神鹿

「柊殿、今日はもうお仕事は終わられたのですか」
竹簡を片付けて部屋を出た柊に話しかけてきたのは、庭を掃いていた少女だった。お仕着
せの服がまだ身の丈に合っていない。言葉もどこか抑揚が違っている。
狭井君の邸はどうも、宮に入る前の采女たちの礼儀作法教室を兼ねているらしい。遠方の
豪族の娘達はいったんここに送られ、橿原風の言葉遣いや必要な知識、仕事のやり方など
を仕込まれてから宮に入ることになっているようなのだ。年配の数人の下女を除いて、年
若の少女達はひっきりなしに入ってはまた替わっていく。どこに行くのだろうと少し不審
に思っていたら、見知った顔に宮でばったり出会ったことがあって、ようやく事情を飲み
込んだ柊である。
彼女もその一人なのだろう。抑揚からして高志の出らしい。
「今日はいつもよりは竹簡が少なめでした」
ただそう応じただけなのに、少女はうれしそうにころころと笑う。…慣れない邸に住み、
教わることばかりで気を張る毎日では、顔を見覚えた人物と他愛ない会話が出来るだけで
も楽しかろう。
その寂しさを思うとなんだか即座には立ち去りかねて、柊が惑っていると、かさりと物音
がした。
「……?」
二人顔を見合わせ、物音がした方を振り返る。今二人が立つのは邸の裏側にあたる庭で、
低い生け垣の向こうはそのまま山肌になっているのだが、その低い生け垣を跳び越えたの
か、一匹の子鹿が立っていた。
「…わあ…!」
声を上げたのは少女だった。
「お前、迷い込んできたの?」
子鹿は身じろぎもしない。二人に近づくことはなく、しかし逃げ出そうともしない。その
悠揚として迫らぬ態度に、柊はかすかな疑念を覚えた。
間違えて人の庭に入り込んでしまった獣、…それも幼い獣が、このように慌てず静かにい
ることなどありえるだろうか?
……それになんだろう、…胸に迫るこの、何か畏れのような予感は。
…これは。
「お腹空いてるの?どうしたの?」
少女が一歩、二歩、…子鹿に近づいて、……手を出そうとしたその瞬間。
「……!」
柊が彼女の手を払い、その身を抱えるようにして飛び退り畏まるのと、閃光が走るのはほ
ぼ同時だったように思う。

……ワレニフレルナ!!

頭の中に破鐘のように声が響く。眩暈にも似た感覚に襲われて、柊はうずくまった。腕の
中の少女はとうに気を失っている。
「何事です」
衣擦れの音がして、急ぎ庭に入ってくる人の気配を感じたが、顔を上げることも出来ない。
ただ、声の主が狭井君であることだけは、もうろうとした意識でもなんとなくわかった。
彼女はすぐに状況を把握したらしく、背後に付き従う何人かを小声で制し、子鹿の前に膝
をついた。
「代替わり、承りました」
子鹿が何を言ったわけでもないと思うのに、彼女はそうつぶやいた。その返答に子鹿も満
足したらしい、一飛びでまた山の奥へと消えていった。
その姿を見送ってから、狭井君は柊の前に急ぎ足で近づいて、腰を落とした。
「大事ありませんか、柊。…この子も」
気遣わしげな声に、何か答えねばと思ったのもつかの間、…安堵のためか、柊の意識はそ
のまま遠くなった。

