慈雨

雨が降っている。
那岐は回廊の端に立って、ぼんやりと薬草園を眺めていた。
薬草園は、那岐と遠夜で管理している場所だ。元々は宮に仕える采女たちの住まいに面し
た庭だったようだが、宮の主が千尋一人となり、仕える采女の数も減ったことで建物の中
がほぼ空屋状態になってしまい、必然的に庭も荒れ果てていたところを遠夜が掘り起こし
て整えたのだ。
もともと遠夜は、薬草は野山で採取するものだと思っていて、育てるということは念頭に
なかったようだが、山の土壌でなければ育たないものならともかくも、その辺の土でも育
つものなら手近で育ててしまった方がいざというとき助かるはずだ、という那岐の主張を
聞いて、それもそうだと思ったらしい。異世界の未来の植物生育知識を持つ那岐の手助け
もあって、手近なところから始めた小さな畑は、今ではそれなりに薬草園らしくなってき
ている。
忍人や千尋は、単に那岐は取りに行くのが面倒なだけだと笑うが、決してそれだけではな
い、…つもりだ。野生に任せていれば限られた季節にしか生の葉が手に入らないものも、
自分の手で育てれば、育てようによっては幅広い時期に多くの薬草が使えるかもしれない。
そうすれば、その薬で身体が楽になる人も増えるのではないかと那岐は思う。
雨は今、その薬草たちをしっとりと濡らしていた。ここのところよい日和が続いて、乾き
きっていた大地に、ゆるゆると雨がしみこんでいく。
もともと、薬効のある植物にはあまり水分を必要としないものも多い。厳しい環境で育つ
ことで力を蓄えるのかもしれない。
といっても、主に温暖湿潤な豊葦原に生える草木たちだ。乾燥を好む植物でも水分を全く
必要としないわけではないし、湿気を好む植物も多い。久々にまとまって降った今日の雨
は、まさしく恵みの雨だった。
那岐はゆっくりと深呼吸した。
春の雨は細かくて柔らかくて、新芽の香りがする。触れても濡れることなどないようにす
ら思える。思わず那岐が庭に一歩を踏み出そうとしたとき、回廊にこつん、と足音が一つ
響いた。
独特の音に、那岐ははっと振り返る。
鼓動が一つ跳ねた。
宮の中心へと続く建物から、影のようにも見える人影が一歩回廊へと踏み出したところだ
った。
一瞬、視線をさまよわせた彼は、すぐに回廊の柱の影にいる那岐を見つけて歩き出す。夜
空色の髪が少し濡れているのは、彼が外から戻ったからだろう。今日も兵士の鍛錬に出て
いたはずだ。
「…忍人」
彼が自分のところにたどり着く前に、那岐は彼の名を呼んだ。人気のない回廊は、少し離
れていても声を張る必要がない。いつもの話し声でも十分彼の耳に届く。彼はそれが常の、
冷静で少し厳しい無表情を、呼びかけに応えて少し和らげる。
「那岐」
返事の代わりに名を呼ばれて、那岐も小さく笑みをこぼした。
「もう鍛錬が終わる時間?」
忍人は那岐の傍らで足を止め、肩をすくめてみせた。
「いや、今日は早めに切り上げた。足元がぬかるんできて、ふんばりがきかなくなってき
たから」
忍人の返答に、那岐は少し驚いて目の前の薬草園を見た。
「もう、足元がぬかるむくらい降ってる?」
ここを見ている限り、そうは感じないのだが。
「見た目よりはよく降っている。…が、…そうだな、宮に比べると、兵達の演習に使って
いる原は池が近くて低い場所だから、雨がたまりやすいのかもしれない」
「そっか」
うなずいて納得してから、那岐は小さくふふと笑った。
「…?」
忍人がかすかに首をかしげる。その白い貌を、那岐は笑みを含んだ三日月の形の目で見や
る。
「なんでもない。…雨が降ってきたからじゃなくて、足元がぬかるんできたから鍛錬を止
めるっていうのが忍人らしいなと思って」
忍人は片眼をすがめて、苦笑に近い表情を見せた。
「雨でも戦を行わねばならないことはあるだろう。…ただ、状態の悪い場所で無理をさせ
て、怪我人を出すのも鍛錬の本意ではないから」
生真面目な返答がいかにも忍人らしかった。厳しい中に優しさが透かし見えるところも。
直属の兵達、特に狗奴の兵達がみな忍人に心酔するのもむべなるかなと思う。
暖かな気持ちを胸に抱きながら、那岐はまた薬草の庭を見た。忍人も傍らで同じ方向に顔
を向ける。
二人の間にほとりと沈黙が降りた。
春の雨は細かくて、降る音がほとんど聞こえない。その代わりに、芽がふわりと開いてや
わらかくのびていく音が聞こえるような気がする。
ふわり、ひら、ぴ、…と。
しばらく雨をただ眺めていた那岐だったが、どうしても気になることで胸がむずむずする
のを押さえられず、そっと、うかがうように口を開いた。
「必要な薬草でもある?」
「…?」
忍人は不思議そうに首をかしげた。
「…その」
那岐は言葉を探す。
「ここは宮の行き止まりだから、薬草を採りに来る以外に通りかかることなんてないだろ
うと思って」
言いながら、自分の回りくどさに那岐は眉をひそめた。いつもまっすぐな忍人だから自分
もまっすぐ聞けばいいのだ。
(ねえ、どうしてここに来た?)
