいそうな気がする」
本当のことも教えてくれるだろう。でも、本当に聞きたいことは教えてもらえないかもし
れない、と思うのだ。
「それに、忍人さんが知っていた姉様を知りたい、と思うんです。それが一番飾られてい
ない姉様のような気がするから」
忍人は、千尋のその言葉を聞いて、目を見開いた。
「……君たちは、…そっくりだな」
君たち。……たち?
「姉様と、私がですか?」
「いや、唐突だったな、すまない。似ているのは君と布都彦だ」
「…私と、布都彦?」
「ああ。…少し前に、布都彦に、彼の兄の羽張彦のことを聞かれたんだが、今君が言った
のとそっくりなことを言い出して…」
忍人は少し目を伏せた。そうしていると、微笑んでいるようにも見える。
「それに、何というかな、…年下の弟妹らしいというか、…君たちは二人とも、見かけに
よらず甘え上手だ」
「えっ、そうですか?」
…確かに、ずっと風早に甘やかされていたようなものだけど…。でも布都彦もそうかなあ?
思わず千尋が考え込んでいると、忍人はそのまま言葉を続けた。
「しかし、羽張彦のことはともかく、俺は君の姉上とは本当にほとんど面識がない。一度
か二度、師君の屋敷にいらしたときにお目にかかったくらいで」
「…姉様が、岩長姫の屋敷に、ですか?何のご用で?」
忍人は肩をすくめる。
「ご用などなかったさ。…しいていえば、羽張彦と柊にさらわれるご用、かな」
「え?」
「もっとも、合意のもとだが。君の姉上を気晴らしに連れ出したんだ。護衛やお付きの采
女の目を盗んで」
……ええ?
「それがうまくいったというので、どんどん出かける先が遠方になっていった。忍坂に、
宇陀、室生……。挙げ句の果てには熊野の天岩楯まで足を伸ばして、さすがにいないのが
ばれて大騒ぎになったな」
熊野って、和歌山だよね。いや待って、異世界と同じ距離感ではないのかな。でももし同
じくらいの距離なら、橿原から和歌山の南の端っこくらいまで歩いていったってこと?そ
りゃ、ばれるよね。
「姫の姿で遠出すると目立つからといって、俺の服を持って行ったこともあった。その頃
の俺の背丈はちょうど君の姉上くらいだったから」
男装。そんなこともしたんだ。
「……意外…」
「そうだな。俺も最初は驚いた。中つ国の姫は巫だから、宮の奥で静かに祈りを捧げてお
られるものだとずっと思っていた。…君の姉上に会うまでは」
忍人は千尋を見下ろした。
「おかげで、君の行動を見てもさほど驚かずにすんでいる」
「そうですか…って、どういう意味ですか、忍人さん!」
「それより、祭りを楽しむんじゃないのか?」
ふと気づけば、もう村の真ん中あたりまできている。ごまかされた気もするが、忍人の言
葉で周囲に注意を引き戻されたとたん、夜風にただよういいにおいに千尋は夢中になった。
「そうですね、ちょっとあっちをのぞいてみます。なんだか甘いいいにおいがする」
「にの…いや、…ああ、あまり離れるな」
二ノ姫、と言いかけたのだろう、…あたりを気にして忍人は言葉を濁し、話しかけるかわ
りに千尋の後を追って大股で近づいてくる。
…姉様は、柊や羽張彦さんから、名前で呼ばれていたのかな。
ふと、千尋は考えた。
お忍びで出かけているときは、一ノ姫、なんて呼ぶとばれるよね。きっと名前で呼んでた
んだよね。
むっつりと自分の隣に立つ姿を見上げて、千尋は思う。
忍人さんも、いつか私を名前で呼んでくれるかな。…呼んでほしいな、名前。
今はさすがに言い出す勇気がないけれど。…いつか、頼んでみようかな。
老媼に話しかけられて、甘いにおいのぶどうのおやつに歓声を上げながらも、千尋は心の
隅でぼんやりとそう考えていた。