目が覚めて見上げた天井に見覚えがない。
「……?」
今の状況が思い出せずに柊が額を押さえると、
「…気がつきましたか」
静かな声が傍らからした。
ゆっくりそちらへ顔を向けると、寝台の傍に憂い顔の狭井君が腰を下ろしていた。
「……狭井君」
彼女の顔を見て、少しずつ何が起こったかを思い出す。
「……ここは。……あの少女は」
柊の声が出たことで気がゆるんだか、珍しく狭井君が感情もあらわに安堵の色を見せた。
「ここはまだ私の邸です。岩長姫には一晩休ませると使いを出しましたから心配いりませ
ん。……あの子は、あなたがとっさにかばってくれたおかげで、幸い、大過ありませんで
した。あなたと同じく、強い神気にあてられたので気を失っていましたが、つい先ほど目
覚めて何があったかを一通り話してくれました」
ふう、と彼女は息を吐いた。
「…あの子が生きているのは貴方のおかげよ、柊。……ありがとう」
「……いえ」
まだ頭が少しぼうっとしていて、いつものようになめらかに返答できない。無理して話す
ことはないと言いたげに、ゆるりと狭井君は首を横に振った。
「春日の若宮は元々気性の荒い神でいらっしゃるの。まして今は御使いの代替わりで、い
ろいろと思うにまかせなくて、余計に気が立っていらっしゃるのでしょう。もちろん、御
使いに安易に触れるのは良くないことだけれど、いつもなら手をさしのべたくらいであそ
こまで怒りをあらわにされることはないのよ」
ふう。狭井君は再び息を吐く。
「…怖い思いをさせましたね。……いかな力があるあなたとはいえ、突然ではさぞ驚いた
でしょう」
「……力?」
柊はびくりとした。
星の一族の予見の力のことだろうか。いやしかし、自分はあの時、予見の力など使ってい
ない。
少しぽかんとしている柊に、狭井君は片眉を上げてから、あらあらと小声でつぶやいた。
「もしかして、まだ自分の力に気付いていないのかしら。……あなたは審神者の能力者で
しょう?…柊?」
「……」
審神者の力。聞いたことはある。示された力が神のものかどうか、判定する能力だと。巫
が神をおろしたとき、あるいは御使いとされる獣があらわれたとき、それが神の声である
かどうかを判断するのが審神者なのだと。そして、目の前のこの女性が審神者の君と呼ば
れていることも。……だが自分は。
「…私には、…そのような力は…」
迷うように眉をひそめ、ぼそぼそとつぶやく柊の声を、狭井君が遮った。
「ある、と思いますよ。普通の人間には、御使いの鹿とただの鹿の区別はつきません。だ
からあの少女も、安易に手を出したでしょう?神鹿と知って、それでもうかつにそのよう
なことをする愚かな娘ではありません。……わからなかったから、やってしまった。でも
あの子は、あなたは最初から、その鹿に少し警戒心を抱いていたようだったと言っていま
したよ」
よく見ているでしょう。元々聡い子なのよ、と狭井君は笑んだ。柊は曖昧に笑った。確か
に、たいした観察力だ。
「無自覚で、特に訓練もなしに、それでも神の力を察知できるのだとしたら、…あなたの
審神者の力はたいしたものですよ。じっくり磨けばいずれは、あなたは私の後継者となる
でしょう」
「……それを、お望みですか?」
柊は低く問うた。探るような言い方になった。
狭井君は再び眉を上げた。
「望むのは、私ではなくあなたよ。…あなたがそれを望むかどうか、それだけです」
きっぱりと言い切ってから、…ふと彼女は顔を曇らせる。
「……私は、あなたのことが時々不安になるわ」
「……?」
柊の寝台の傍らで座す彼女は、指を組んだ手を膝に置いている。…その手が、かすかに震
えている。
「……人は、欲があるのが普通です。欲という言い方が悪ければ、目標と言い直しましょ
うか。ある地位に就きたい、こういう仕事がしたい、あそこに行きたい、これがほしい」
あなたに、そういう欲はあって?
狭井君は静かに問う。
そして、柊の答えを待たずにまた話し出した。
「あなたの中には欲の代わりに虚ろがある。…虚ろはふらふらと軽いから、容易に運命に
身を委ねる。…それが身の破滅となる運命であってもよ」
「……」
「力を持つ運命が、真実のアカシヤとは限らない。…私はそう思います」
今度は柊はびくつかなかった。内心では、既定伝承のことなど知らないはずの狭井君から
アカシヤという単語が出たことにかなり動揺していたのだが、外にそれを出さずにいられ
る冷静さが既に戻っていたからだ。
「…何のことを仰っているのか、よくわからないのですが」
心許ない顔で首をかしげると、狭井君は静かに目を伏せた。…そして、柊の答えに対して
直接は何も言わず、
「今はとにかく、ゆっくりお休みなさい」
とだけ言い置いて部屋を出て行った。
寝台の傍らから立ち上がるとき、偶然のようにとんとんと上掛けを叩いた彼女の手が、己
が思っていた以上に老いていて、けれど思いがけず温かくて、柊は少し驚いた。

後に柊は、狭井君が元々星の一族の生まれであったこと、しかしその予見の力の乏しさか
ら、一族から離され、里子に出されたことを知る。
何の力もないと思われた少女はしかし、そのたぐいまれなる審神者の能力でもって、今の
地位へとのぼりつめたのだと。
…あれは、彼女の一世一代、唯一の予見だったのかもしれない、と、柊は思う。
その声をちゃんと聞いていれば、今頃友は、あこがれた美しい人は、己と共にこの大地に
立っていただろうか。
今となっては確かめる術もなく、聞こえるのはただ、友を呼ぶような鹿の声と、吹きすぎ
る風の音だけだけれど。