それが出来ないのは、期待している返事があるからだ。期待している答えと違う答えを返
されてがっかりするのが怖いから、先手を打って、期待していない答えを投げる。先にあ
きらめておけば、がっかりも少ないはずと考えて。
臆病な自分を、那岐はこっそり笑う。
忍人は那岐の言葉が意図する問いを計りかねる様子で、かすかに首をかしげていたが、と
りあえずというそぶりできっぱりと首を横に振った。
「別に薬草は必要ない。君に会いに来た」
どきん。
那岐は、自分の鼓動が跳ねた音が、回廊中に響き渡った気がした。
「鍛錬から帰る途中、柔らかくて優しい雨だと思って空を見ていたら、君を思い出した」
忍人はゆっくりと語り始める。
「いつもなら自室か書庫にいるだろうが、こんな雨の日は、君もどこか外で、…おそらく
は君の気に入りの場所で、雨を見ている気がして」
そこでいったん言葉を切って、まっすぐに那岐を見返し、…柔らかく笑う。
「…そう思ったら不意に、雨の日の君に会いたくなった」
その顔は、反則だ。
「………」
那岐は何か言おうと口を開きかけ、
「………」
何も言えなくなって、ふにゃりと笑った。
………参った。
二人の間に再び沈黙が訪れた。庭に向き直る忍人の気配を肩で感じながら、那岐はゆるゆ
ると吐息をもらした。
期待していた返事だった。いや、期待以上の返事だった。……それなのに、…いや、だか
らこそ、ふつふつと心が惑う。
……ねえ、忍人。
………僕は、…もっと期待しても、いいのかな。
自分の欲深さを那岐は嗤った。
「……那岐?」
そっと名を呼ばれて、那岐は忍人に顔を向ける。案じるように、眉間に一つしわを寄せて、
忍人がこちらを見ていた。
「…難しい顔をしている」
指摘されて戸惑う。
地顔だよ、とごまかしたかったが、その深い色の瞳の前では、うかつなごまかしなど出来
ないことを那岐は知っていた。
だから。
「うん。…僕は、どうしてこんななんだろうって、考えてた」
那岐も、忍人のように正直になることにした。
「…?」
「忍人は素直でまっすぐだから、…きっとさっきの言葉に深い意味とか裏とかなくて、思
ったとおりに言っているだけだろうと思う。だけど僕は、その言葉をついつい深読みした
くなるんだ」
「…深読み?」
「…つまり……」
説明しかけて言い淀む那岐を見て、忍人は少し目を細めた。そして静かに、こつん、と那
岐の肩に額を乗せる。
「…っ」
那岐は鋭く息を吸った。
…鎖骨にかかる忍人の吐息が熱くて、胸が震える。
那岐の肩に額を預けたまま、忍人はゆるゆると話し始めた。
「…たぶん、君が思うほどには、俺は清廉な人間ではない。人並みに欲もある。…時間が
空けばいつでも、君に会いたいと願うほどには」
「………」
那岐は忍人の肩をそっと捕まえて、彼の顔を上げさせた。まっすぐに視線を交わし、少し
ためらってから、忍人の白い頬にぎこちなく唇を押しつける。
「…隙さえあれば、こんなことしたいって思ってるのも、僕だけじゃない?」
忍人は耳の先と目の縁をかすかに赤くして、伏し目がちに、けれどもきっぱりと微笑んだ。
「…もちろん」
「……」
那岐は、いつもよりも熱を帯びた忍人の頬に手を添えた。そして今度は、頬でなく唇に唇
を重ねる。

雨は音もなく柔らかく降り続ける。
何の花とも知れぬ白い花びらがほろほろと、二人を寿ぐように吹き寄せてきた。